IRAQDIARY-53 (13.01.05)

NHKの長井暁さんには、いくつもの労いの言葉を用意しても、足りないくらい。本当にごくろうさまでした。「公共の電波をあずかる人間なら当然だ」「4年間も黙っていて、結局視聴者を欺いていたんじゃないか」「メディア人、ジャーナリストならこれって当り前でしょう」「手前ミソな感じ」「泣かれてもねえ、自分で選んだんでしょ」etc.などと、どうか簡単にかたずけないでほしい。自分だったら実際その一歩を踏み出せるか?組織の中で働く人なら、今後彼を見る目と扱いがどうなるか、わかるはず。家族がいればなおさらのことだ。
「私たちができることは何でしょう?」という質問に、マザー・テレサは「まず、あなたの隣の人にやさしい言葉をかけてあげることです」と答えたと、かつて読んだ。地下鉄のエレベーターでいっしょになって、娘を紹介した時の、彼のやさしい笑顔も思い出す。彼の家族もまた周囲の笑顔と励ましでささえられますように。

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冷静になって、客観的に今のこちらの状況を記録しておく。
ボクの愛すべきイラク取材チームは、今風前のともし火だ。通訳のディーナは昨年秋以来、暗殺脅迫を受け、暮に偽造パスポートでイラクを脱出。現在、パリで Asylum seeker として新しい生活を始めている。
おととい深夜、今回コーディネーターが頻繁に連絡を取っていた友人が、米軍に逮捕された。詳細はわからないが、爆発音も聞こえたということで、彼や家族の安否も確認できていない。
背景はどうあれ、これらの事実はコーディネーターを始め、他のスタッフの不安と恐怖を直前に迫った現実のものと感じさせている。ボクも彼らも家族に危険が及ぶことを、本気で恐れる事態となった。今後の予定は、全くわからない。
バグダッドにいる彼らは、誰がいつ襲ってくるかと、夜は眠れないと思う。バグダッドとの電話回線状況は悪く、特に夜間は何十回かけても繋がらない。
ボクらはほとんど家族のような関係で、特に、コーディネーターの家族は唯一無二の存在だ。彼らの身になにか起こったらどうしよう、とボク自身も夜が来るのが怖い。
本当の恐怖とはこういうものなのかもしれない。
つまり、自分の命ではなく、愛すべき家族の身の上に危険が直接降りかかろうとする。
彼らの未来が何よりも大切だ。
今、ボクがやらなくてはいけないのは、自分のこれまでをトレースして、“今この時、どんなジャーナリストなのか”を自問自答し続けること。自分に与えられた環境を前に、こう集中して考えていくことが冷静な判断と方法論を導き出してくれる。
ボクは、個々の事象だけでは何も判断できず、けして反射神経の優れたタイプではない。おそらく「文脈を見ていく」タイプ。点と点を結びつけていくことを無意識に考えている。だから、「なぜ?」という理由付けにこだわってきた。

IRAQDIARY 52 (1.11.05)

今日のアンマンは少しだけ暖かい。
バグダッドの知事に続いて、イラク警察の副総監の一人が殺された。これには正直驚いた。イラク警察の取材を通して、副総監クラスの人たちに会い、話も聞いていたし、彼ら自身もサダム警察国家時代のベテランだ。最も警戒してしているはずの人たちだから、彼ら以上に武装グループの連中がプロフェッショナルなのだと思う。また、警備体制に疑問すら感じる。多分、警察官自身も自分の身を守ることで頭がいっぱいなのだろう。
イラクの武装勢力の数は、現在20,000+と言われる。彼らが選挙をぶち壊しにすることに集中しているのだから、イラク最大の軍事勢力・米軍も安泰とは言えないかも知れない。大きな軍事行動をとれば、それ自体が選挙の障害となるだろうし、対応は簡単ではない。
一方、海外に滞在するイラク人の在外投票の準備は、IOM(国際移住機関)によって粛々と進められている。ここヨルダンにいるイラク人は10万人とも30万人とも見込まれていて、在外投票が行なわれる14カ国のうちでも最大規模になると見られている。イラク人コミュニティなどに呼びかけて着々と準備を進めている様子を見ると、やはり選挙そのものは形がどうあれ予定通りやるのだろうな。
ちなみに、在外投票する人たちの登録期間は17日-23日、投票は28日-30日までの3日間。ヨルダンの治安当局も登録所や投票所の選定や警備には神経を尖らせていると聞く。
IOMのHPで在外投票を呼びかけるTVスポットが見られるけれど、出演者の希望に満ちた顔が、逆に悲しいというか空しいというか・・・。

http://www.iraqocv.org/

IRAQDIARY 51(1/06,05)

