警察署二日目

アダミヤ警察署2日目
静かな夕方
停電、ジェネレーター故障、何もできない、彼らの仕事に支障はないのか?攻撃されたらどうするのか? 昨晩とはうってかわって何もないアブドゥル・ラフマン(35)は親切な男、高そうなレストランで夕食、美味しそうなカバブだったが、どうしても味が口に合わず、ほとんど食べられず恐縮。
彼はトイレに行っている間に会計を済ませていた。残りを署にテイクアウトしたアブドゥル・ラフマン(35)に。

深夜、爆発物処理。米軍MPに連絡(24:00)、40分後、現場に現れる。3:00過ぎ、署に戻る。

・テロリスト捜索
・検問業務
・武器押収
・強盗捜査やけんかの後始末などの通常業務
・米軍と協力して行なう業務

イラク警察の業務はほとんどカバーした。

密着24時を一人でやるのは無理か

まったくバグダッドの交通渋滞には辟易する。車の数が多いから、無理なUターンをしようとする1台のために何百メートルも何時間もの渋滞がすぐ起こる。さらに、譲り合うとか回り道することを知らないというか、たぶん嫌いなんだ。革命や戦争や経済制裁の歴史の下で、この世で信用できるものなどもうなくなってしまったのかもしれない。今、目の前にあってできること/手に入るものだけが信じられる。「急がば回れ」という言葉はこの国にもあったかもしれないが、もう消えうせてしまったのかもしれない。

秘書官との約束は8時半だったが、45分遅れて地域本部Al-Rusafa(ルサファ) Police Directorienに着いた。出勤してくる警察官や職員、警察学校の生徒たちの表情は明るい。すでにレセプションは混み合っていた。待たされるかな、と思ったがすぐに秘書官と会うことができた。きちっとした印象。地域本部長と面会、取材趣旨を伝えて取材許可をもらいたいと言うと「自分は許可を出すことができる立場ではない。担当部署があるからそっちへ行くように」と言われる。あー、これはたらいまわしにされるか、と半分凍った。でも、繋がりは彼しかないし、秘書官の「お茶を飲んで目的を話して」という言葉を思い出して、気を取り直す。後々、この人にも話を聞くことになるかもしれないし、礼は失してはならない。どこの誰に言えば良いのか、助けて欲しいと頼む。本部長は秘書官に案内するように指示を出した。ふと思ったが、実際にアレンジしてくれるのは秘書官であり本部長ではない。しかし、秘書官が動くには当然上司である本部長の許可が必要だ。秘書官が、本部長に会って話せと言ったのは「私の上司の許可をもらえ」という意味だったんだ。当然のことなのに、気がつかなかった。イラク社会にはきちんとした官僚機構があるといわれてきたので自分自身も頭ではわかっていたが、官僚機構の最たる警察に触れてみて実感させてもらった。

秘書官とその部下に連れられ、別の地域本部Al-Kargh(カラハ) Police Commandを訪ねる。広報と言えばいいのか、取材許可をくれる部屋で担当者に取材の目的と内容を説明する。「取材許可は1日のみ、2日以上を希望する場合は本部長の承認が必要」と言われる。1日でできるはずがない。何とかならないかと話していたら、この部屋の責任者が戻ってきた。「さっきこの人に説明したのになあ」と思いながら、彼にも最初から取材目的と内容、プラス、それがいかに有意義なことか説明する。とにかく、警察官たちと同じ時間と行動を体験しなければならない。泊り込みはもちろんのこと、食事も。たとえ短い間でも、仕事やそれに伴う危険を共有しなければ「密着」とは言えない。できる限り、すべてに同行する覚悟が必要だし、そういう態度を示さなければ相手も受け入れてはくれない。また、今回は彼らにとっても自分たちの働きと心意気をアピールするまたとない機会だ。今、イラクにくるジャーナリストで泊り込んで密着したいなんて物好きはいるはずないし、やりたいと思っても経験やノウハウを持っている者は少ないと思う。治安問題はイラクの今後を占う最大のイシュー。あらゆる意味で、今やるべき取材だ。
最後まで、ニコニコしながらこちらの説明を聞いていた部長は、アダミヤ警察署とバグダッド・ジディーダ警察署で2日間ずつの取材許可書を書いてくれた。何か事故が起これば理由はどうあれ彼らの責任になるにも関わらず、宿泊もはっきり”NO”と言わない形で黙認してくれた。秘書官とその部下、部長らに素直に感謝したい。
彼の「戦争の後の状況は、日本とわたしたちとは違うと思う。なぜなら、アメリカは私たちといっしょに働いてくれていない」という言葉が印象に残った。

