イラクに新橋発見

Day-13
シーア派聖地カルバラ取材1日目。バグダッドとは空気が違う。最初に、ここカルバラ最大の“売り”聖人イマム・フセイン廟を訪ねる。美しい青、水色、緑、黄色、赤(だと思う)・・・のタイル、建築、すばらしい。

もうひとつの聖地ナジャフで爆弾テロがあってから入り口でのボディチェックと荷物チェックは厳しく、自由に出入りすることはできない。鋭い視線の警備員に “Christian?”と聞かれて、聞こえなかったふりをする。最近では記憶にないことだ。女性に対しても厳しい。女性は黒い布で全身を覆うことを要求される。街中でもそれ以外の格好をしている人は1人もいない。入り口は男女別々だし、女性のボディチェックも厳しい。バグダッドとはやはり大違い。入り口で待たされること、10分ちょっと。警備員に随行されて、警備責任者の部屋へ連れて行かれる。偏見かもしれないが、表情のない目をしている。

1 時間ほど、イラクのシーア派について、カルバラについていろいろ聞いた。イスラム教の理解にはすごく役立った。でも、とにかく雰囲気が厳格。良く言えば荘厳で敬虔、悪く言えば排他的で差別的だ。撮影自体は問題なかった。ただ、ムスリムではない自分は廟の中にまでは入れず、ファディに撮ってきてもらう。フセイン廟そのものはすばらしいので、「映像を見たら来てみたいと思う人たちは大勢いると思いますよ」とリップサービスで言うと、口元が緩んで表情が出てきた。これまで訪れたどのイスラム空間よりも緊張した。

預言者ムハンマドの孫で、正直なムスリムの教えを説いたイマム・フセイン一族が戦争で惨殺された逸話は、悲劇の物語として人々の心を打ち続けている。翻って考えれば、キリストの受難の物語も同じ。偏見を持ってはいけないと思うけれど、「同じですね」と軽々しく言えない雰囲気はあったな。

聖地らしく、ラマダン期間中はイスラム教に関係ある機関や行事は休業状態。警備責任者にも、「ラマダンだから何もできない。もうしわけない」とあっけなく言われてしまった。

3日間の予定でカルバラにてシーア・ストーリーを取材しようと考えていたが、今日1日で十分だと判断。聖地が撮れただけでも良かった。

この国の抱えるもうひとつの断層「宗教」‐スンニ派とシーア派。基本的には同じイスラムだし、目に見える違いに限って言えば、様式の違いでしかない。焦点は政治的野心だ。占領下の今、彼らは市民レベルで何をしているのか、を見たい。今日行って話してみて、カルバラやナジャフは聖地であって政治の中心ではないことがわかった。イスラム教系政治団体の本部は今ほとんどがバグダッドにある。バグダッドで、シーア・ストーリーを考えたい。

道路は舗装されているが、バグダッド-TIKRIT間の道路に比べると狭く、凹凸も多かった。

20: 00 エヤットの自宅を訪ね、インタビューをお願いする。もと情報省の幹部をしていた友人と酒の席たけなわにお邪魔した。女性が宴会で踊っているビデオを肴に、大声で笑ってぐいぐいやってる。新橋か?ここは、と笑ってしまう。ぺルノーと同種のイラクの薬草酒。ものすごい勢いで勧めるし、飲みたい衝動が沸き上がったけれどがまんした。

エヤットはもと刑事。フセイン時代に警察官をしていた人たちの8割が新しい警察に復帰する中、彼は復職しない少数派だ。彼は、強盗などを捕まえて刑務所送りにしてきたため、当然敵も多い。警察や自分が狙われていることを肌で感じるという。

戦争前、フセインは受刑者に恩赦を与えた。戦争後、刑務所を出た犯罪者たちが略奪や殺人を起こし、治安悪化の一因となっている。

エヤットは16歳の頃から15年も警察につとめてきた。この仕事が大好きだし、巡査から犯罪捜査をする刑事に昇進して仕事に誇りを持って生きてきた。市民の安全のために働いてきたと心から思っている。彼も彼の家族も裕福でもなんでもないごく普通の庶民だ。

彼は酒びたりの日々が多くなった。「もどれることならもどりたい」誇りを持って生きてきた一般市民たちの年月に、誰が、どう答えることができるのだろうか。

23:45 爆発音の後、マシンガンの機銃掃射の音。そう遠くもなさそうだ。
昨日も夜、同じように爆発音とその後マシンガンの音がした。30分ほどして、爆発音のした方角に複数のヘリが飛来する音がして1時間弱プロペラの音が聞こえていた。停電で真っ暗だし、空には何も見えないのだが……。気のせいか、2日前ぐらいから米軍の動きが慌しいように感じる。道路ですれ違うロジ部隊の規模も大きく、回数も多い。夜間は頻繁にヘリが飛行している。だんだん珍しくなくなってきて視線をやることもなくなってきたが、何が起こるかわからないから常に視線はむけるようにしておいた方がいいかもしれない。