ヨルダンの首都アンマン。
ようやくこうしてパソコンにむかうことができた。ファディは昨晩バグダッドへ帰って行った。彼と会って話を聞いてみてバグダッドの状況が実感として理解できた。
スンニ派武装グループとサドル派民兵グループ(この中でもレジスタンスとイスラム狂信派に分かれる)、クルド系(北部)、イラク警察とイラク軍、外国人テロリストグループ、犯罪グループ、そして米軍、それぞれがそれぞれの勝手な大儀に従って行動している。共通しているのは暴力/武力を用いることだ。これら様々な暴力のベクトルの狭間で、一般市民は恐怖と不信に埋もれて暮らしている。
バグダッドで何が起こっているかはわかっているし、いかに危険かも頭でわかってはいたけれど、ファディの目や言い方や表情を合わせて話を聞いていると実感として伝わってくる。彼自身も自分の周りにどんなグループがいて、次の瞬間に何が起こるかわからないと言う。彼がこんなことを言うのは初めてのことだ。彼は、ボクが自分の考えとイメージを持って判断したことに文句をつけようとしているわけではない。ボクの取材目的・方法をこれまでの仕事からわかっているから、バグダッドが今どういう状況か説明しておきたかったのだろう。「自分の身の安全も考えなくちゃいけない」と前にも言われたけれど、今回は彼自身にも言い聞かせているような感じだ。現実問題として、ディーナにかわっていっしょに働く通訳を見つけるのが難しいと言う。とにかくみんな、外国人と接することを恐れている。街中は言うまでもないが、学校や病院や市民が出入りするような場所の取材は容易ではなく、時間と手間がかかりそうだし、実際に無理かもしれない。
だが、彼と話していて今の時期に取材可能かもしれない対象はいくつかイメージできた。一昨日はバグダッドの知事が暗殺された。知事ともなればかなりの護衛がいたはずなのに高速道路であっさり・・・どうなっているのだろうか?

パリのイラク女性 (9)

12月20日9:00 ディーナとウイダッドと待ち合わせて、外国人のパスポート問題を扱う警察署へ。
ウイダッドの母国アルジェリアの公用語はフランス語。彼女がディーナの代わりに窓口の女性に事情を説明する。窓口の女性によると、ディーナのようなケースは特別ではなく特別な手続きは必要ない、所定の警察で対応するはず、根気よく説明するしかないと言う。でも、こうした偽造パスポートの問題に明るい相談所を紹介するから、そこできちんと相談しなさいとアドバイスをくれた。自分のケースが特別なものではないとわかって、ディーナは少しホッとしたようだった。

携帯電話を購入しに行く。北駅の北東側のBARBES-ROCHECHOUARTはアラブ人街。ウイダッドは「パリで一番物が安いのはここ」だと言う。確かにバッタ物のデパートが軒を連ねている。駅前ではアラビア語の雑誌が売られている。彼女たちは女性誌を買った。ディーナはうれしそう。モトローラの携帯を購入、SIMカードも買って、彼女は家族やファディやボクとホットラインを持った。書類と当面のおこづかいも渡して、ひとまず安心した。

