Day-5
6:00 目が覚めた。風も止んでいい天気だ。子どもたちの登校風景を撮るにはいい、と思いながら1時間ほど寝る。
7: 30 学校の前で生徒先生の登校風景を撮影。前に来たとき、米兵たちがジョマナ父子に銃口をむけながら近寄ってきた同じ通り、その同じフレームの中に、子どもたちがカバンを背負って歩いてくる。自分にとって象徴的な風景だし、とても感慨深い。ここだけ使えば、一見イラクの人たちは日常生活を取りもどしていると理解できるだろう。でも、「核心」はもっと深いところにあるように思う。目に見える日常生活という表層の下に重なるいくつもの層。その層が目に見えるものなのか、見えないものなのか、今はそれすらもわからない。今の自分にわかることは、「状況はそう単純なものではない」ということだけ。
これまでは、子どもたちの元気な笑顔を見ることで取材レポートが終わっていた気がする。これまでの取材レポートを否定されている気にさえなるが、そう考えるのは前向きとは言えないよな。状況が違う。これが「占領下の生活」というものなのかもしれない。
本宅に戻るとプロパンガスを売りに来ていた。子どもの頃、家に灯油屋さんが来ていたことを思い出した。そういえば昨日はトイレのバキュームカーに来ていた。考えてみれば当り前だが、毎日生活しているのだから一日に家に起こる出来事というのいろいろあるのだろうな、とあらためて思った。自分が見ているのは本当にその一瞬に過ぎない。
末娘サファーナの予防接種に行く。病院のようなところへ行ったのだが、病院というよりは中規模の診療所だ。撮影するには保健省の許可が必要だと言う。ファディは一生懸命説明をするのだが、頑として聞き入れない。フセイン時代の時の取材許可取りの難しさを思い出して、少し辟易するが、一方で日本だってTVカメラがいきなり来て撮影させてくれと言ったって通らないし、おんなじか、と思う。
サファーナは注射をしなかった。診療所の所長は、ここだけではなくイラク全土でワクチンがないと言う。ワクチンがないとは知らなかった。自分が講演会で単純に「薬はあります」と言っていたことを深く後悔する。間違いではなかったのだが、単に麻酔薬や鎮痛剤が足りないと言うだけではあまりにも浅かった。大切な事柄だからもっと詳細な解説をするべきだ。本当に謝りたい気持ちでいっぱいだ。
11:00 アシュワックが父母会に行くのに同行。学校はお母さんたちでごった返していた。父母会は年に2回開かれる。学校が再開されて初めての大きな行事でもあるので、先生たちもバタバタ。
さっきまで問題なかったマイクの音が出ない。みんなでアンプやコードのつなぎ目やコンセントをああでもないこうでもないといじくるが直らない。そうしているうちにもう12:00をまわっていた。始めなくて大丈夫なのかなと思っていたら、もうとっくの昔にはじまっていて、ショウカッド校長は最後のクラスでスピーチしていた。アシュワックのいたクラスは終わってしまい、お母さんたちはワラワラと帰っていく。ショックだ、逃した。年に2回、それも戦争後初めて、千載一遇の機会だったのに……。先生たちのバタバタに気を取られてしまった。トホホホホ・・・夜は少ししっかりとアシュワックの話を聞かなくちゃ。
15: 30 インターネットカフェでメール第2便を送信。電気店でDVDプレイヤー(再生のみ)を3種類見つける。ひとつはポータブル型。どれも聞いたことのないメーカーだったが、”Main movement is made in Japan”と書いてあった。なかなかニクイことわり書きだ。値段は80ドル。
ここはファディの会社の近くだから、必ず寄る。同僚は年齢も体格もまちまちだが、みんな目がカッコイイ。プロの目をしている。同僚がポケットからピスタチオをひとにぎりくれた。イラクでもナッツはハダカのままポケットに入れてポリポリ食べるので、よくもらうことがあるが、ポケットに入っていたナッツは人肌でほんのりと温かくなっている。なまるいし、ホコリぽいし、正直まいったなーと一瞬思うけれど、食べるとこれが結構おいしい。そして、食道から胃へと心地好い温かさがしみてくるから不思議だ。
20: 00 イラクTVの連続ドラマが終わるのを待って、アシュワックに今日の父母会のことを聞いた。できれば家族にも参加してもらいたいと思い、わざとリビングでオープンな雰囲気のまま収録した。ファディはジョマナの学校について何かイチモツを持っていそうな気がしていたが、やっぱりそうだった。
アシュワックがインタビューに答えている後ろで、背中を向けて食事をしている。彼がこう言う態度をとるときは、言いたいことがあるのに抑えようとしているときのように思う。食事を終えた彼に質問を向けると、始めは「ディーナは先生だから言えない」と意味深なことを言って話すのを拒否していたが、そのうちしゃべり始めて口調はどんどん激しくなっていった。それにディーナも反論する。矛先はしばしばこちらにも向けられた。そのやりとりは興味深いものだったが、書くにはもう体力がない。
ひとつは、学校の先生たちも切望していたが、教科書を新しいものに切り替えるべきであるということだ。フセインはイラクの人たちにとっていい意味でも悪い意味でも心の拠りどころであり、イラクに暮らすということはフセインとともに生きるということだ。ここでの暮らしは、フセインとイラク社会という関係ではなく、フセインとイラク国民一人一人という関係の中で成り立ってきた。
フセインを否定することは、フセイン時代に暮らしてきた人たちが積み上げてきた生活、考えそのものを否定することになる。フセインをNGと言うのなら、OKと言うものをこの目に見せて欲しい-という叫びのように思う。これはインタビューとか言葉で語るのは簡単だが、映像で伝えるのは本当に難しい。いや、本当に難しい。
話している中で、クルド人地区では新しい勉強道具が配られていることがわかった。クルド自治区では、90年以降教科書からフセインの写真は消えている。それと同じことがなぜアメリカにできないのか、しないのか、もう6ヶ月もここにいるのに……。反米感情の一部が失望感から生まれているというのはこういうことがあるからだ。
そういえば、昨日の23:45に大きな爆発音、続いて24:30に爆発音があった。この間ほど近くはないが、そう遠くでもなさそうだった。探しにいきたかったが、車がなかったのであきらめた。まあ、焦ることはない。