二つの大河

Day-12
情報の間違いや勘違いは結構ある、と自戒する。

アル-ハリル小学校の6年生のクラスに、トルコ大使館の隣りに住んでいてテロに巻き込まれたという少年がいたが、「隣に住んでいた」のではなく、「父親とバスに乗っていてちょうど前を通りかかった」というのが正しい。

また、TIKRITの街を通っているのは「ユーフラテス河」ではなく、「ティグリス河」だ。両方とも低レベルの間違いと勘違いだ。ラッシュを見ていて、「あれ?これは何でだ?」と新たな疑問が出てくることもよくある。言葉も違う、思考系統や価値観も違う中で勝手な思い込みもあるし、取材というのは本当に難しい。夏休みの課題日記でさえ、3日間以上まともに書いたことがなかった自分にとって、ほとんど見直すこともないその日限りの日記という文章はチャレンジだ。みんなよく書けるな。

ベイダの通うセカンダリー・スクールを見学。撮影の予定はなかったが、彼女からいつ来るのか?と毎日聞かれていた。日本人なんて珍しいから、みんなに見せたいのかもナと思って、撮影なしでも行ってみることにした。

カメラなしの取材は気が楽だし、こっちも十分勉強になる。アル-ハリルと同様に10月の新学期が始まる前に改修工事をしていてきれいだった。校舎に外光が入り込んで女子校らしい清潔感がある。きれいになった自分の学校を見せたかったのかもしれないな。『IRD』という組織がおこなったようだ。あとで調べたい。

1クラス、45~50人、ほぼ全員頭に布をかぶっているがごくわずかかぶっていない生徒もいる。顔が一人一人個性的だ。英語の授業を見せてもらったが、先生の教えるリズムが早い。かといって、生徒を無視して一人で進めていくわけではない。生徒の3分の1は活発に手をあげて授業に参加していく。消極的で、落ちこぼれたりしてしまう生徒はいないのだろうか?と余計なことを考えたりもする。

成績はテストで判定されるが、到達度を測るためのもので相対評価ではない。いろいろな国の教育現場を見て思う。けして予備校や塾に行っているわけではないし、日本人より勉強の内容と時間が多いとはとても思えないし、実に狭い社会で暮らしているのだが、子どもたちは能動的かつ良く物ごとを理解するなあ、と思うことがしばしばある。占領下ではあるけれど、以前よりもいろいろな情報を得られる機が増えたことは確か。興味の世界を広げて可能性を活かして欲しい。

アシュワックに同行してアル-シャウベ地区の市場でロケ。
豊富な食材は戦後すぐと変わらない。5月以降、羊肉の値段が上がっているらしい。泥棒にあったり、周辺国に輸出されたりして品薄なのだそうだ。

タラルのコピーショップでロケ。停電続き、隣近所の店も開店休業状態。

ワリッド一家が帰ってきたかどうか確かめるために金物街を訪ねた。金物街の店はほとんど以前のように営業していたが、鉄の鎖だけではなく金属性の装飾品を作っているところなども見られ、種類が豊富になっていた。誰に聞いても、フセイン時代よりも自由に仕事ができるし、売上げも好調だとにこやかに答える。ジャウダッドに再開する。まだ満たされないものがありそうな感じがしたが、顔色はいい。びっくりした様子で、「いったいどこに行っていたんだ?」と聞く。

確かな見覚えのある路地裏の角を曲がると彼らはいた。ワリッドとおじとそれに父親もいっしょだった。彼らの方が先に気がついたようすで、こちらが姿を確認した時はもう立ち上がっていた。ワリッドは少しお兄さんになった。父親は身体をこわして建具職人はやめ、ワリッドといっしょに同じ仕事をしている。バグダッド陥落直後、いち早く店を再開して1人黙々と金づちをふるっていたおじは、変わらぬ豊かな笑顔を見せてくれた。イランやトルコ、パキスタンなど周辺国からも客が来て商売はとても好調だと言う。フセインがいなくなり、商売の自由を謳歌していた。

ワリッドはまだ学校には戻れていない。ナジャフで避難生活を送っていた一家は、3ヶ月前にバグダッドに戻り、新しい家を借りて住んでいる。今、バグダッドでは家賃が高騰。フセイン時代にワリッド一家の住んでいた1LDKの家は、どちらかと言えば長屋的で低所得者向けの住宅だった。一家の現状を考えると、そこよりもいい環境の住宅に住んでいるとは考えにくい。それでも、父親とワリッドと弟三人が毎日働かなくては暮らしていけない。ワリッドはサッカーが好きだ。こうした一家を何とか支えてあげたいと思うが……。積極性が感じられないCPAやORHAには見る影なく、人道援助機関もいないイラクの戦後。彼らの生活の底上げを期待するには、あまりにも悲観的状況だ。あまい考えだと思うけれど、本当に何とかしてあげたい。

19:30 エヤットの案内で、警察署爆破事件で亡くなった警察官の遺族を訪ねる。17歳の新妻と3人の娘を残して逝った。敬虔なシーア派一家だが、その宗教的雰囲気に緊張感を感じる必要のない都会的な家族。”We don’t have two rivers,Tigris & Euphrates. We have blood & crying”という兄の表現に言葉がない。フセイン時代が終わり、戦争も収まり、職場に戻ってこれからという時だっただけに、「なぜ」という思いが伝わる。同僚だったエヤット、脇で聞いていたディーナもしくしく泣いていた。亡くなってから間もない。遺族の取材はいつでも深く溜息をついてしまう。

