ハンドゥレラ(アッラーのご加護で)

曇りだが、雨は止んだ。
昨日の帰り道からずっと「雨だったらどうしようか」と考えていた。「たまたまロケの日が雨だった」というのは内輪の都合に過ぎない。普段のロケは晴れを想定しているから、雨なら雨なりの効果を考えなくてはならない。待とうと思えば待つ日程的余裕はある。「晴れた日のどかな午後、片足と棒切れでピョンピョンと元気に動き回るハナン」か、「雨上がりのぬかるんだ庭先で、水溜りを避けるように片足と棒切れで歩くハナン」か-戦争から1年経って、自分たちが彼女から見るべき/汲み取るべきメッセージは何か?ずっと考えて、そして雨でもロケを敢行することにした。

09:00ハナンをロケ。
ハナンは昨日より笑顔が多かった。たまに思うことだが、こうしたこと-見たこともない外国人が大きな三つの棒を立ててガラスの筒を自分の方に向けている、自分のことについて何かいろいろ言っている-こうしたことそのものが、何も知らない子どもにとっては、興味というものが芽生えさせるひとつのチャンスなのかもしれないと。そう思うと、たとえ映像が陽の目を見なかったとしても、このロケにはやった意味がある、と救われる気がする。もちろん勝手な思い込みなんだけど・・・。

ファディはハナンの家族に対して否定的だ。なぜもっといい服を着せてあげないのかなぜもっといい食事を与えてあげないのか、なぜもっと温かい部屋を用意してあげないのか、なぜもっと熱心に医者に連れて行かないのか、、、彼らはハナンと姉妹に仕事しか与えていない、働き手としてしか考えていない、と言う。ハナンの祖父は90頭いた羊を半分売って、小豆色のBMWを買った。「ついでに若い女性と結婚したい!」なんて冗談を言って周囲を笑わせていた。
“Yes, they are rich. Why, Hannan?” と言う彼の意見を自分は黙って聞いていた。彼にはそうした意見を言う資格がある。そして、確かにそうかもしれない。でも、自分はこのイラクに住み、同じ歴史や文化、価値観の中に身を置いてきた人間ではない。ひとつの事実があって、なぜそうなってしまったのか、なぜそうしなければならなかったのか、自分たちには何ができるのか、ということを考える立場にある。ましてや、彼らを苦しめた側の人間だ。アドバイスはできても、彼らを批判するようなことは許されない。こう説明すると、ファディもまた黙っていた。

ワリッド父子に会いに金物街へ行く。金物街は活気を完全に取り戻し、新しい息吹すら感じた。サダム時代には、鉄の鎖を作る工房と金属廃材から塵取りなどの日用品を作る工房しかなかったのに、今では一般家庭用の金属の装飾品まで作っている。通りがバラエティに富み、景気も良さそうだ。サダムがいなくなって、彼らが自分たちの想像力と腕を活かして自由に働けるようになったのは間違いない。ここは完全に”復興”し、”自由”があった。

以前と違うのは、働く子どもが減って大人の姿が増えたこと。軍で働いていた人たちだ。ここはシーア派地区でかなり所得の低い層の人たちが働いている。ワリッドの父親を含め、なりたくもないのに軍にかり出されていた人たちも多い。戦後、親戚などを頼ってこの通りで働くようになったんだと思う。一方で、子どもたちはどこに行ったんだろうと思う。学校に戻ったのだろうか?それなら良いのだけれど。

ワリッドのお家訪問。父親インタ。ひとつ目の質問「戦争が起こった時、何を思ったか憶えていますか?」の後、2つ目「戦争が終わって疎開先のナジャフからバグダッドに戻ってきた時の気持ちは?」と聞くと、しばらく沈黙が続いて彼の目から涙がこぼれた。住み慣れた街は戦闘と略奪で破壊され、アメリカ兵に誰もが銃を突きつけられる。彼らの街も心も傷つけられてしまった。それでも、「ありがたいことに(=アッラーのご加護で)、今はこうして家族と生きていられる」と父は言う。「あなたのような外国のメディアの人に、本当の気持ちを言いたいとずっと思っていた」という言葉が痛烈な痛みを持って響く。

「日々少しずつ良くなっていると感じるし、ありがたいことに(=アッラーのご加護で)将来は明るいと思う。」-この答えは、アメリカとか新しい政府とかを云々論じる以前に、権力とは何ら係わり合いを持たない市民層が持っている感覚のひとつだと思う。高等教育を受け、所得もほどほどある層の人たち(ファディやディーナやハイダたち)とはまた違う。

腰の疲労がひどい。なんだかへとへとだ。

昨晩夜中からひどい暴風雨。初めての経験だ。朝になると、風は収まったが冷たい霧雨は断続的に続いた。

ファディとディーナと、ハナンに会いに行く。
ハイダがいないため、行き方が確かでない上に道路はぬかるんでいる。田舎の一本道はスペースがなくて間違えるとUターンもできない。ぬかるみにはまるわ、窓が泥だらけで外が見えないわ、着いた時にはもう4時を回っていた。

ハナンは元気だった。体の調子は昨年11月に訪問した時と変わらない模様。
『ようこそ~』と朝小と、お土産を渡した。
ちょっと面食らっていた、というかニコニコ喜ぶわけでもない、ムスッとしているわけでもない微妙な表情を見せた。この時ふと、「この子は自分の感情をどう表していいのかわからないのではないだろうか」と思った。相変わらず、学校には行っていない。ハナンの姉妹も全員学校に行っていない。本を読むことも、絵を描くことも、将来の夢を見ることもない視線・・・インドのアウトカーストの女性と子どもたちと同じ視線だ。アウトカーストの子どもたちに「将来の夢は?何になりたい?」と聞いた時、彼は質問の意味を理解できなかった。「夢」という意味がわからなかった。自分の親がすること以外は何も知らないし、想像することさえない。それを否定するわけではない。これもひとつの”生”だ。でも、願わくは、願わくは「この色が綺麗」とか、「この歌が好き」とか、「こんなことをしたい」とか、「こんなふうになりたい」とか、夢とか希望を描ける能力とチャンスを与えてあげたい。それができるのは、国際規模の支援だけだ。アフガンでできたことがイラクでできない-無念、憤り、失望・・・入り混じって胸につかえている。自分たちの大きな罪だ。

この日記ももう「30」か。サダム時代、開戦直後のクルド、バグダッド陥落直後も数えたら倍以上もこの国とこの国の人たちを映像におさめてきた。いろいろと対外的な理由を付けてはいるが、自分を取材にむかわせる本当の理由は、この『胸のつかえ』だ。この胸のつかえが取れるまで、自分の中にある渇きは癒えないと思う。

そういえば『ようこそ~』の家族写真にはみんな覆いかぶさるように見ていた。自分の姿が、見慣れない「本」の中に他の人たちの姿と並んで載っている。こんなシンプルなことでも、刺激になるのかもしれないなあ。