夕方、彼女に電話してみると「緑の切符」を発行する所定の警察署の前にいるという。「今夜はここで野宿する」と言う。「緑の切符」を得ようと、多くの申請者が警察署の前に列を作っているとは聞いていた。前回訪れた時にも彼女は前の晩から待っていたと言う。けれど、ここ数日パリは寒さが厳しくなり、この冬一番の冷え込みだった。警察の窓口が開くのは翌朝9時。それまで、食事もとらずにとても野宿できる気温じゃない。彼女は”Don’t worry.”と言うけれど、話を聞いた以上ボクだけが暖かいホテルの部屋にいるわけにはいかない。彼女の闘っている姿を、いっしょにいて見ておかないと自分はきっと後で後悔すると思った。毛布をデイパックに詰め込んでホテルを出た。警察署はCRIMEEという名前の駅にあった。警察署にふさわしいな、などと考えながら駅からトボトボ歩く。道路の水溜りはすでに凍っている。住宅街を抜けると、列車の車庫がある倉庫街にたどり着いた。幅の広い車道の向こうに、ボロボロのダンボールの山と数人の男たちの姿を見かけた。だが、場所がわからず右往左往する。電話をかけると、ディーナはボクが来たことに驚いていた。すぐ近くに来ているはずなのに、彼女の言う「多くの人」の姿が見当たらない。あのホームレスの男たちに聞いてみようと歩み寄っていくと、むくむくのダウンジャケットに身を包んだディーナがボロダンボールの影から出てきた。ボロダンボールの山に見えたのは、待っている人たちが暖をとるために作ったトンネルだったのだ。鉄製の柵を縦と横に組んで、その横面と上面をボロボロのダンボールで覆って、腰の高さほどのトンネルを作っている。そのトンネルの中で20人弱の男女が文字通り肩を寄せ合って座り、折り重なって眠っていたり、酒を飲んだり、トランプをしていた。”Kenji, don’t worry.” ディーナの明るさが、目の前の映像とアンバランスな感じ。ウイダッドもいっしょにダンボール・トンネルの中にいて、明朝窓口が開くまでいっしょにいるという。待っている人たちの国籍は中国、モンゴル、セネガル、ナイジェリア、ガーナ、モルドバなど。英語が話せる人はほとんどいない。二組の中国系の夫婦がトンネル内の知り合いにお弁当を差し入れしていた。ホームレスに見えたアフリカ系の男たちは、この寒さが本当に辛そうだったけれど、じっと座っているイヤそうだった。夕方ふった雨で地面は濡れている。トンネルの中は人の熱気で確かに暖かいが、後ろの方の人はトンネルの外にはみ出してしまっている。そういう人は体を丸めて座り、ダンボールを拾ってきて風よけのために自分の体に立てかけていた。ナイジェリア出身の男性に、パスポートは?と聞くと持っていなかった。彼はもう半年近くも「緑の切符」を手に入れようと試みているという。モルドバ出身の若い男性二人はモルダビアン・ウォッカを飲んで上機嫌だ。モンゴル出身の若い男性は、ボクが日本人とわかると”ASASHORYU Great!”と親指を立ててみせた。「人が多くなると中に戻れなくなるから。明日ケンジの出発に間に合えば電話するから心配しないで」と言って、ディーナはトンネルの中に戻って行った。ボクはしばらく、その場所に用もなくたたずんでいた。圧倒されていたのだ。ナイジェリアの男性はボクに向かってうらやましそうに”Japanese no problem stay all world.”と言った。ボクたち日本人は本当に幸せだろうか?事情はどうあれ、生きるためにこの寒さと闘っている彼らの姿を目のあたりにして、ボクには彼らに与えられた境遇が羨ましくさえ思えた。

深夜1時、ホテルへ戻った。
そして翌朝、ディーナの成功と健康を祈りつつ、パリを後にした。

パリのイラク女性 (8)

12月19日、日曜日の昼下がりのカフェ。通りに面した窓際の角席。隙間風で冷えた。
“How did you feel when you were in the hotel in the airport?(空港の滞在所にいた時、どう感じていた?)”とディーナに尋ねた。
” Why me?-I always asked such like tihs by myself. I thought that everyone succeed to go toSweden by this way. Why only me who didn’t make good.” 「みんなこの方法でうまく行っているのに、なぜ、私だけダメなの?という気持ちだった」と言うディーナ。そうだろうね、これにはうなずける。ファディには、電話口で泣きながらで思い切り愚痴ったと言う。

カフェで会った時、彼女のポケットにはわずか6ユーロほどしかなかった。ランチをとる人たちで賑わう店内は、家族連れも少なくない。彼女の話をメモしながら、上目使いで彼女の表情を見る。ボクがメモするほんの些細な瞬間に、彼女の視線は斜め向かいの家族連れのテーブルにそそがれていた。彼女の寂しさと不安を考えるとなんとも切ない。ひと通り話を聞いて、昼食を注文した。チキンソテーにレモンバターソース、フレンチフライ添え。イラクのチキンに比べると油っぽいな、と思いながらモモ肉を口に運んだ。