それにしても、警察や軍関係の取材までの道のりは険しい。『24時』の場合、取材に入るまでの段階で、地方だと県警本部のトップから始まって下へ、取材対象の署各部署の副長クラスまで挨拶しなければならない。警察側の思惑もあるし、時には一年近くかかって受け入れてもらったケースもある。実際、プロデューサーは先方によく出向く。多くの場合、その県の出身者が担当ディレクターとして送られる。それでいて中身のない下心だけの付き合いでは受け入れてもらえない。そうそう、実に手間がかかっていたんだった。イラクでも同じことだ。

許可書をもらって、そのままアダミヤ警察署に直行、署長に面会した。こういうことは時間をおいてはいけない気がしたから。署長とオフィサー連中もまた、泊り込みはもちろん、パトロール同行も危険だと言う。そして同じ説明をした。もう何人に同じ説明をしただろうか・・・。ディーナが最初にある程度説明してくれるようになったので少し楽だが。決め手の言葉は、”You are professional, I’m professional. You have family, I have family, what’s difference? It’s same. We should sure every moment even safe or danger that I want to understand each other.” 彼らはほんの一瞬静まりかえった後、”OK! Halasu!”と
言った。

ホテルに移動したあと、機材をまとめてアダミヤ警察に入ったのは18時だった。

盛りだくさんだった。
●モスクの警備&パトロール
●警察襲撃グループがいるとの通報を受け、民家を急襲。
●幹線道路で検問、不審車捜索&届出していない武器を押収。
●泥棒の通報受け、現場捜索。

ノリで書いた企画書を後悔する。だいたい「密着24時」をひとりでやろうってのが、間違いだった。小さい車にぎゅうぎゅう詰めになりながら、デカカメを担ぐ。変な体勢になるから体が悲鳴を上げる。しかも、何かが起こるの待つから、ずっと担ぎっぱなし。警官たちは突然走り出すし、検問を止まらなかった車には容赦なくパンパン威嚇発砲するし、屈強でがさつなイラク男たちは猛ハッスル。もうロデオの荒馬乗り状態で、最後は鞍から落っことされて引きずり回された感じがする。でも、常に自分のそばに着いて護衛してくれてたり、、、かなり気は使っていてくれた。”I save your security.”と言うチームリーダー。ほとんど英語は話せないが、身振り手振りでわかった。

詳しく書きたいが、盛りだくさん過ぎてこの辺にしておこう。

IRAQNA

午前中は、ホテル探し。最後まで反対するファディには、リサーチも兼ねていると説明して何とか押し切った。価格のネゴと、安全度の評価に彼の助けがあればいいなと思っていたので、手伝ってくれて助かった。

インターネット・カフェに近いという理由から、カラダ地区にした。日本大使館にも近いし、JENなどのNGOの事務所にも近いということに気がついた。これまで取材やロケで頭と体力を使い切った後に、しかも夜にしか来たことがなかったから気がつかなかったのかな。

ついでに、携帯を買った。戦争が終わって10ヶ月、ついに一般向けサービスIRAQNAが始まった。いつも思うけれど、携帯のサービスの名前やロゴマークはどこの国でも結構イケてる。なんでだろう?イードの後、2月7日から始まったというが、1月の時点では既に会社のオーナー向けとして限定的に800ドル~ 900ドルで売り出していた。アリハの社長は誇らしげにデスクの上にスラヤと並べておいていた。

ファディがためしに電話してみたら繋がらず、こんなに高いお金を出して買ったのに・・・とバカにされていたことを思い出す。携帯電話本体、SIMカード、30ドル分のプリペイドがついて、200 ドル前後~300ドル。ただし、SIMカードだけを買おうとすると150ドルとか言われる。基本的には3点セットで購入しなければならない。Nokiaのスタンダードやモデルは225ドル。仕事上、これからのことも考えてディーナにも持っておいて貰うことにした。機械オンチの彼女だが、携帯で話す姿は結構サマになっている。自分はNokiaの同じモデルを持っているし、パッケージも変わらない。「これは安いけどいいぞ」と言う店主の進めもあり、その店に1 セット残っていたSEGAMというフランスの会社のものにした。箱が”IRAQNA”独自のものだ。185ドル。作りは安っぽいが、何せ初モノである。やっぱり”IRAQNA”の箱入り&ファーストモデルってとこに価値ありでしょ。そういえば、日本で始めて持った携帯も一番安くて無骨なやつだったな。