大きな瞳

インターネットカフェにたどり着いたときには、もうへとへと。
さんざんロケしたあとに、バグダッドまで4時間強のドライブ。高速道路は、米軍によって途中2箇所ほど通行止めにされ、その都度迂回を余儀なくされる。これがまた強盗が出てきそうな田舎道だから、余計緊張して疲れる。ファディは銃を構えるわ、それを見てディーナは隣りでまた吐きそうな表情になるわ、バグダッドに着いて車内の空気が和んだ時はホッとした。

それにしても、笑いの絶えないいいチームだった。行きこそドタバタだったが、それぞれ周囲に気を使いながら自分の役割を楽しんでいたように思う。最初はドライバー、転じてADになってしまったディーナの兄マハシン。建築工学を学んだ彼に、水道施設や建物の知識を教えてもらいながら取材を進めることができた。押しが弱そうな雰囲気の持ち主だけど、とてもまじめで勉強熱心な人間。カブールのハナカーに似ている。

こんなふうに異国の地で、これまで出会った人たちのことを思いがけず思い出すことができるのは本当に幸せなことだ。

普通、取材チームは男所帯。ディーナは100人以上いる取材陣の中で唯一のイラク女性だった。しかも、化粧をしたちょっとモダンな女性となれば、周囲の興味もおのずと集まる。英語が通じるから、外通の連中は気さくに話かけている。他チームのイラク男性スタッフたちのうらやましそうな視線が面白かった。

サマワ郊外の村の小さな学校をロケ。
今、イラクの学校はちょうど中間テストの時期。3年生の算数のクラスにおじゃました。先生に名前を呼ばれた生徒は黒板の前に出て、口頭で出される計算問題を黒板に解答する。解答が終わると席には戻らず、そのまま教室を出て行って帰ってしまう。合理的といえば合理的だ。

子どもたちの表情は素朴で実にかわいらしい。ズームしたファインダーの画をパンしていくと、見たことのある口元にほくろ・・・昨日畑で出会った少女だった。一見気が付かなかったのは、今日は頭にスカーフをかぶっていたからだ。

あまりに美しい瞳、すいこまれる。大きな黒いダイヤモンド・・・いや、そんな陳腐な例えで表現できない。自分は、新たな生きる楽しみを見つけた子どもたちの瞳が大きく呼吸をしてキラキラ輝くことを知っている。しかし、この少女の瞳は新たに生まれた希望によって輝いているのではなく、希望とか未来という存在そのものの美しさような気がした。今はこれ以上うまい表現が見つからない。とにかく、びっくりした。

州知事のインタで時間をつぶす。待つこと1時間半、インタビュー10分。彼は具合が悪かったということもあるかもしれないが、カルバラで出会った冷たい目をしたシーア派の人たちと同じ目をしている。「イスラムを汚す者がいれば、指導者の名において我々は行動する」というオーラを発している。自分の思想や考えが最上なのだと考える怖さを感じる。サマワは明るく穏健で平和な町だが、宗教的にはけして楽観できる場所ではない。社会の基本単位である部族を見ても、ティクリートなどスンニ派地域に比べ、宗教的縛り/影響が強いように思う。

町雑観を撮影して、サマワをあとにした。
また戻ってくることがあるだろうか。

Media circus

実に愉快な1日だった。
のんびりとしたイラクの田舎町サマワでちょっとしたメディア狂想曲が繰り広げられている。自衛隊がどう動くか、メデイアは基地の外でさわさわしながら待ち、自衛隊が動けばみんな走り出して車に乗り込み、その後に付いて大移動が始まる-”Media circus.”自衛隊の取材に来ている報道陣は国内外合わせてざっと30人。先遣隊1人に1人の割合だ。イラク人のドライバーや通訳を含めるとその数は 100人を超えると思う。それらが自衛隊の動きとともに大移動する。自衛隊は安全に関わるという理由から、いつどこで何をするということは一切伝えない。情報がないからメディア側はついて行くしかない。自粛というのはいったい誰に決定権と責任があるのだろうか?ものすごくあいまいだ。しかも権力を持つ側が声高に叫ぶのは民主主義国家のすることではない。出したくないなら「今回は〇〇の理由から一切広報はいたしません」と言えばいいのではないだろうか。自衛隊側はとにかく「安全第一」何でもかんでも「安全」に関わる問題として伏してしまうのはあまりに雑だし、幼稚だし、甘い。ロイターやAPにそんなことを言っても理解されるわけがない。『雅子さまご懐妊』というニュースがいい例だ。国内メデイアにしても外通が自衛官の様子を流すのに指をくわえて眺めているわけには行かない。誰もがここに仕事をしに来ている。ルールは守ろうとしているし、自衛隊のイラクでの活動を失敗させてやろうと考えている人よりは成功して欲しいと考えている人の方が多いと思う。正直、何を伝えて/撮って良くて、何がオフレコなのか、みんな計りかねている様子は気の毒だ。

「これは撮ってもいいとか、ここはダメとか具体的に示して欲しい」
「すべてのメデイアをひと括りにしてダメと言われてもわからない。ダメなものがあれば何月何日の〇〇新聞/局のどれそれと指摘して欲しい」
「何を食べたかということも“安全”にかかわることですか?」
「メディア側全員が彼らの会見に一切集まらないとか、われわれが自衛隊のすることを無視すれば、彼らも焦ってきちんと考え始めるのではないか」という、いかにもジャーナリスティックな意見もでた。フランスとか英国など、「広報」「国民への説明責任」「公僕」という概念のある社会的先進国ならありえるかもしれない。日本ではそうした概念が薄い、というかほとんど口先だけで中味はない。「効果のほどはあるか疑問」というのが、ある日本の記者の考えだ。
イラク戦争報道の大混乱の一端がここにもある。

10: 15 テレビ東京にLIVEを入れる。現場にて1人でライブスポットに行き収録したのは初めてだったのでいい勉強になったし、生感覚が面白かった。「原稿見ない方がいいですよ」という一言を貰った時は「大丈夫かな」と思ったが、逆に腹をくくってやれた。ラジオ生番組の気軽さが自分は好きだったけれど、それに近い感覚があった。出川さんなどは短くポイントをまとめてわかりやすく伝えるのがとてもうまい。これからもっと勉強していきたい分野だ。

中継の後、NHKと昨日の部族長会議の映像配信の話がまとまる。「貴重な映像」と理解してもらえたことは率直にうれしい。「当然」という思いもあるが、自分の場合、過信するのはそれこそ「自粛」した方がいい。

コンクリート工場を見に行く途中、サマワ郊外の農村を撮影。素朴さがとても美しい少女達に出会う。彼女たちは学校に通っているのだろうか。どんな学校に通っているのか、と気になってコンクリート工場の取材をキャンセル。村の学校へ。