Day-11

Day-11
今日はここアル-シャウベ地区から離れる予定はない。
昨日ぐらいから停電が多い。今日は朝からバグダッド全域にわたって停電。
14:00過ぎにはタラルの第二妻ワジハも店を閉めて帰ってきた。ジェネレーターがあるとはいえ、ちょっとイヤな感じだ。

取材を断られた。きっとわかってもらえると期待していたが、ダメだった。別の道を考えなくてならない。TIKRIT取材で頭がいっぱいだったが、ここバグダッドもけして取材が楽ではないことを思い出した。少し気疲れ気味だし、頭が回らない。先のことばかり考える悪いくせが出ている。

デイリーのニュースなら個々のストーリーはブツギリでもいいかもしれないが、ストーリーに豊かなふくらみ持たせていくには、全ては関連していてその流れがごく自然でなければならない。

でも、取材の機会はあくまでも与えられるものだし、必ずしもそう上手く繋がるわけでもない。与えられたもので最高の結果を生むことは、取材のあとに控える考察編集段階でいくらでも可能なはず。今はとにかく取材の質を落とさないことだよな。

焦ったら台無しになる。もう一度自分の目指すべき内容と質を思い出して、態勢を整えなくてはいけないな。

私たちには法がある

Day-10
TIKRIT取材最終日。結果は1勝1敗1引分け。全体を通してまだまだ見えていない部分があるような気がする。

部族(アシューラ)間の相違と緊張関係のストーリーは面白かった。フセインの血族アル-ブナサ族の青年の話も良かった。でも派手な画とかそういうものではなく、もうひとつ深くTIKRITならではという強烈なものが欲しかった-フセインの血族ベジャト族やアル-ブナサ族の暮らしと米軍の関係、新しい地元政府と米軍の関係、米軍がTIKRITで現在何をしているのか-米兵の生活とかそういう視点ではなく、占領政策の中でどんな要素をここTIKRITが担っているのか、という点だろう。

インタビューでは単なる説明にしかならないから、実際の活動を詳細に見ていくしか方法はないと思うけれど、ほとんど無理だろうなあ。たとえ、アメリカのジャーナリズム心あるメディアが取り組んだとしても、占領真っ只中の今は難しいかもしれないな。

TIKRIT警察のパトロールに密着。不審な人物や車を見つけると職務質問していく。TIKRITの街は実に小さい。東西南北回っても20分もかからない。

同行した警察官に、フセイン時代は警察官を恐れていた人たちも大勢いるが、その時と今と警察はなにが変わったのか?と聞いてみた。「何も変わらない。私たちには法があるから、それに従って職務をおこなうだけです」と言う。

フセインの時代にはフセインが法そのものだったのでは、と聞きなおすも、答えは変わらない。帰りにディーナの見解を聞くと、当時の警察の横暴な行いはみんなが知っている、と言う。外国に占領された日常生活には同情するが、「同じ」という答えには何の意味もない。何がどう「同じ」なんだ?イラクの人たちのコメントも無邪気にそのまま垂れ流すわけにはいかない。

彼ら、フセイン政権下で大小に関わらず権力を持っていた人たちのコメントは特にそうだ。彼らの過去の歴史や占領下の生活という背景があって初めて使える内容のものもある。表現とはまったく反対の意味を持ってくることもあるからだ。

帰り道で米軍に護衛されたLPGガスのタンクローリーの大規模なコンボイに遭遇。「ここで攻撃されたらすごい被害になるな」と思い、早く行き過ごしてしまいたかったが、米軍によって追い越しが止められてしまい、しばらく一緒に走っていた。

急ぐ必要など何もないのに、クサイの運転は荒かった。突然、護衛の米兵が側道の草むらにマシンガンを何発か打ち込んだ。

数日前、検問をしていた場所だ。このあたりでも襲撃事件があったのかもしれない、と思ったら、隣でディーナが突然嘔吐した。クサイの運転に胃が痛むと言っていたが、目の前の銃声で耐えられなくなってしまったのだと思う。

TIKRIT取材で緊張のしっぱなしだったということもあるだろう。彼女の家は、両親ともに先生という教育者一家。インタビュー中も先生らしい毅然とした態度で人々と話すのに、感心していたが、考えてみればごく普通の小学校の先生だ。良く頑張ってくれたと思う。

彷徨う予感

Day-9
行きは重苦しい空気だった。
朝起きた時からイヤな予感がしていた。これまでだったら行くのをやめていたかもしれない感覚だ。この恐怖感じみたイヤな予感は単なる臆病の虫が目を覚ましたからなのか、本当に何かあるかもしれないという知らせなのか、わからない。ファディも朝から険しい表情で笑顔なし。車の中でいつ「今日はやめにしよう」と言おうかと迷いながら、一方ではこの感覚の由来が何なのか、確かめなくてここから前には進んでいけないと考える自分もいた。