ホテルのある界隈(カラダ地区)、取材予定の警察のある界隈(アダミヤ地区)はactive、ファディの家があるアル・シャーブ地区はまだ未整備。でも、そのうちすぐに整備してしまう気がする。

ブツブツ言いながら、ファディはサマーワへ帰った。エヤットの父親も同行。料理人として彼のチームの一員になる。彼はかつて80年代半ばにユーゴスラビアの会社で料理人をしていたそうだ。エヤットの現状について親に聞いてみたいと思っていたので、今回は会って話ができてとても嬉しかった。
家族といっしょに見送る自分は、なんだか変な気分だ。いつも逆の立場なのに。道中はもちろん、現場での彼らのチームの安全を心から祈る。

I know you, Kenji

26日、午前2時ホテル発。いつものはにかんだ笑顔を見せるアブドゥラ。頬を合わせた時の鬚の感触が懐かしい。表情は少し疲れているように見えた。

5:10 ヨルダン側国境到着、5:45 日の出、6:25(イラク時間で7:25) イラク側へ入境。両サイドの入管は休日前だからか、混み合っていた。自動車多数。イラク側で荷物チェックは一切なし。両手をズボンのポケットに突っ込みテレテレ歩く米兵2人。

11:20 ラマディ通過、横転して炎上したトレーラー。荷台のドアは開き放たれ、荷物は散乱していた。ファルージャ付近で同じような状態のトレーラーと乗用車が側道に放置してあった。

炎は出ていなかったが、野次馬がいたところを見ると、今朝方にアリババにあったものと推測される。ラマディ-ファルージャ間でアメリカ軍の車列に遭遇。一般車はこれまでより距離をとっている感じがした。これまでは、スピードを緩めながらも車列を追い越していくこともあったのだが、みんな近付くどころか300 メートル以上車間をとっている。

予兆もなく突然始まる米軍と武装勢力との戦闘。その巻き添えにあわないようにしている。たぶんこの道で起こる事件が以前のように散発的ではなく、毎日のように起こるようになったのだと思う。こうした地元の人たちのちょっとした変化は侮れない。何ヶ月かに一度訪れる自分たちとは違い、毎日ここで暮らす彼らにとって危険を回避することは日常的な行動だ。運を天に任せる暮らしが日常的な暮らしとはいえない。けして今日たまたまという現象ではない。

14時 バグダッド着
家族と再会、タラルは少しやせた。一月終わりに胆石(だと思う)で入院していたせいだ。ジョマナの前歯は半分以上生えてきていた。サファーナは表情がより豊かに。アシュワックのお腹は一回り大きくなって、サッカーボールなら2 つは入りそうだ。双子かも、と真剣に思ったが、一人らしい。ファディの帰りを待つ。

カメラマンベストをはおって、ファディが帰ってきた。首には身分証明書をぶら下げて、いかにも報道チームで働いている風。なかなか凛々しい。ファディは今、時事通信のサマーワ取材班のボディガードとして住込みで働いているが、とにかく無事で何より・・・。彼のポジションを思うと、この忙しい時に1日休みなどもらって取材班は大丈夫だろうか、と気になる。

昼食。最近、鳥も牛も食べる気がしない日本にいたから、鳥肉は特に美味しかった。気にすることなく食べられるというのは幸せなことだ。

今回の取材テーマを話すと”I know you, Kenji. I don’t go back to Smaawa.”と静かな表情で言い出した。もちろん、気持ちだけだ。きちんとした相手との約束を重んじる彼がそんなことを現実にやるはずはない。思ったことを言わずにはいられない人間なんだ。彼はもう、自分がどんな取材テーマを言ってもNOとは言わない(ファルージャを取材すること以外は)。ディーナもそう。”I know you, Kenji.”なのだ。

取材対象にあげたアダミヤ警察署とバグダッド・ジディーダ警察署を訪問。無論、行ってすぐにOKとはいかないだろうが、糸口はここから。警察の取材にはバグダッド市警の地域本部から許可書をもらわなくてはならないことが判明。地域本部に着いたのは夕方、日没後だった。