小さな村の小さな学校。教室の床は直に地面、激しく剥がれ落ちた壁の塗装、割れた窓ガラス。相当使い込まれた黒板、黒板のない教室もある。サダム時代に入れたという机とイスは比較的まともだ。始業終業を知らせるベル、電気(スイッチなども)、トイレは新しくされていた。昨年12月、オランダ軍から修繕費として500ドルを寄付されて校長先生が発注したと言う。目新しいトイレだが、水が来ていないため使われていない。水道管は来ていて、屋根の上にタンクもあるが、ポンプがないから吸い上げられない。これぞ「絵に描いた餅」だ。

村に水を送っているサマワ市内の給水施設を見に行く。巨大なタンクだが、中は空っぽ。大元の飲料水(地元ではフレッシュウオーターと言う)用施設のキャパシティが小さく、水が送られて来ないためと言う。村への給水は夜間 2、3時間しか行なわれない。施設内にはもうひとつ生活用水の小さなポンプとタンクがあって、こちらはユーフラテス河から引いてきている。水道施設の復興はほとんどゼロから取り組まなくてはならず、大規模なプロジェクトを組まないと実現しない。これは簡単なことではない。

オランダ軍に対して、結構やれることはやっている印象を受ける。それでも「何もしていない」と言われる。日本は給水事業をやると言っているが、市民の期待に沿う規模にはならないだろう。そうなった時、サマワの人たちから「何もしていない」”useless”という評価を受けてしまったら・・・双方に気の毒ではないか。

町一番の喫茶店でロケ。実はみんな、日本について、車と電化製品以外ほとんど知らない。日本が中東にあると思っている人がいたのはおかしかった。総じて友好的だが、中には他の国と同じで石油目当てだと声を荒げる人もいた。バグダッドやティクリートなどでは、こっちの意見の方が普通だ。サマワに来てから、誰もが一様にウエルカムだったので逆に新鮮だった。議論が熱くなって収拾がつかなくなったので撤収。

フランクな関係

どたばたといろいろアクシデントが重なって結局バグダッドを出たのは12:00過ぎ。15:00からの部族長会議は完全にミスったかと思ったら、サマワに16:00前に到着。ロケは奇跡的に間に合った。まったくこの人たちは帳尻合わせの天才だ。

日本のメデイアを始め、たくさん来ていると聞いていたが、ふたを開いてみたら海外メディアは自分だけ。これって価値があるのかないのか判断つかないなあ、などとちょっと心配になったが、まあexclusiveだし、いいことだ。記録としては面白い。他はどうしていたかというと、自衛隊とオランダ軍、そして州知事との会見の方に皆ついていったそうだ。部族長会議は無視された形になってしまった。まだ、日本側から会見等に関する接触はないと言う。

ファディ(セキュリティー・オフィサー兼マネージャー)、アブドゥラ(運転手)、ディーナ(通訳)、マハシン(ディーナの兄、運転手転じてアシスタント)、そしてサマワに着いてからガイド役のウィリアムを拾って、取材チームは総勢6人の大所帯。ワンマン取材のはずなのになあ、なんでこんなに大勢なんだ?ロケが間にあったことが彼らをホッとさせていた。皆、気が合っているようで夕食もワイワイ、会話も弾んでちょっとしたツアー気分。雰囲気が良いのは実に好ましい。

先週、飯田さんと来た時は停電が1回しかなかったのに、今日は4回。サマワ市街は電気、水ともにアル・シャウベなどに比べて良い方かと印象を受けたが、やはり不安定と見るべきなのかもしれない。自衛隊が来たその日に何度も停電になるなんてまるでジョークだ。

夕食後、町で一番大きい喫茶店を見学。水パイプをふかしながら、男たちが衛星テレビを見ながら、おしゃべりする社交場だ。壁には、なぜかブルース・リーの映画のホコリで色あせたポスターが何枚も貼ってある。皆笑顔で迎えてくれるし、ものすごく友好的だ。

夜9: 00すぎ、店も数軒の飲食店しか開いていない時間帯になっても通りを安心して歩けるなんてイラクでは特殊な状況だ。ファディとアブドゥラは通りをスキップして渡ったり、少しも緊張したところがない。いい町だ。状況は変わるかもしれないから油断はできないけれど、自衛隊には一日も早くこの町の人たちとフランクな関係を築いて欲しい。そう、”フランクな関係”だ。

ただ、無防備すぎる町と市民の雰囲気に、いちまつの不安を感じないわけではない。

ホテルはどこも満杯で、一番最後にサマワ入りしたであろう自分たちは見つかっただけでもラッキーだったかもしれない。日本のようにお金を払うことなしに予約などはきかない。アパートメント型のホテルはかなりボロ。お湯は出ないし、トイレの匂いも結構気になる。それでも陥落直後のカブール、『スピンザールホテル』の幽霊が出そうな部屋よりはましか。2部屋2晩で70ドル。ちょっと高いかな。

明日、『ニュース・アイ』に電話レポートを入れることになった。リラックスした環境を作ってくれるいい枠だ。自衛隊の方は配信映像があるようなので、一方のサマワの人たちや町の様子やメディアのフィーバーぶりを伝えてほしいと言う。部族長会議や友好的な雰囲気を素直に伝えればいいと思う。原稿用意しなきゃ。

そういえば、部族長の1人が特に若者に職を与えて欲しいと言っていた。ウィリアムはオランダ軍基地で仕事を得て、明日から働くそうだ。ガイド役は終わり。大のシェークスピア好きの父がウィリアムと名付けたと言う。とても素直な性格の持ち主だったから少しさびしい気もするが、きちんとした職を得られたのは彼にとって好ましい。心からがんばって欲しいと思う。

視界が開けた

朝4時に出て、きっかり10時間。とてもリズミカルなドライブだった。ファディから借りた枕のおかげでぐっすり、9割は横になって寝ていた。

戦争後これまで気が付かなかったが、国境には両替所があった。
日記を書き始めてはきだしたからか、頭の中がとってもクリアーだ。バグダッドがなんだかこれまでと違って見える。あるいは、自分と違う人/飯田さんという視点で見てみたからか、視界が開けた感じがする。戦後イラクの「日夜続く米軍や警察への攻撃」「自爆テロ」「回復の目処の見えない治安」ということばかりに目が行き、気が付かないうちに見方が治安の一点に凝り固まってしまっていたのかもしれない。前回来た時、最後の方はストーリーが浮かばなくなってきていた。イメージがいっぱいいっぱいになり、一種の閉塞感を感じていた。「復興の兆し」を見てとることなど思いもよらなかった。

いや、その兆しは実は示されていたのかもしれない。ワリッドたちの金物街だ。あの時は、「サダム時代と比べて」→「変わっていない」と位置づけたが、誰もいなかった「戦争直後と比べて」だったら「大いに変わった」ということになる。

バグダッドの見え方/イメージが一気に突き抜けた。
今バグダッドは、実はワリッドの取材をした時期のバグダッドに似てきている。つまり、ノーマルシーを取りもどしつつある。少し楽観的すぎるかもしれないし、先行した見方かもしれないけれど、治安オンリーの見方から少し広げて人々の生活を検証してみる時期と位置づけてもいいかもしれない。まだ確信を持つまでには至らないのだが。

警察機構が整ってきたということもあるのだろうか。だとすれば、イラク人の手による治安維持が機能し始めた―というメッセージを伝える取材対象として成立する。

また、米兵を取材したいとも思う。きっと、1年前と今の兵士とでは心持ちが違うだろうし、考える余裕も出てきているのではないだろうか?恨まれている、嫌われていることをどう消化しているのだろうか?楽しいのだろうか?