ランチの後、バグダッドに電話することにした。彼女が使っていた電話ボックスに向かう。海外によくある電話交換台ショップ。店内が8~10のボックスに仕切られ、一つ一つに電話が置かれている。客は話した時間分の代金を店に支払うシステムで、こちらからはかけられるけれど、相手からはかけられない。ディーナは一度家族にかけて、「ケンジと会えたから安心して」と伝えると会話も早々に切ってしまった。「えっ?遠慮しないでもっと話しなよ」と言うと、もう一度かけ直した。ボクも彼女の兄マハシンと話したかったし、家族との電話で得られる安心感に比べれば安いもの。実際に、10分弱の電話に書類コピーまでして、代金わずか4ユーロだった。

ディーナは運良く、今いるシェルターで、ウイダッドというパリ在住のアルジェリア人女性と知り合い、友達になった。ウイダッドは母国アルジェリアでTVレポーターをしていたが、イスラム原理主義グループに脅迫を受け、2002年にパリの親戚を頼って逃げ出してきたという。ウイダッドは身寄りもあるし、すでに「緑の切符」を手に入れて、亡命希望者向けの情報をいろいろ持っている。似たような境遇にある彼女たちは意気投合して、ディーナの相談に親身になって乗ってくれているようだ。明日月曜日、ディーナはウイダッドといっしょに、外国人がパスポートを失くした際に相談する警察署に行って、自分の事情を説明してどうすればいいかを聞いてみるという。ボクは、彼女がイラクで通訳として働いてくれていたことを証明する書類を作って持って行くことを約束して、3時半頃別れた。

Republica広場から北駅に向かって歩いて行く途中、教会の前でホームレスの人たちに炊き出しが行なわれていた。寒風の中に立ちこめる白い湯気とコンソメの香り。体だけは温まりそうだ。若い人のほとんどがアルジェリアやモロッコ系の男性、中年以上は白人だ。地面に座り込んで、コショウか何かの子袋の口を切ってスープにふりかけていた。炊き出しは始まったばかりだったようだ。若い男たちは、「亡命希望者の定期列車」には乗れない人たち。「より良い生活」を夢見て、EUに渡ってきたいわゆる不法滞在の人たちだろう。かつて訪れたモロッコのタンジールで出会った人たちとかぶる。正直、こうまでしてEUにいたいのか?と思うけれど、本当の想いは当事者になってみないとわからないのかもしれない。

パリのイラク女性 (7)

「亡命希望者たちの定時列車」に乗れそうなところまで来ているディーナだが、誰かが切符を買って与えてくれるわけではなかった。
フランスで亡命希望者として生活していくにあたり、所定の警察に住民登録をしなければならない。日本で言えば、外国人登録のようなものだ。そこでGreen Receiptという滞在許可証をもらう。これが「亡命希望者の定時列車」に乗るためのチケットだ。この「緑の切符」で、OFPRA(French Office for the Protection of Refugees and Stateless)へ。フランス政府の難民事務所にあたるOFPRAでは、亡命希望者を難民として保護して身分を保証する。働いたり銀行に口座をもてたり、日常生活が営めるようになり、第三国への亡命申請はもちろん、フランス国籍の申請も可能になる。「亡命」という新しい人生が見えてくる。
このGreen Receiptをとるのにディーナは格闘する。

ICRCからもらった”ASYLUM SEEKERS’ GUIDE”を見ながら所定の警察に行って事情を説明した。担当警察官はGreen Receiptを発行するにはパスポートが必要だと言う。彼女は、没収されたパスポートのコピーや裁判所の書類などと共に事情を説明した。でも、担当官はパスポートの名前と裁判書類の名前が違うことを指摘。彼女のパスポートの名前は”HAMSA”であり、ディーナであるということを証明する適切なものがないと言う。最初の申請で彼女は拒否されてしまった。「緑の切符」を手に入れるにはまずパスポートのコピーが必要(ない場合は警察が正当と認める別の身分証明書が必要)。Green Receiptを発行する警察署にとって、パスポートが偽造で没収されたということは管轄外の事柄なのである。必要なのは彼らの業務にとって有効な身分証明書。偽造であれなんであれ、パスポートを持って入国したのだからそのコピーを使うという理屈である。下手に偽造パスポートを使ったために、ディーナは二つの名前を持つことになってしまった。こうなると逆に、入管で「パスポートを失くした」と訴えた方が良かったことになる。