昨日インタビューした青年の住むアル-オウジャ村の周りには鉄条網が張り巡らされていて、完全に隔離されているのに気がついた。

TIKRIT 目抜き通り&マーケットでロケする。よそ者を無差別に敵視する事件が起こっている最中、街中の人たちの目にふれる場所での撮影は気分が良くない。イヤな予感も尾を引いていた。でも、街の人たちの生活っぷりや息吹はどうしても必要なシークエンス。とにかく礼をもってあいさつしながら撮影させてもらうしかない。

青果店、ベーカリー、床屋さん、クッキー店、CDショップなどで話を聞いたりしたが、みな親切だ。コップに入れて「これだ」と見せられた水は黄土色ににごっていた。TIKRITの人たちは、戦争後からひどいにごり水を口にしている。ふざけてだが「飲んでみろ」と言われて、かなり躊躇したけれど断って反感をかうと困るので口にしてみた。味は普通だ。それよりもこの水を使ってパンやクッキーを作っているのだから、そっちの方が気になった。もっと街中を歩きたかったが、30分ほどで切り上げた。

ユーフラテス川の東岸アル-アラム村の目抜き通り&マーケットをロケ。中心街に比べて、こちらは村の小さな商店街だ。こちらはジュブウリー族しかいないので、さほどの緊張もなかった。のどかな農村風景だ。

この村には連合軍から任命されたサラハディーン州の知事でTIKRITの市長でもある人物の家がある。取材中、何度もその息子に出会った。自称16歳だが、どう見ても13-14歳だ。目新しい四駆を乗り回す姿は放蕩息子そのもの。聞けば車を4台も持っているそうだ。親の教育方針を疑うと同時に、権力志向というか成金志向というかフセインと変わらないものを感じる。なんでこうなっちゃうのかなあ。

住宅街にイラク軍基地跡がある。5月米軍によって爆破処理されたが、近隣の家々では家中の窓ガラスが割れたり、破片が飛んできて家が傷ついたりしていた。その様子を取材し終えて、さあ帰ろうとしたところ、ドーンと大きな爆発音がしてもくもく煙が立っていった。回収した武器や弾薬を爆破処理しているようだ。こうした爆発はほとんど毎日あるという。突然の巨大な爆発音にディーナはひどく怯えたようだった。

今日一日結局何もなく、予定通りに仕事が済んで帰路についた。イヤな予感が当たらなくてホッとした。帰りは行きの重苦しい雰囲気がウソのようにみんな明るかった。

深夜、大型の輸送機だろうか、ゴワーンというプロペラの轟音が長い間響いていた。気味のいいものではないな。

I know Iraqi people, better than Iraqi

Day-8
アル-アラム村で最も古いモスクの礼拝に参加、撮影させてもらう。小さくて古いが、ぬくもりのある素敵なモスクだ。ムッラーがまたいい。みんなのおじいさん的な雰囲気がかわいい。わかりやすいコメントだった。

ティクリーティは血縁ではなく地縁関係を表す呼び名ということを理解する必要がある。つまり、「ティクリート出身者」という意味だ。ティクリーティはいわばフセイン王朝が作り出したブランドだ。日本にも「〇〇人」というようなブランドは存在する。権力者(団体)がいて、そのもとで他よりも豊かな権利と生活を与えられ、スノッブになって他を見下すようになる。それがティクリーティというものだ。

ティクリーティという地縁関係を構成しているのは、ティクリートの主に西岸に居住するいくつかの部族だが、その中でフセイン一族の血縁にあたるのが、ベジャト族とアル-ブナサ族。ベジャト族とアル-ブナサ族が住んでいるアル-オウジャ村。ここがフセインの生まれ育った村だ。

顔無しの条件でアル-ブナサ族の青年にインタビューすることができた。やっぱり顔がフセインに似ている。口元は特に似ていて笑顔が愛らしい。アル-オウジャ村に住むフセインの血縁は、連合軍から発行された住民カードを持っていて全て登録されているようだ。

一族の1人がかつてアル-ジャジーラのインタビューを受けた時、それを知ったその人のおじが本人をひどく叱って殴ったと言う。ファディとディーナの上手な説明でOKしてくれた。話したところまじめな青年だし、きっと胸に秘めた思いもあるのだろうと思う。

アル-オウジャ村には許可なしでは入れないというので、クサイのおじの家の居間でやらせてもらった。でも、奥さんは「いろいろな人が家に来て、近所の人から詮索されて迷惑だわ。もう帰って」と声を荒げた。

時間も16:30になろうとしていたので「この状況では落ち着いてできないから明日にしよう」と言ったのだが、ファディとディーナとクサイは執拗に今日済ませようと勧めた。彼をいったん家に返してしまったら、家族に反対されて絶対にもう撮れないと考えていたからだ。戦争が終わって半年たったが、とにかく人々が周囲を怖がり、口を開かなくなってしまった。ティクリートはバグダッドよりもはるかに神経質だ。

インタビューを終え、家を出ると18:30をまわっていてもう真っ暗だった。通りを歩く人はほとんどいなくなっていた。昨日の出来事も影響していたか、さすがにみんな表情が固く、家に着くまで車中はほとんど無言。とても重い空気だった。