取材チームの動き方をかえる必要を感じる。今こそ、ワリッドを取材した時のようなスタンダードな形が望ましい。車とドライバー(できれば英語ができるのがいい)はいつもスタンバッておく必要がある。ファディやエヤットやタラルでは他の用事があったりしてNGだ。サマワから戻ったら、滞在先もアダミヤやカラダ近辺、センターに近いところに切り替えよう。

楽観はできないし、油断は禁物。だが、もう知らない街ではないし、友人も多いし馴染んでいる。なんだか安心感と安定感がある。これが「根を張っている」ということなんだ。いい時期だ。発想と行動に自由を与えてやるべき時期なんだと思う。

朝、Breaking Newsでバグダッドの自爆事件を知る

朝、Breaking Newsでバグダッドの自爆事件を知る。ティグリス河を渡ってグリーンゾーンに行く途中、現地時間で午前7時過ぎ。いろんな意味で戻る意欲をざっくりと削ぎとってくれる出来事だ。今日一日部屋にいてこのニュースばかり聞いていた。いい加減いやになって、フランス語映画にチャンネルを合わせる。何を言っているかわからないが、静かな音楽のようでホッとする。

昨晩、アブドゥラがアンマン出発時間を変えると言ってきた。いつも夜10時とか11時に出て、バグダッドに朝9時とか10時に着くスケジュールだが、今回は朝4時に出て、午後2時か3時に着く予定にした。

悪いことは何でも関連付けて考えてしまう。今日の爆発は朝だ。もし、昨晩夜発のスケジュールだったら、直に爆発に遭遇することはなかったとしても激しい交通マヒに遭遇していたと思う。昨日アンマンを出る朝、珍しくアブドゥラが1時間遅刻してきた。米軍のチェックポイントで多くの車が止められ、入念なチェックを受けたらしい。そんなこともあって時間を変更したのかもしれないが、彼らは匂いと言うか何か警告めいたものを嗅ぎ取るのかもしれない。

夕方、栄花さんに電話するも留守。
サングラスを買いにオールドタウンへ。高台から坂を歩いて下って行った。斜面に建つ家々と坂の風景を眺めながら、なんとなくモロッコ・タンジールの街を思い出した。あれもいろいろ大変だった。日の落ちたアンマンの街、取材先で夜の街をこうしてゆっくり歩いたのは、いつぶりだろう。

ホテルのレストランで、いかにも冷凍もののパテを使ったビーフバーガーを食べた。

Report for The Big Brother in Iraq PART-2

サマワ視察報告
●サマワ概況
<バグダッドから>
車で通常は4時間弱。ただし、高速道路は米軍によって通行止めになっている区間などがあり、
迂回するため1時間ほど余計にかかる。
<ムサンナ州>
州都サマワ他8都市で構成。
<ムサンナ州知事>
ムハマド・アリ アル アブ ハッサン氏
<サマワ市長>
アル・ダファイ氏
<サマワ人口>
70~80万人

14日
●部族長訪問
[会見相手]
サディク・アブドゥル・アル・ムサウィ氏(62)

[解説]
ムサウィ氏は、サマワとその周辺にある12の部族の連合体”The Independent Iraq Gathering (「独立イラク連合」)”の議長。同団体は1991年 シーア派の蜂起後にサウジアラビアのラファ・キャンプ(イラク人難民キャンプ)で設立された。同グループは1992年9月以降、イラク国内にて活動。宗教属性はナジャフのシーア派。
<部族(長)名>
① アル・ドゥワーリン・チアド シャーラン アブアルジュン  
② アル・アブジェヤ-シュ・アリ アジャ ダーリ  
③ アル・ガニム・ヌーリ アザラ マージョン 
④ アル・ズィアド・カーディム アルファハド 
⑤ アル・アバス・マリク アブド ハシム 
⑥ アル・トバ・ムハシン アルシャーバン 
⑦ アル・チュワブ・ラヒーム ⑧アル・ムハシン・マジッド ミズィアール アルハムド 
⑨ アル・マジード・カリム ラハディ マトラブ
⑩ アル・ブラカット・カザール アル・アナド
⑪ アル・ブ ハサン・ムサ アル・アナド
⑫ バニ ズリージ・アドナン アル・ハワム

[会見内容]
・平和的で、この街の建物を造ったり、道路を造ってくれたりしにくる人たちは歓迎する。
・何日か前、日本が軍隊を送ることに反対しているという3、4人の日本人のグループが来た。彼らから、日本の軍隊が来る前にサマワの人たちにはデモなどの反対キャンペーンをして欲しいと要望される。しかし、自分たちは日本の軍隊がサマワの街をたてなおすために来ると思っているので、そのようなお願いはお断りした。
・日本の軍隊を占領軍とは思っていない。戦かったり、イラク人を傷つけるためにくる人たちではないと思っている。道路を整備したり、オフィスを造ってくれたりすることを期待している。
・治安については心配ない。日本の人たちのために、地元警察、治安部隊、必要なものはすべて用意する。
・造るのは、水の施設だけなのか?単に兵士が来るだけなら私たちには必要ない。
・戦争が終わって7ヶ月間、米軍やオランダ軍に対する攻撃はない。
・日本の会社は、いつ来るのか?
・自分たちの安全を守るという理由で兵士が来るのであれば、イラク(軍)の兵士と(イラク人も雇って)いっしょに働いてくれることを望む。(→オランダ軍は新イラク軍の訓練を行っている。)
・日本が来てくれたら本当にうれしい。
・1月20日(火)15:00より、サマワ地域12の部族の長が会合を開く予定。

●市内の様子
<市場>
生鮮食料品、日用雑貨、あらゆるものが種類、数ともに豊富。自転車店目立つ。自転車はサマワ市民の足。
<連合軍の輸送路>
クウェートからと思われる物資(石油)のトラック車列が多いときは一日中、目抜き通りを通過。
<鉄道>
サマワ駅。貨物輸送にのみ使用されているが、頻度はかなり低い。
<オランダ軍>
本部は街の中心。駐屯地は中心街から車で10分ほどの郊外“スミティ・キャンプ”。町中でもヘル
メットをかぶらずに素頭。
<ICDC>
IRAQI CIVILIAN DEFENCE CORP.(新イラク軍)。 オランダ軍によって訓練受けている。