実際に、フランスで多く見られる中国からの不法入国のケースは、パスポートなしの場合がほとんどのようだ。EU圏は自由に移動できる。列車なら入国管理も緩いし、空路でも乗り換えだけならほとんどの空港でチェックされない。一度乗り込んでしまえばこっちのもの。そして、フランスやドイツやスウェーデンに着いた途端に、パスポートを破り捨てて難民の申し立てをする。中国の場合、天安門事件に代表される言論抑圧の歴史があることと、共産主義ということもあって経済難民としても認知されやすいことがある。

警察で拒否されたディーナは、亡命希望者の相談所に行って事情を話した。自分が”HAMSA”ではなく”DINA”であることを証明できる書類を揃えたら、とアドバイスを受け、彼女はパリのイラク大使館へ行って事情を話し、大使館宛てにバグダッドからファックスを送ってもらうことにした。彼女はバグダッドから出る時、途中の検問所などで自分の正体がバレることを恐れて、大学の卒業証明書や戸籍など身分証明書関係はすべて家に置いてきていた。隠し様はあったと思うけれど、考える余裕もないほど切羽詰っていたのだろう。パリのイラク大使館でファックスを受け取ったものの、結局警察からはオリジナルの書類を要求されたために、後で家族がバグダッドからDHLで送る羽目になった。

また、初めディーナは、偽造とはいえパスポートにこだわっていた。スウェーデンの滞在許可証があったからだ。「パスポートの偽造がわかって没収された以上、いくら自分で申請したとはいえ、その滞在許可証はもう無効だと思うよ」とボクが言うと、彼女は言葉を失っていた。大金をはたいて買ったパスポート・・・気の毒だけど、不法は不法なのだからこればっかりはあきらめるしかない。30年近く続いたサダム独裁政権下で、イラクの一般市民が外の文化や情報をまともに学ぶことはなかった。戦争後、サダムから解放されはしたが、イラク社会そのものが新しい国として成り立っているわけではない。治安が悪くなる一方で、教育や公共福祉サービスやインフラはいっこうに整備されていない。イラク人の行動規範は、まだサダム時代のままなんだと思うことがある。「恐怖」「恐れ」が人々の行動や判断を左右する、悲しい世界。ディーナの話を聞いていて、そんなことを考えた。

パリのイラク女性 (6)

ディーナは不法入国者用の一時滞在施設を出るまで次のような経緯をたどった。
ICRCの職員から亡命希望する場合のガイダンスを受ける→警察の事情聴取→簡易裁判所に護送され、亡命希望者として滞在が許されるかどうか、裁判を受ける。→30分ほどの審理の後、評決。ディーナに滞在許可が下りる。→翌日、空港内の一時滞在施設を出て、パリ市内Republica広場近くの修道院が運営するホームレス用のシェルターに入居。

まず驚いたのは、ICRCが作って配っている”ASYLUM SEEKERS’ GUIDE”なるもの。そこには、フランスに滞在しながら第三国へ亡命するための手順が解説されている。どこへ行って、どんな証明書を手に入れなくてはならないか、各関係先の住所と電話、亡命希望者が頼れるNGO、亡命希望者が緊急の助けを必要とした時の連絡先などが記載されている。そして、すばやく裁判が行なわれ、それぞれの申し立てに亡命希望者として滞在が認められるかどうか審理を行なうシステムに、ボクはうなづいてしまった。ディーナは、パレスチナ人の男性マルワンとチェチェンから来たという一家とともに裁判を受けた。その時の裁判において滞在許可が下りたのはディーナだけだったという。他の二組がどうなったかはわからない。ICRCでも裁判所でも「あなたの国イラクは戦争中だから」と理解を示されて、彼女はフランスで亡命希望者として暮らしていくことを許可されたのである。

とは言うものの、お金も、身寄りも、住む所もない。言葉も通じない。判決を受けた翌日、彼女はICRCでシェルターを教えてもらって、地下鉄の切符をもらい、自分の足でシャルル・ドゴール空港からその場所へ辿り着いた。まず、シスターに事情を説明。入居させてもらうことになった。でも、ディーナは幸運だったのかもしれない(実際彼女もそう感じていると言う)。亡命希望者として滞在すら認められずに空港から強制送還されたり、警察が持て余して結局なんの手続きも受けずにホッポリ出されるケースもあるという。彼女は亡命希望者と認知されて、ひとまずフランスで暮らしていける。手順を踏んでいけば、働けるようにもなるし、政府から補助金を受けることもできる。何より、バグダッドで恐怖に震えながら暮らしていたことを思えば、通りを自由に安全に歩けるパリはホッとすると彼女は言う。彼女の目の前には、「亡命」というレールが敷かれ、そこに亡命希望者の乗せた「新しい人生」行きの定期列車が走っている。この列車に乗り込めば、きちんと次の駅へと辿り着く。そして、そのレールの先に自分の新しい人生が開かれていることをディーナ自身が自覚しているようだ。将来はさておき、彼女は大好きな家族や友人、住み慣れた土地、これまでの仕事や国籍をあきらめて、新しい暮らしを始めた。「寂しさと不安で泣く時もあるけれど、ひと通り泣けば落ち着くし、目の前の一歩がうまく行くことだけを考えているわ」と言う彼女の一途さにはすごくうたれるし、女性のある種のたくましさを感じる。