イラクの社会は地縁、血縁、宗教がこんがらがって非常にややこしい。フセインはこの国を治めていく過程で、これらの間に差異を作り出して境界線を引き、政治的に利用するようになった。いや、自らの支配体制を固めるために政治的に利用した結果、境界線ができてしまったのか。部族(アシューラ)間、スンニとシーアの宗教間における優劣関係を、フセインが意図的に作り出したのが、あるいは反乱への報復処罰をした結果自然に作り出されたのか、フセイン自身に聞いてみないとわからない。バグダッドだけ見てイラク社会を語ることは一面的過ぎるとあらためて思う。

昨日のDiaryの「部族間の優位関係の変化とは別に、米軍や地元の警察が攻撃する連中については、」というのが、間違っていることに気が付いた。正しくは「部族間の優位関係の変化とは別に、米軍や地元の警察を攻撃する連中については、」である。だれかに読まれている可能性があると考えると、こういうところが気になってしまう。例えば、後日に訂正する日記なんてあるのかな。

TIKRITからの車中、ほとんどおし黙っていたファディがついに口を開いた。安全について、彼は激しく意見してきた。極度に危ない危ないと繰り返し言われると、余計に気を使って迷いが生じる。迷いは感覚も判断も鈍らせる。それが怖い。現場では迷いたくない。ヘビーな言いあいになったのでもうへとへとだ。ひとつだけ、指摘されて言葉をなくしたことがある。

昨日事故現場に向かう時に側道を歩いていった。でも、地雷が埋められていることを考えて、舗装されている車道を歩くべきだった。米軍が狙われた場所なのだから、地雷が埋められていたとしても不思議ではない。実は米兵にホールドアップされたことより危なかったと自覚した。わかっていたはずなのに……運が良かったとしか言えない。

彼は”I know Iraqi people, better than Iraqi.”と言ったが、それは事実かもしれない

銃口を向けられて

Day-7
今日はいろいろなことがあった。何もかもがフレッシュだったし、かつレッドゾーンに踏み込んだからか、自覚している以上に疲労がある。どこまで書けるかわからないので印象に残った事から書こうと思う。

人口の半分ずつを占めるジュブウリー族とティクリーティ族がユーフラテス河をはさんで完全に分かれて暮らしていること。フセイン時代はティクリーティ優位で、ジュブウリー地区は貧しく虐げられてきたこと。フセインがいなくなって立場が逆転し、米軍が地元警官などに重用しているのはジュブウリーであること。住民のほとんどがスンニ派のTIKRITでは、スンニ、シーアという宗派間の緊張関係はない。あるのはジュブウリーとティクリーティの緊張関係だ。メトロポリタン・バグダッドではことさらに部族間の緊張状態をとらえることは難しい。

部族間の優位関係の変化とは別に、米軍や地元の警察が攻撃する連中については、ティクリーティの中でも特にフセインの親族ベジャト族とアル-ブナサ族だということ。

米軍が襲撃された現場に遭遇した。ことの成り行きを見守る一般市民の側から、見えない線をまたいで”War zone”へ入っていった。頭の中が白く飛んだこと。”GOD save me”と心の中で唱え、確信があったこと。ジャーナリストだからといって、動きを間違えば撃たれる対象であると実感した。喉が荒れて、咳が止まらなくなってしまったこと。車にもどるとファディとディーナとクサイがすごく深刻な顔をしていたこと。じんわりと恐怖がこみ上げてきたこと。

占領下の真実を見るには絶対に時間がかかる。自分だけしかそこにいなかったという要素だけで評価を期待してはいけない。もっともっと深く踏み込んで行って取材し、その内容と質を分析器にかけ、いま占領下のイラクでなにが起こっているのかを説明できるように、取材の層を重ねていってフッテージを再構成しなければならない。そのための時間を絶対に持つべきだ。「占領下のイラクで今なにが起こっているのか、その真実を見せる」それが今回の目的なのだから、表層の出来事をとらえただけではまったく不十分だ。焦ってはいけない。

シャワーを浴びた。
ジャーナリストに銃口がむけられたフッテージにいったいどんな意味があるのだろうか?よく考えれば「ジャーナリストも例外ではない」という状況説明のひとつに過ぎない。「~も」と表現されるところはいかにも妙だ。あくまでも脇役なのだ。「~は」と主語で語られるのは、他でもないイラクの人たちであり、彼らが主役だ。魅力溢れる主役像を紡ぎあげていくことだけを考えればいいんだ。

明日TIKRIT取材2日目はモスク礼拝とティクリーティ族。

Yesterday bombed,Today work

Day-6
9:30 保険省に診療所の撮影許可をもらいに行く。
途中、一昨日の爆発現場という場所を通った。政府系の建物のようだが、1~3階の窓ガラスは割れていたものの人々はなにもなかったかのように黙々と出入りしていた。ファディが”Yesterday bombed,Today work”と言ったことが耳に響く。