●若者たちと夕食会
[目的]
日本が来ることについて、どんな情報をどの程度持っているのか、および地元の若者の率直な思いを聞く。

[参加者]
オディ・メジット(29)・・・未婚、無職。
アラ・ナサル(27)・・・未婚、職業は検察官。
モハナド・アリ(28)・・・未婚、技術者としてサマワ通信郵便局に勤務。
ハイダ・ラザック(35)・・・既婚、無職。政治犯として2年間投獄される。左腕前腕部に拷問痕。2002年9月恩赦で釈放。
アベット・アルラティク・ラザック(27)・・・未婚、無職。以前は新聞販売業。

[内容]
・日本の軍隊はオランダ軍やアメリカ軍のような占領軍ではないはず。
・日本の軍隊といっしょに日本の企業が来るとテレビやラジオで聞いた。
・市役所の職業課の人たちが言っている。
・日本の軍隊の中の、建物の修復や水道施設を作る部隊と、その部隊を守る(自衛する)ための
部隊が来ると聞いている。
・結婚にかかる費用は、2~3,000,000ディナール(2,000ドル前後)。
・彼らが中流と感じる生活を送るのに必要な月収は、400USドル。
・とにかく働きたい。
・(サダム時代に)大学に行って、学費を払って単位をとってきたのに、憤りを覚える。あの時のお金を返して欲しい。

15日
●サマワ新聞社訪問
[会見相手]
編集長 ナファー・アル・ファルフーリ氏(34)

[会見内容]
・日本の軍隊は、自衛のために来る軍隊である。
・日本人にはいいイメージを持っている。
・日本の軍隊が来るのは、サマワが安全だから。
・何らかの形で、お金を落としていってくれる。
・ひと月ちょっと前、ラマダン中に日本の軍隊が来ることを知った。
・サマワ/ムサンナ州にはイラク最大のコンクリート工場やソディウム塩、それに石油、ガスもある。
・町のバスケットチームが『日本の友だち』というグループを作った。州知事に日本への要望書を書いて渡した。
・テレビ、ラジオ、インターネットの設備が欲しい。特にテレビの放送機材が望まれる。
・オランダ軍と協調して6ヶ月間、8月(米軍とオランダ軍の駐留期限契約による)まで活動するのではないか。その後は米軍が受け継ぐはずだが、日本は残ると思う。
・駐屯地はサマワ郊外にあるし、砂漠地帯にあるから安全。
・サマワには多くの軍隊が来て、そしてビジネスマンもやって来られるようになる町だと思う。

●サマワ市職業安定所訪問
[会見相手]
所長 ムハマド・ナスィール・アル・フセイニ氏(65)
副所長 ナスィール・カディム・ファルフーディ氏(62)

[概況]
職業労働省管轄で、今年1月7日開設。
名前や専門などを用紙に書いて登録。同所では、どんな仕事をできる人が何人いるかを把握して要請に合わせて募集、派遣する。
1日500~600人が来所。5つある窓口には人々がごった返す。
1 月初め、駐留オランダ軍から5000ドルの寄付を受け、ビルの修繕、コンピューター3台とコピー機1台を購入。コンピューターは州政府が用意した4台と合わせて計7台。しかし、オペレーターは女性1名のみ。コンピューター技術者を養成するためイラク国外に数名を派遣している。

[会見内容]
・イラン・イラク戦争の時は、みな兵士だった。91年以降は、特に農業の仕事が盛んで雇用はあった。92年の反政府動乱の後、バース党員だけが優遇されて職を与えられるようになった。
・職種は、運転手、技術者、大工、電気技師など、何でも対応できる。
・オランダ軍は治安維持活動をする兵士たちだから、雇用機会が広がるとは期待していなかった。
・まだ日本の軍隊を見たことがないので、イメージがわかない。
・日本の軍隊が来たからといって、すぐに雇用があるとは思っていない。働き口が増えるかどうかは実際にはわからない。たとえ雇用は創り出せなくても、職業訓練センターのようなものはぜひ欲しい。
・アマラ(バスラ-サマワ間の町)にある小児科病院が日本に支援されてできたことは知っているが、日本に支援された病院があることは、知らない。
(→ 市内のユーフラテス河沿いに、86年に日本の援助で開設されたサマワ総合病院がある。一部メディアでは、対日感情が良い要因の一つとも言われている。しかし、当時のサダム独裁政権下では日本の援助によって造られたということは公表されていなかったと考えられる。一般市民は知らない可能性がある。)

●オランダ軍キャンプ・スミティおよび自衛隊宿営予定地視察
[概況]
町から車で10分ほど、サマワ駅を越えた広大な平地に位置する。自衛隊宿営予定地はほぼ隣接している。周囲に何もなく、360度見通しがきく地形。

[会見相手]
オランダ軍 ハルシンガ広報官

[会見内容]
・自衛隊とはお互い協力し合いながらうまくやっていける。
・オランダはカナダやポーランドなどと並んで平和維持活動の経験がある国。自分たちが日本側に教えてあげられることもあるし、日本側から教わるところもあるはず。それが連合軍という意味。

16日
●在バグダッド日本大使館訪問
[会見相手]
松林健一郎 1等書記官

Report for The Big Brother in Iraq PART-1

車に乗り込んだ瞬間、糊付けされた紙がばりっとはがされたような感覚が自分の中に奔った。車窓に流れるオレンジ色がかった高速道路のコンクリート壁、運転するアブドゥラの横顔、いつもと変わらない風景だ。またひとりか。助手席に座るべきだった。シートに散乱したミネラルウォーターのボトル、色が抜けたような無機質さ。一気に色気が抜けてしまっていた。・・・飯田さんは無事飛行機に乗れただろうか。まったく最後までせっかちな人だったなあ。


ことの起こりはこうだ。
12月初め、飯田さんから電話がかかってきた。懐かしいあのだみ声で「おい、イラク行くどお、連れてってやー。」帰国して間もなく、ティクリート・ルポの配信作業をしていたときだったから、まだ現実的に考えることはできなかった。

12月、クリスマスを前にして、サダムが捕まった。
この出来事はイラク戦争の余熱を急激に奪ってしまうかもしれない。アメリカへの攻撃や外国人を狙ったテロが収まるのか収まらないのか、情勢がどうなるにせよ、イラクに戻って取材を再開しなくてはならない。
その後の2,3週間は、イラクの治安に関して自分がまったく予見のできない状況が続いた。さすがにそんな状況では取材に出ることはできなかったが、理由はもうひとつあったと思う。前回米兵の襲撃現場に走って行った時のことと、そして結果的に人が亡くなったことで自分のレポートが世に出たということを自分自身が看過/消化することができなかった。