警察は今、米軍以上に狙われている感がある。チェックポイントが何重にも置かれ、建物に入るのもひと苦労だった。こういう時に知り合いがいると助かるな、と思っていたら、タラルの旧友がいた。ひとりはチェックポイントで、もう一人は地域本部長の秘書官として働いていた。こうした偶然には本当に驚かされる。「まず本部長に会ってお茶を飲んで目的を話しなさい。そうすれば大丈夫だよ」という秘書官。可能ともダメとも言わない独特のニュアンスに一抹の不安を抱えながら、土曜日の朝8時半にもう一度出直すことになった。

許可取り、大丈夫かなあ。

秘書官や数人の警察官と話した時、彼らは「以前は特定の人物とグループのためだけに働いていたんだ。でも、今はそうじゃない。自分たちは市民のために働いているんです」と言う。それこそ警察学校で教わったのかもしれないが、実に印象的だ。そして、彼らの本音だろう。地位の高い者は別として、当時の彼らの給料はひどいものだった。現在の消費者物価やその危険度に照らせば、今もけして良いとは言えないけれど、サダム時代に比べれば雲泥の差だし、仕事に取り組むモチベーションや「俺たちは悪と戦う」みたいな警察官独特の誇りは手に入れた(ただし、この誇りが「自分たちが正義だ」と思うこととイコールかはわからないのだが)。

いずれにしろ、イラクの治安の鍵を握っているのはこの新しい警察だ。イラク人への主権移譲の前に治安の確立は必須だし、イラク人自身が治めるということそのものの行方を占う指標にもなる。

アンマン到着

2:15、KL405便は20分遅れでアンマンに着いた。今回はここに1泊せず、3時間ほどの休憩をとってバグダッドに向かうつもりだった。ファディには、4時にアブドゥラがホテルへ迎えに来てくれるように手配して欲しいと頼んでいた。でも、荷物を持って空港を出たときは3:00をまわっていた。このまままったく休みなしの10時間ドライブは強行軍だなと少し憂鬱だったが、それより1日でも多く取材日を確保したいという思いの方が強かった。

4 時を過ぎてもアブドゥラは来なかった。彼の携帯も不通。日にちを一日間違ったのではないか。結局ロビーで5:45まで待ってホテルにチェックイン、ファディに電話した。バグダッド時間で7:00。電話に出たのは時事通信のカメラマンの方だった。朝早くに申し訳ないことをしてしまった。

現在、ファディは時事通信のサマーワ取材班の一員として働いている。カブールのハナカーもそうだが、自分と仕事をした人間がその後に良い働き口(安定した給料や待遇を得られるしっかりした組織)を得てがんばっているのを知るととてもうれしい。インデペンデント・プレスには彼らをキープする金銭的余裕も仕事のキャパもない。彼らの人生がより豊かになるように、より大きな組織、国連機関や名の知れたNGOやメジャーな報道機関でキャリアを持って欲しいといつも願っている。良かったなあと思う反面、さびしい。もう、いつ行っても自分といっしょに動いてくれるというわけにはいかなくなるから。彼らは”Kenji, you are the first. I can work with you anytime you want.”と言ってくれて、予定を空けてくれる。

今の生活を投げ打ってまで・・・というわけではないけれど、時には学校や勤めを休んで時間を空け、いっしょに働いてくれる。給料も額面上は最初の時と変わらない。それぞれが経験や能力を身につけて、今では倍の給料をもらえる立場になっていてもイヤな顔せずに二つ返事で引き受けてくれる。むろん、こちらは甘えるわけにはいかないので当然前よりも報酬は多く支払うけれど、「これだけしかない」と言えば文句を言わずにやってくれると思う。率直に、感謝の気持ちでいっぱいだ。同時に、自分も彼らの発展のスピードに負けないように新しい経験を積んで消化/発達し、プロとして熟成されていかなくてはならないと自分自身に言いきかせている。

やはり、到着を1日勘違いしていたらしい。あんなに言ったのに伝わっていなかったか、やっぱり。今回は準備段階からここまで「立て板に静かな水が流れる如し」だったのになあ、まったく。アラブ人のくせに、何度も”I’m sorry”を繰り返すファディ。まあ、まあ、もういいじゃないか、こっちの仕事モードをいったんブレイクすればいいことだ。

ハイチの情勢が混迷してきた。反政府勢力は第二の都市も掌握し、アリスティード大統領派の住民(警察官か軍人かもしれないが)を捕らえて拷問するケースも出てきた。反政府勢力は国際社会(って一体誰なんだ?)の停戦プロセスを拒否。反政府勢力は幹線道路を押さえて首都と地方の物流をコントロールしようとしている。