診療所の所長に渡されたメモのところに行くと、担当職員(ドクター)がおり、ワクチンの話を聞いた。すると、ワクチンは不足などしていないと笑い飛ばす。

「私たちはすでに2つの会社にオーダーしています。心配しないで下さい。大丈夫です」と自信たっぷりに言う。そう言われるとこっちの出る幕はない。事実は BCGワクチンはあって、MMRワクチンは3ヶ月前からない、ということのようだ。職員は”We can’t say I don’t have. We arranged already”と繰り返し強調する。子どもの健康に関わることだから、状況がわからない親にとっては気がかりなことだろうに、職員のこうした態度には疑問が残る。

次官(らしき人)が「許可なんて必要ない。身元と目的を説明すれば問題ないだろ。フリーだよ、フリー」と軽く言ってのけたのには、驚いたと同時に「そうだろうな」と妙に納得してしまった。ハンコもない推薦メモを書いてもらった。組織では下に行けば行くほど、依然として自分たちでは決められないという空気がある。日本に似てなくもない。

ファディの義父タラルのコピーショップは保険省のすぐ近く。客は医科学系の学生や学校関係者で繁盛している。2人いる妻の1人ワジハが楽しそうに注文を受けてコピーをとっていた。この前の取材では休業していたから、とてもうれしい。

ディーナと合流し、診療所へ向かう。診療所というのは、この地区のPrimary Health Center (PHC)とわかった。PHCはいわば地域の保健所で、フセイン時代に取材を申請して許可が取れなかった。1年半越しで取材がかなったわけだ。撮影は問題なかったが、所長も医者もインタビューを頑なに断って実現しなかった。怖がっている。

6月にある医師が地元新聞のインタビューを受けて写真が出た後、殺すと脅迫を受けたと言う。許可を取れと言うからわざわざ保険省まで行ったのに今になってイヤと言われると釈然としないし、脅迫事件から5ヶ月も経っているんだから神経質にならなくても、などと思ったが、日常的に生活を脅かされている環境にあって、不安の種を作りたくないという気持ちは理解してあげなくてはならない。

所長の話では、アル・ハリル小学校の関係者に「日本人カメラマンとしゃべるな」という脅迫電話があったらしい。脅迫電話を受けた本人から聞いたわけではないし、怖がって行動しなくなればそれこそ脅迫した者たちの思うつぼだ。でも、そういう噂があること自体で周囲に悪い影響を及ぼしかねないし、注意するにこしたことはない。

2:30 診療所で出会った20歳のハニン。彼女はTVやラジオ、新聞などのメディアグループ『シャバーブ』でジャーナリストをしていた。今回、ウダイ直轄組織フェダイー・サダムで働いていた若者を取材したいと思っていたが、『シャバーブ』はフェダイー・サダムのいわば文民部門。もと民兵という人を探していたのだが、彼女は顔を隠さずに話をしてくれるし、若者のストーリーを構成するには十分興味がある。

父はアルミニウム工場を経営していてリッチみたいだ。広大な土地にたっているわけではないが、外装に瓦みたいなものが使ってあったりする豪華な自宅にびっくり。アラブ王朝+ビクトリア王朝を足して割ったような家具の応接間、巨大なシャンデリアがすごい。始めは母だけだったが、途中父も帰宅して両親同伴のインタビューとなった。

彼女は文章を書くのが好きで、取材記事の書き方などは独学で学んだ。特に管轄省庁もなくウダイの私的組織だった『シャバーブ』で働いていた人たちは、今仕事が得られないそうだ。若者たちはモチベーションが高かったようで、「自分たちはプロとして頑張ってきた」という意識を乱暴に傷つけられていた。独学で頑張ってきた彼女は特にそうした意識が強いのかもしれない。
途中、母が「インタビューに答えるのはやはり怖いです」と言って中断したが、みんなが怖がる中で彼女もよく顔を隠さずに正直な意見を語ってくれたと思う。婚約したばかりの長女が不安を抱えるようなことをさせたくないと言うのが当り前だと思うが、趣旨を理解して最後までインタビューを続けさせてくれたご両親にも感謝したい。

ファディは”I like your all job. But I don’t like going to TIKRIT. I don’t like.”と言う。答えようがないから、苦笑いをした。その後、彼はTIKRITに住んでいて休暇でバグダッドに来ている人を探し出してきた。ガイドとして、明日チームに加わることになった。いつでもそれなりの準備をするファディに感心する。

明日はTIKRITだ。

Main movement is made in Japan

Day-5
6:00 目が覚めた。風も止んでいい天気だ。子どもたちの登校風景を撮るにはいい、と思いながら1時間ほど寝る。


7: 30 学校の前で生徒先生の登校風景を撮影。前に来たとき、米兵たちがジョマナ父子に銃口をむけながら近寄ってきた同じ通り、その同じフレームの中に、子どもたちがカバンを背負って歩いてくる。自分にとって象徴的な風景だし、とても感慨深い。ここだけ使えば、一見イラクの人たちは日常生活を取りもどしていると理解できるだろう。でも、「核心」はもっと深いところにあるように思う。目に見える日常生活という表層の下に重なるいくつもの層。その層が目に見えるものなのか、見えないものなのか、今はそれすらもわからない。今の自分にわかることは、「状況はそう単純なものではない」ということだけ。