編集から放送本番まで、何度も何度もあのシーンを見る。そのうち慣れるかと思っていたけれど、慣れるどころかどんどん息苦しくなっていく。映像を見た人たちから口々に「危ない」とか「すごい」とか「怖い」といった言葉を耳にしていたが、「敵」扱いをされて銃口を向けられたことがトラウマとなっていたわけではなった。それは看過/消化できない何かの一角にすぎない。本当にトラウマとなってしまっていたのは、あの時、家族に「さよなら」をしてしまったことだった。映像を見るたびに、自分の愚かさを見せつけられた。「なぜ、『さよなら』してしまったんだ」「『さよなら』をしたなら、なぜ、おまえは生きて帰ってきたんだ」-四六時中、自分へ問いかけていた。自分に与えられた幾つかの命に対して、勝手に袖をふった罪は大きい。もうぬぐい去れないかもしれない。クリスマスの礼拝は、その罪を懺悔する機会になってしまった。懺悔するクリスマス・・・初めてのあの時以来だ。

日本の外交官2人の死に関する報道や組織の対応、日本の一般市民の反応にはやりきれなさと物足りなさと、情けない気持ちや申し訳ない気持ちがごちゃ混ぜになっていた。彼らが亡くなったことによって番組が成立したのは事実だが、考えてみれば、これまでだって戦争やなにかで誰かが亡くなっている状況の中で取材が成立し、番組が成り立ってきたことに違いはない。でも、今回は周囲の受け止め方を含めて、より身近な出来事だった。そして「日本の外交官が殺されたから」ということが番組成立理由のほとんどすべて。逆に言えば、「亡くならなければ実現しなかった」番組かもしれない。にもかかわらず、自分も含め日本のメディアが徹底的に真相を取材するわけでもない。できない理由はそれぞれあっても、そんなものはジャーナリズムには関係ない。真相究明の努力もしない番組に、故人を知る人たちが出てきて勝手な意見や気持ちを恥ずかしげもなく語る有様は醜悪そのものだった。現場取材はしないくせに、遺族には野次馬のように付きまとうカメラには吐き気さえもよおした。『クロ現』の制作現場が真摯な態度だったことはせめてもの救いだったが、それでさえ電話取材でしかない。そして自分は間違いなくその一味であり、映像が売れてお金が入ってきて助かる張本人なのだった。人の血で成り立つ生き方・・・いったいどれだけの血を流せば終わるのか?体の内も外もザラついていくのがわかった。

自衛隊派遣に関しては、残念な思いとともに政治家のばかばかしい論議に辟易していた。日米の対等な関係を標榜すべき、などと考えているのはこっちだけだ。国連主義を唱えながら、日米安保は基本と言う。現実味もないし、とても真剣に「変えよう」としているとは思えない。本当に口先だけ、軽薄なパフォーマンスに過ぎない。
サマワにはもっと興味がなかった。自衛隊が行くとなれば日本の他のメディアも行くだろうし、インデペンデント・プレスが出る幕ではないという気もしていた。日本の番組基準に寄りそうのではなく、前回までの取材をまとめ上げる必要がある。ただ、局側には外交官殺害事件とサダム拘束という出来事をへて、彼らのイラク情勢に対する興味も広がりを見せている感があったし、サマワ取材はオーダーがあれば・・・ぐらいに考えていた。売れるにこしたことはないのだから。

そんなモチベーションの低さの中で、サマワ行きを実現したのは飯田さんの“熱き思い”に他ならない。彼の立場なら、自分たちの送り出す日の丸軍隊がどんな意味を持ち、どんな環境で活動するのか、自分の目で見て、匂いをかいで、肌で感じて、的確に認識したいと願うのは自然なことだ。道理に合っている。それなら、お手伝いしなければならない。でも正直、かなり不安だった。まず、彼への手紙にはこう書いた―「私自身、始めから同業者以外をお連れすることは初めてです。イラクの一般市民の暮らしを精一杯感じていただきたいと思います一方、不安もございます。他の場所のように『ご安心ください』とは申し上げられませんが、現地では確かな人間たちが支えてくれます。いろいろ至らない点はあると存じますが、どうかお許しください。」
それから、彼の視点にまかせてサマワとイラクを見てみることが、自分にとっていい勉強になると考えたことは大きい。とにかくこれまで経験したことのない機会、自分が及ばない力でグシャグシャにされるような機会を求めていた。彼への手紙には、正直にこう書いた―「私は旅行手配を生業とさせていただいている者ではございませんし、私の所属するインデペンデント・プレスが責任を持つことができる案件でもございませんので、私の希望でご同行させていただくという心つもりでおります。」いつものように直前まで決まらない予定・・・それでも飯田さんはじっと耐えてこちらからの連絡を待っていた。けしてフリーな時間を多く取れる人ではないにもかかわらず。意思確認など細かく話していたわけではなかったけれど「この人はいっしょに行ける人だ」と確信できた。

ファディとの連絡はなかなか取れなかった。連絡役はまずアブドゥラ。彼がアンマンにいれば到着予定を伝えられるし、ファディへも連絡してくれる。でも、今回は2日前までつかまらなかった。こんな時、スラヤを持っていないファディと連絡を取るには苦労する。エヤットの自宅電話にはこちらから国際電話ができるけれど、彼も家族も英語がまったくNG。一家が無事かどうか確かめるのがやっとだ。ハイダにメールするが、新しい職場で働き、婚約者もできた多忙な彼が対応できるかどうかはわからない。ファディの会社『アリハ』に電話して、ほとんど単語状態の英語で話す。すると「彼らはスレマニアに行っている」と言うではないか。バグダッドに居るかどうか大丈夫かなあ、と思ったが何とか到着する日時を伝える。翌日深夜、ファディから電話がかかってきた。「ケーンジ、ケーンジィ、アイ・ミス・ユー」優しい声が受話器から聞こえた時、彼の頬の鬚の感触が自分の頬に甦ってきた。バグダッドへの帰還を彼は心から喜んでくれているようだった。これでまず安心だ。

成田で落ち合わせた時、飯田さんはすでに関西から列車での長旅を終えたところだった。便は限られるが、関空からドバイ経由にすれば良かったかもしれないと思う。
自分は、礼節が行き過ぎて気を使う状態になるとロクな仕事ができない性分だと自覚している。でも、14時間のフライト、パリでの長い乗り継ぎ時間を消化していく中で、自分が飯田さんに必要以上に気を使ったりしないだろうかという不安は、払拭されていった。あらためて「この人となら大丈夫だ」と確信すると同時に、「ある程度のことがあっても必ずこの視察は成功する」とイメージすることができた。