一方、政府側は反政府勢力への警戒を強めて、一般市民に銃口を突きつけ始めた。首都ポルト・オウ・プリンスの住宅街では散発的な銃撃戦も起きている。アメリカは大使館を警護するために海兵隊を上陸させた。昨年のリベリアの時とここまでほとんど同じ流れだ。あの時の現場経験をもう一度実戦で確かめてみたい。現場に行きたいが・・・我慢、我慢だ。今後の流れが気になる。

アリスティード大統領は「これは虐殺です。彼らはテロリストだ」と吐き捨て、アメリカを始め国際社会に秩序回復のために軍事介入を求めている。彼はいったい何者なのだ?いったいぜんたい大統領としてこの国で何をしてきたのだろうか?という素朴な疑問が浮かぶ。間違いなく答えは不毛だ。この世で、政治(家)の存在とはいったいなんなのか、まったく考えさせられる。
最近では、国際社会って言っても顔が見えない。匿名性が高くなって、いったい国際社会って何をする人たちなんだ?と思うことがある。以前は国連がひとつのイメージだったんだけど。

アムステルダムからの機内で隣り合わせた英国人は、イラクの警察学校の先生だった。今回のテーマのひとつだったので、与えられた偶然の出会いにびっくりした。マルコム・トンプソン氏はウェールズの現職警官で、ヨルダンの警察学校”Iraq police training center”で教鞭をとる60人のひとりだ。現在、CPAが運営する警察学校は3箇所、バグダッド、バスラ、ヨルダン。内容はまったく同じだと言う。一回のコースは8週間。特に人権について教える。女性に対する平等な扱いや暴力をふるってはならないという考えは、サダム時代の警察しか知らない彼らにとって新しい考えだと言う。

「ボクたちは英国では街角のCCDカメラでいつも見張られている。市民に暴力をふるったりすればすぐに見つかって罰せられるって教えるとびっくりしているよ」と笑う。確かにイラク人警官には理解できないかもなあ。一月ほど前に第一期生500人が卒業し、イラク国内で配置に着いているそうだ。これまでのところ生徒たちはサダム時代に警察官だった者がほとんどだが、今後は未経験者も増えてくるかもしれない。警察学校で勉強中も給料(120ドル)は給付される。

トンプソン氏は「金額はすごく安いと思う。でも、毎月きちんと保証されているのは魅力だし、必要なものはすべて支給されるからね」と言う。警察学校の取材には、CPAの許可が必要かもしれない。そうなると面倒だなあ。

トンプソン氏はウェールズなまりがきついのか、自分の英語力が未熟なので集中していないと聞き取れない。「一番苦労するのは何?」と聞くと “Language”と答えた。そういえば、バスラの警察学校のレポートをBBCで見たことがある。教師は英語で話し、アラブ人の通訳が訳していた。授業時間は倍近くかかる。トンプソン氏は生徒たちのモチベーションは高いと言うが、そのレポートでは授業中、生徒がノートに落書きをしているシーンがあった。まあ、それが現実だろうな。

英国では現職の警察官が海外の警察学校で教えるというプログラムがある。現在選べる勤務地はヨルダン、ブルガリアなど。希望者による申し込み制だ。トンプソン氏に申し込んだ理由を聞くと「定年して新しい職を得ようとした時に、海外の警察学校で教えたというキャリアは履歴書に書くのにいいかなと思って」と答えた。これには感心した。教える方にも生活がある。ラグビー大好き、2児の父。今回の帰国はクリスマス休暇だったらしい。

栄花さんはてっきり旅行中だと思っていた。隣国で鬱々しながら一人で居たりすると、さびしさに駆られて、出ないとわかっていても「もしかして」と思ってダイヤルしてしまう時がある。すると、出た。あれっ、栄花さんいるじゃん。こんな時はうれしさと同時に、何から話していいのかわからずにちょっとドギマギしてしまう。彼の希望とは異なるけれど、彼が日本に帰ってくるのはうれしい。もっとクローズドに仕事をできればいいと思う人だから。Sammyもそう。こういう時はいつも自分の組織にキャパがあればいいなあと心から思う。

事務所に伺ってJENの村崎さんに挨拶する。JENは女性スタッフが多いが、一度話せば記憶に残る人が多いかもしれない。仕事っぷりを知らないので人道援助のプロとしての能力はわからないけれど、ひとりの人間として大切なことだ。