これまでは、子どもたちの元気な笑顔を見ることで取材レポートが終わっていた気がする。これまでの取材レポートを否定されている気にさえなるが、そう考えるのは前向きとは言えないよな。状況が違う。これが「占領下の生活」というものなのかもしれない。

本宅に戻るとプロパンガスを売りに来ていた。子どもの頃、家に灯油屋さんが来ていたことを思い出した。そういえば昨日はトイレのバキュームカーに来ていた。考えてみれば当り前だが、毎日生活しているのだから一日に家に起こる出来事というのいろいろあるのだろうな、とあらためて思った。自分が見ているのは本当にその一瞬に過ぎない。

末娘サファーナの予防接種に行く。病院のようなところへ行ったのだが、病院というよりは中規模の診療所だ。撮影するには保健省の許可が必要だと言う。ファディは一生懸命説明をするのだが、頑として聞き入れない。フセイン時代の時の取材許可取りの難しさを思い出して、少し辟易するが、一方で日本だってTVカメラがいきなり来て撮影させてくれと言ったって通らないし、おんなじか、と思う。

サファーナは注射をしなかった。診療所の所長は、ここだけではなくイラク全土でワクチンがないと言う。ワクチンがないとは知らなかった。自分が講演会で単純に「薬はあります」と言っていたことを深く後悔する。間違いではなかったのだが、単に麻酔薬や鎮痛剤が足りないと言うだけではあまりにも浅かった。大切な事柄だからもっと詳細な解説をするべきだ。本当に謝りたい気持ちでいっぱいだ。

11:00 アシュワックが父母会に行くのに同行。学校はお母さんたちでごった返していた。父母会は年に2回開かれる。学校が再開されて初めての大きな行事でもあるので、先生たちもバタバタ。

さっきまで問題なかったマイクの音が出ない。みんなでアンプやコードのつなぎ目やコンセントをああでもないこうでもないといじくるが直らない。そうしているうちにもう12:00をまわっていた。始めなくて大丈夫なのかなと思っていたら、もうとっくの昔にはじまっていて、ショウカッド校長は最後のクラスでスピーチしていた。アシュワックのいたクラスは終わってしまい、お母さんたちはワラワラと帰っていく。ショックだ、逃した。年に2回、それも戦争後初めて、千載一遇の機会だったのに……。先生たちのバタバタに気を取られてしまった。トホホホホ・・・夜は少ししっかりとアシュワックの話を聞かなくちゃ。

15: 30 インターネットカフェでメール第2便を送信。電気店でDVDプレイヤー(再生のみ)を3種類見つける。ひとつはポータブル型。どれも聞いたことのないメーカーだったが、”Main movement is made in Japan”と書いてあった。なかなかニクイことわり書きだ。値段は80ドル。

ここはファディの会社の近くだから、必ず寄る。同僚は年齢も体格もまちまちだが、みんな目がカッコイイ。プロの目をしている。同僚がポケットからピスタチオをひとにぎりくれた。イラクでもナッツはハダカのままポケットに入れてポリポリ食べるので、よくもらうことがあるが、ポケットに入っていたナッツは人肌でほんのりと温かくなっている。なまるいし、ホコリぽいし、正直まいったなーと一瞬思うけれど、食べるとこれが結構おいしい。そして、食道から胃へと心地好い温かさがしみてくるから不思議だ。

20: 00 イラクTVの連続ドラマが終わるのを待って、アシュワックに今日の父母会のことを聞いた。できれば家族にも参加してもらいたいと思い、わざとリビングでオープンな雰囲気のまま収録した。ファディはジョマナの学校について何かイチモツを持っていそうな気がしていたが、やっぱりそうだった。

アシュワックがインタビューに答えている後ろで、背中を向けて食事をしている。彼がこう言う態度をとるときは、言いたいことがあるのに抑えようとしているときのように思う。食事を終えた彼に質問を向けると、始めは「ディーナは先生だから言えない」と意味深なことを言って話すのを拒否していたが、そのうちしゃべり始めて口調はどんどん激しくなっていった。それにディーナも反論する。矛先はしばしばこちらにも向けられた。そのやりとりは興味深いものだったが、書くにはもう体力がない。

ひとつは、学校の先生たちも切望していたが、教科書を新しいものに切り替えるべきであるということだ。フセインはイラクの人たちにとっていい意味でも悪い意味でも心の拠りどころであり、イラクに暮らすということはフセインとともに生きるということだ。ここでの暮らしは、フセインとイラク社会という関係ではなく、フセインとイラク国民一人一人という関係の中で成り立ってきた。

フセインを否定することは、フセイン時代に暮らしてきた人たちが積み上げてきた生活、考えそのものを否定することになる。フセインをNGと言うのなら、OKと言うものをこの目に見せて欲しい-という叫びのように思う。これはインタビューとか言葉で語るのは簡単だが、映像で伝えるのは本当に難しい。いや、本当に難しい。

話している中で、クルド人地区では新しい勉強道具が配られていることがわかった。クルド自治区では、90年以降教科書からフセインの写真は消えている。それと同じことがなぜアメリカにできないのか、しないのか、もう6ヶ月もここにいるのに……。反米感情の一部が失望感から生まれているというのはこういうことがあるからだ。

そういえば、昨日の23:45に大きな爆発音、続いて24:30に爆発音があった。この間ほど近くはないが、そう遠くでもなさそうだった。探しにいきたかったが、車がなかったのであきらめた。まあ、焦ることはない。

ズボンははけますか?