アンマンに到着。携帯電話で話すアブドゥラを見つける。元気でいてくれたことがうれしかったし、ホッとした。アンマンで動き回ろうとする飯田さんに「ここは経由地ですから。目的はこれからです」と言うと、「そうやな、目的を達するまではシンプルにやな」という答え。説明すればすぐにわかるのは彼の中に確実な測りがあるからだ。このことは今回の視察の間じゅう実感したし、たとえ状況が違っても分析して結論を導き出せる測り/軸を持っている人だと感心させられた。

栄花さんとの再会もとてもうれしかった。今回はホテル泊ということもあって、ご家族とお会いできないことが少し残念だったが、事故なく過ごしてくれていることに感謝する。飯田さんの目的と身上を説明し、帰りのアンマンで付き合ってくれるように頼んだ。抽象的な思いだが、飯田さんには栄花さんという「生き方」の一端を感じてもらいたかったし、栄花さんには飯田さんという「人」とその理屈を知ってもらいたかった。自衛隊で務めた後、フランス外人部隊に5年間在籍して今カメラマンという稲垣氏を紹介される。来る前に栄花さんから彼のことを聞いた時、事によってはいっしょに仕事ができるかなと思っていた。夜、ブリティッシュパブで4人で食事をしたが、自分の頭がいっぱいいっぱいだったこともあって、あまり実のある会話はできなかった。自分のそんな様子を、飯田さんは観察していたようだ。ただ、ひとつ興味を引いたのは、稲垣氏が一般市民の使うバスで国境を越えてバグダッドに入ると言う点。たぶん20時間近く、それ以上かかるかもしれない。どんな人たちが乗り込んでいくのかだけでもイメージは膨らむ。そして彼らの目線で、彼らの見る風景、考えること、去来する思いを道々記録していくのはとても興味深い。たとえ、バグダッドのバス停でバイバイしても、ちょっとしたストーリーになりそうな気がした。でも、翌日乗る予定のバスは出なかった。彼は GMCに切り替えた。残念・・・。

視察同行は、ある意味自分の望んだ通りだった―これまで経験したことのない機会、自分が及ばない力でグシャグシャにされるような機会―。自分を納得させるために見たいもの触りたいものを徹底的に求める飯田さんのパワーに、チームは時に引きずり回されることもあった。そして感情表現の激しいアップダウン。ファディとエヤットは困惑し、声を荒げる時も2,3度あっただろうか。でも、破綻してしまうようなことはなかった。ひとつには、一度として飯田さんがこちらを振り切って勝手をすることがなかったこと。もうひとつは、ファディが自分にしてくれたように飯田さんの要求を受け止めてくれたこと。この二つに尽きる気がする。双方ともに、異なる器の大きさを身につけていた。

飯田さんの見ていく方法は、かなり参考になった。
ひとつは、イメージが先にあって、それを事実とすり合わせていく作業。イメージが固定され、先行していると、当事者と話をした時に当然かみ合わない部分が出てくる。例えば、話合いのほとんどの時間が、相違点をあぶり出す作業とそれに換わる事実の確認に費やされる。これはかなり頭の疲れる作業だ。しかしその結果、こちらが知りたい情報はまず確保し、さらに相違点があったという事実そのものも新しい情報として価値を持ってくる。自分でもこれまでにその場その場で無意識のうちにとっていた方法かもしれないが、きちんとした取材方法論として意識して頭に入れることができた。
もうひとつは、見ていく視点をピンポイントで固定すること。取材のひとつの方法に、定点観測というものがある。飯田さんの場合、例えば「いくつも空爆跡を見ていく」というものだった。その過程で、空爆の被害よりも略奪/放火の被害の方が大きいこと、空爆のほとんどが通信施設および軍関連施設をピンポイントで行なっているということ、廃墟になった軍施設に生活する人たちが多くいること、街中で目にする戦争の傷跡は消えつつあること、建物の構造が脆弱なこと、復興がけして難しい街ではなく、やろうと思えばすぐに再建可能であることなどなど、「いくつも空爆跡を見ていく」という視点でたどって行くだけでさまざまなことが見えてきた。これまで自分はこうゆう見方をしてこなかったのではないか、とちょっとした驚きと反省めいた感覚を憶えた。定点観測で用いることができる「定点」とは、人や場所などの実像を持つものだけではないということ。いくつもある興味を精査してひとつだけに絞って見てみる作業は実に得るものが大きい。

日本大使館を探すのには右往左往した。先月、大使館は在留邦人に対して近寄らないように通達。誰もが情けないと思ったニュースだった。飯田さんも出発前に「行かないで欲しい」と言われたと聞いていたから、もしかしたら遠慮するのかな、と勝手に思い込んでいたということもある。日もだいぶ傾いてきた。なかなか大使館が見つからないことに飯田さんの苛立ちは頂点に達し、助手席のドアを殴る。エヤットは「やってられるか」と運転に覇気がなくなり、ファディは「なぜ彼は怒るんだ!」と”WHY? I just want help him. Because of friend of Kenji !”を隣で繰り返す。「おまえは興味の対象として知っとくべきやねん」と飯田さんに言われたとき、反射的に「ボクは必要ないですから」と答えた。実際に必要としていなかったし、内心「自国のジャーナリストの興味の対象にされない、必要とされない大使館の方こそ責められるべきだ」と思っていた。でも、次の瞬間には彼の言葉の方が有意義だと考えることができた。「逆に知っていて損になることはあるのか?」長く対象と付き合い、ストーリーを深めていくためには無駄な知識などあり得ないはず。「興味の対象」が少なくては、多くの生きた知識は得られない。ついに、三人と車を置き去りにして1人であたりを探し回った。誰も知らないし、違ったことを言う。万策尽きて車に戻ろうとしたとき、最後に尋ねたタクシー運転手が追いかけてきた。激しく頷く彼を信じて車に乗り込む。日本大使館は、奥まった路地の先に隠れるようにしてあった。3メートルはあろうかというコンクリートの壁に遮られて、建物はまったく見えなかった。

探す過程でいろいろな事実がわかった。日本大使館の場所をその地区の警察官ですらほぼ知らないということ。ドイツ大使館にひと気がなかったこと。各大使館がそれぞれの周辺道路を封鎖しているので、当然車両は制限され、徒歩でもかなりの回り道を強いられること。日本大使館はアメリカ大使館から100 メートルほどの近所に位置していること。米軍のパトロールが来ていたこと、などなど。

飯田さんから無駄が多いという指摘も受けた。普段、ロケではなるべく取材対象の環境やリズムを傷付けまいとして彼らの行動規範にのっとって行動するようにしている。そして、いっしょに動いてくれる人たちの能力を信頼するように心がけている。無理やり自分(のやり方)を通しても結果が得られないことを経験してきたから、その場所に入ったらそこの流れに任せる癖がついている。でも、ちょっと冷静に今の環境を考えてみると―実に居心地の良い環境で、リラックスしきっている。仕事を忘れても生きていけそうなほど。自分がファディたちに甘え、まかせっきりになりかけているかもしれない。大使館探しに自ら走ったように、自分の体を突き動かして獲りに行くことがいつも必要だ。そういう環境に常に身を置くべきなんだ。家族同然の人たちを与えてもらったからこそ、もう一度あらためて自分の役割を考える必要があるかもしれない。