パリのイラク女性 (5)

ディーナは偽造パスポートを使った。
アンマンやバグダッドでは、サダム独裁政権下で欧米に亡命したいわゆる「亡命イラク人」たちがパスポートの売買を行っている。スウェーデンやデンマーク、ドイツ、英国などに亡命したイラク人たちの中には自分のパスポートを売る人たちがいて、それらが流通しているようだ。バグダッドにはパスポートの偽造業者がいる。その家族の中に亡命した者がいて、ストックホルム-アンマン-バグダッドを拠点に一族で亡命ビジネスを手がけているようだ。ヨルダン-イラク国境で偽造がばれて強制送還されたという話を聞いたこともあったが、めげるどころかビジネスは拡大しているというから、彼らのたくましさには恐れ入る。購入した人は、パスポートの写真を自分のものと張り替えて使う。ディーナは”HAMSA”という名前のパスポートを手に入れ、写真を張り替えてなりすました。価格は通常12,000ドルもするらしいが、現金大特価7,000ドル。6,000ドルを支払い、ストックホルムに着いて業者の仲間に残り1,000ドルを支払う予定だった。戦後の混乱もあって、多くのイラク人がこうした偽造パスポートを使って人道主義の強い北欧や欧州諸国へ流れているという。アンマンのスウェーデン領事館で滞在許可証まで取って、”HAMSA”は、何の問題もなく目的地スウェーデンのストックホルムに到着するはずだった。でも、”HAMZA”のパスポートを見たフランスの入国管理官は、写真が貼りかえられていることを見破ってしまった。

ディーナは、その時のメガネをかけた女性入国管理官の怪訝そうな表情を鮮明に覚えていると言う。「このパスポートは他の人の物ね」と言われて、何がなんだかわからなくなったという。ただ、アンマンに強制送還されたらそのままイラクへ帰国させられてしまう-そのことで頭はいっぱいだった。彼女は自分のパスポートが本物であると必死で言い張った。そして空港警察に連れて行かれた時、「空港でトラブルがあったらICRC(国際赤十字)に行け」という知人の言葉を思い出して、警官に言ってICRCの事務所へ連れて行ってもらった。空港内にある建物の一階が警察、二階がICRC、三階が不法入国者の一時滞在施設になっていた。入管では私は”HAMSA”と言い張ったディーナだったけれど、ICRCの職員にはすべてを打ち明けたという。自分の本名はディーナであること、脅迫を受けて逃げ出したこと、偽造パスポートを使ってここまで来た事情を話してICRCの職員に理解してもらった。彼女は不法入国者の一時滞在施設で4日間寝泊りすることになる。ファディがボクに伝えた電話番号はこの一時滞在施設のものだった。外部と連絡が取れるなんて、日本の施設とは大違いのフランスの寛大さ(?)に少し感心した。また、あの時のファディの”Kenji, Help Dina.”という声を思い出した。あの晩、事務所の国際電話の料金を払い忘れていてフランスに電話をかけられず、ジリジリしながら翌日まで待っていた。そして、教えてもらった電話番号に何回もかけた。たいていは誰も出ないし、誰かが応答しても英語が解せないという状況でイライラした。彼女からこうして話を聞くまでよくわからなかったが、電話口に出たのはディーナといっしょに施設にいた不法入国の人たちだったのだ。応答した人の中に、唯一少しだけ英語が解せる「マルワン」という名の男性がいた。ディーナが警察の事情聴取で留守にしている時、ボクは彼と話をした。彼の”Dina is OK.”という言葉にホッとしたのを憶えている。彼はパレスチナ出身だったが、その後どうなったのだろうか?