Day-4
寝ている最中に風が強いな、と思った。朝になっても風はつよい。明け方、少し雨がふったようだ。8:00すぎに本宅へ行くと、ジョマナは母アシュワックと学校へ行った後だった。ラミを送りがてら学校へ行く。朝の町内を知り合いの息子と手をつないで学校へ送るのは、すっかり保護者になったようでなんだか変な気分だ。目立つのも良くないかなとも思ったが、すれ違う人たちにきちんと目を見てあいさつをすれば大丈夫かな、と思って良しとした。学校から戻ると車がない。ファディが起きて後を追ったらしい。ファディは起きぬけのはれた目をしながら、”Here is no security.”と諌めた。わかっているって、と言ってはいけないと思ったから、”OK, sorry.”とだけ笑って答えた。

爆破された警察署を撮りに行った。隣接する店舗の建物は半壊している。警察署そのものの壊れようはひどいものだが、それよりも被害が大きいように見えた。火災によるものだ。あたり一面に焼け焦げた塗料の缶が転がっていて、ペンキ店だったことがわかった。現場を見てみないと分からないことがあるものだとあらためて思う。そのペンキ店を営む一家は建物のすぐ裏に住んでいて、その一角の家々も半壊していた。店は父と息子たちできりもりしていたようだが、父と息子のうち1人が亡くなった。本当にひどい話だ。残された息子たちの笑顔はしっかりとして頼もしい。どうか頑張って欲しい。

10:30 学校へ。歴史の授業を見学&ロケ。6年生の男子クラス。授業中、先生に質疑応答の機会をつくってもらった。彼らからの質問は、①占領をどう思うか ②イラクが好きか ③戦争をどう思うか ④あなたもラマダンに参加できるのか ⑤日本の占領とイラクの占領は同じか-。席から立ち上がって手をあげる少年たちの元気な姿は最高だ。理解しているかいないかはあまり問題ではなく、彼らの質問に真剣に答える態度が大切だと思う。こうゆう楽しい時間ばかりならいいなあ。
隣の6年生のクラスには、トルコ大使館の隣に住んでいる少年がいた。爆弾テロで両足に大火傷を負い、皮膚の移植手術をしたそうだ。今は痛みも無いと言い、とても元気だけれど包帯が痛々しかった。父親は一命をとりとめたものの失明したそうだ。

12: 30 先生たちとインタビュー2回目。今回はアメリカの占領についてどんなストレスや疲れを感じているのか、どんな思いを抱いているのかを聞く。一番印象に残ったのはジョマナの先生の「50/50」と言う表現。自分の日常生活で疲れやストレスを感じることがあるか、という質問に対する答え。フセイン時代の約30倍の給料を月々もらえるようになり、学校もきれいにしてもらって、教師としての誇りも取りもどした。でも、治安が悪すぎて安心して暮らせない。そこにストレスを感じているようだ。「一年後、あるいは将来的にイラク人はアメリカと仲良くなれる可能性があると思いますか?手をあげてください。」と聞くと、「可能性はある」と手をあげたのは5人中1人。通訳をしてくれたディーナだけだった。わかる気がする……。

夜、もとローカルセキュリティのメンバーだった青年から話を聞く。共産主義世界にはあると思うが、警察国家、密告社会だったイラクに独特のシステムだと思う。外国人、イラク人に限らず、特に他の地域から来た人物の監視をしていたようで、住民の日常生活上の治安を守る警察とは似て非なるものだ。以前はイラクの人民と国のために働くというはっきりとした目的を持っていたが、今はセキュリティやインフォメーションで働いていた過去のある者はどこにも雇ってもらえない。「自分たちが何を悪いことをしたと言うのか」という鬱屈した気持ちを伝えたかったようだ。彼の希望で顔は見えないように収録。この手の仕事をしていた人たちは、みんなもとの仕事は隠していて捜しようがない。米軍、イラク人の両方から襲われるのを怖がっている。
インタビューの始め、どんな仕事をしていたのかと聞くと「イラクの国と人民を守る仕事」という答えが繰り返され、いっこうに具体的な答えが返ってこない。少ない明かりのなかで2時間近く、こちらも経験したことのない長いインタビューになった。へとへと。でも、せっかく勇気を出してしゃべりたいと言ってきたのだから、あますところなくかつ詳細に話を聞いた方が面白いはず。純粋な心を持ったまじめな青年だ。なんだか心に残るインタビューだった。

学校で、ディーナに「変な質問だけど、ズボンははけますか?」と尋ねると「学校ではロングスカートが決まりなんです。普段はズボンもはいています」と答えた。夜のインタビューには颯爽とズボンをはいてきた。通訳のリズムも良くなってきている。考え方はモダンで、ハイダと同じように民主主義指向がある。ときどき反イスラエル・反米感情が突っ走って空回りするファディに対して、彼女はきちんと自分の姿勢を崩さす反論できる。第三者にとってはバランスが取れて良いかもしれない。