買い物は愉快だった。飯田さんは、ジョマナとサファーナへかわいいピアスを買ってファディにプレゼントしてくれた。エヤットにはトルコ製の革サンダルを買って、布製の履き古したサンダルを履き替えさせた。ご機嫌のエヤット。食事は通りに面した(というか、歩道の上で)白いプラスチックテーブルとイスを並べた串焼きレストランでとった。夕暮れ時、行き交う車と人々の頭上を米軍ヘリが旋回飛行する。周囲には気を配っていたが、ぴりぴりした雰囲気は感じなかった。夕方、こんな繁華街で食事をするのは戦争後初めてだった。自分の内で何かが緩まっていく。伸びきったゴムひもが緩まってだらんとするのではなく、少し緩めたために弾力が豊かに増した―そんな感覚。

最後の夜、インターネット・カフェにて。飯田さんの長女からのメールを見て、こみ上げてくるものがあった。アフガニスタンに行った時には、父の様子を聞いてくれる人もいたけれど、今回は誰からも尋ねられないという。「行き先が行き先だけに、下手にいじれない(聞けない)のでしょうか・・・。」という一文に、勝手な父を送り出した後の留守を預かる彼女の苦労と孤独、周囲への失望や疑問が込められているように思えてならなかった。ご家族のもとまで、飯田さんのあしをどうかお守りください・・・。

最終日ずっと考えていたのだが、飯田さんを送りにアンマンまで行くことにした。時間がタイトなこともあったし、なにより栄花さんと交わる機会をきちんとセッティングしたいと思ったからだ。ファディに話すと”I know you, Kenji. When you told me about Iida, I know you go with him.” 今のイラクにおいて、身の危険に会うのは確率の問題でもある。アリババに遭う危険の高い行き来はなるべく少なくすべきだ。その後のロケスケジュールを考えると腰と背中の疲労にも不安があった。信頼できるドライバーと友人もいるし、任せても良かったのかもしれない。でも、どうしても1人で行かせることはできなかった。“兄弟”と認めた人の道中に最後まで徹底的に付き合うこと、時には自分の身を削ってでもそばにいること、それがどれだけその人を安心させ、その家族を安心させることか―これはファディが自分に教えてくれた、言葉には言い表せないほど尊い輝きを持った隣人愛だ。ファディの気持ちを理解できる機会を与えてくれた飯田さんに感謝したい。

栄花さんに日記を書くと約束したのに、めまぐるしい時間と疲れのために最初の1日しか日記が書けなかったなあ、トホホホホ。

【視察同行日程】
13日(火) 10:30 バグダッド着
13:00 スラヤ購入
15:00 グリーンゾーン視察
17:00 インターネット・カフェにて通信
バグダッド泊(市民宅)
14日(水) 08:00 バグダッド発→12:00 サマワ着
サマワ視察/取材>
14:00 部族長と会見
15:30 市場等市内視察
19:00 地元若者と懇親会
サマワ泊(ホテル)
15日(木) サマワ視察/取材>
09:00 サマワ新聞社編集長と会見
10:30 職業安定所視察、所長らと会見
12:00 オランダ軍キャンプ・スミティおよび自衛隊宿営予定地視察
13:00 サマワ発→18:00 バグダッド着
バグダッド泊(市民宅)
16日(金) バグダッド視察/取材>
09:30‐大統領宮殿、米軍駐屯地等々、市内空爆跡数々視察
16:00 日本大使館訪問
17:00 アダミヤ地区界隈にてショッピング
17:30 レストランにて夕食
18:30 インターネット・カフェにて通信
バグダッド泊(市民宅)
17日(土) 06:30 バグダッド発→16:30 アンマン着
18日(日) 01:25 飯田さんアンマン発

ひとまず

Day-19 & to be continued.
家を朝3時半に出た。
イードの夜だというのに、昨晩も爆発音や機関銃の音とヘリの音が聞こえていた。途切れ途切れ単発で古臭い湿った銃声はおそらくお祝いの空砲だったのだろうな。

朝靄がかかっている。真っ暗で誰もいない通りをアメリカ軍がパトロールしている。いつも2台一組。前科があるだけに、間違って撃たれたらタマランな、と思う。ヨルダンで休暇を過ごそうというイラク人一行3人をマンスール地区の自宅で拾い、4時半に出発した。

全体を通して、こんなに治安が悪い悪いと言いながらアメリカ軍のパトロールや検問の規模は印象としては小さい。

ボーダーまでぴったり5時間。入国手続きに1時間。ヨルダンボーダーから3時間半。ヨルダン側の道は起伏があって、これが結構疲れる。前回と違い、出入国にはまったくストレスを感じなかった。予想外、めったにないことだ。

ドライバーはアブドゥラの腹違いの兄、ウィサン。ARIHAの最古参ドライバーの1人。一定のスピード、等間隔に取る休憩、ブレーキング、車線変更、ムダ口もなし・・・実に安定していて飛行機に乗っているみたいだ。頼れる会社だ。ファディに感謝。

深夜1時過ぎにフライトがあると思うのだけれど、ヨルダンはイード初日でほとんど休みだろうし、いつものように空港に行ってみないとわからないと思う。

今回は、別れが本当に惜しかった。精神的にも、肉体的にももっと居ることはできたし、取材するイシューもまだあったと思う。今までの「とりあえず終わったー」という感覚はほとんどない。ちょっとここまでの仕事をまとめにしばらく留守にする、というぐらいの感覚だ。それだけ環境に馴染んだということなのかもしれない。

現在進行形で歴史上重大な「占領下の生活」を見る、記録するというのは、仕事としても自分にとっても間違いなく意義がある。太平洋戦争後の日本は自分にとって過去のことで、これまでは実感するのは難しかったけれど、この取材が、独裁政権崩壊から占領という過去の出来事やこれから起こるかもしれない同じような出来事を実像としてとらえていくことに、必ず活きてくるはずだ。

今回は、「戦争直後」-「進行形の占領下」-「その後」の3部作のうちの第2部という位置付けのように思う。今回は全てのストーリーが連関しているし、きちんとまとめて形にできるはずだけれど、実はすごく難しい作業で簡単じゃない。今回NHKはセカンダリーだ。彼らの興味はここには無いと思う。小柳に相談するか?日本人と組んでBBCや2、アル-ジャジーラやパースペクティブのスタイルに合うのか?フォーマットをどうするか?頭の中がグルグルグルグル。