IRAQNA

午前中は、ホテル探し。最後まで反対するファディには、リサーチも兼ねていると説明して何とか押し切った。価格のネゴと、安全度の評価に彼の助けがあればいいなと思っていたので、手伝ってくれて助かった。

インターネット・カフェに近いという理由から、カラダ地区にした。日本大使館にも近いし、JENなどのNGOの事務所にも近いということに気がついた。これまで取材やロケで頭と体力を使い切った後に、しかも夜にしか来たことがなかったから気がつかなかったのかな。

ついでに、携帯を買った。戦争が終わって10ヶ月、ついに一般向けサービスIRAQNAが始まった。いつも思うけれど、携帯のサービスの名前やロゴマークはどこの国でも結構イケてる。なんでだろう?イードの後、2月7日から始まったというが、1月の時点では既に会社のオーナー向けとして限定的に800ドル~ 900ドルで売り出していた。アリハの社長は誇らしげにデスクの上にスラヤと並べておいていた。

ファディがためしに電話してみたら繋がらず、こんなに高いお金を出して買ったのに・・・とバカにされていたことを思い出す。携帯電話本体、SIMカード、30ドル分のプリペイドがついて、200 ドル前後~300ドル。ただし、SIMカードだけを買おうとすると150ドルとか言われる。基本的には3点セットで購入しなければならない。Nokiaのスタンダードやモデルは225ドル。仕事上、これからのことも考えてディーナにも持っておいて貰うことにした。機械オンチの彼女だが、携帯で話す姿は結構サマになっている。自分はNokiaの同じモデルを持っているし、パッケージも変わらない。「これは安いけどいいぞ」と言う店主の進めもあり、その店に1 セット残っていたSEGAMというフランスの会社のものにした。箱が”IRAQNA”独自のものだ。185ドル。作りは安っぽいが、何せ初モノである。やっぱり”IRAQNA”の箱入り&ファーストモデルってとこに価値ありでしょ。そういえば、日本で始めて持った携帯も一番安くて無骨なやつだったな。

ホテルのある界隈(カラダ地区)、取材予定の警察のある界隈(アダミヤ地区)はactive、ファディの家があるアル・シャーブ地区はまだ未整備。でも、そのうちすぐに整備してしまう気がする。

ブツブツ言いながら、ファディはサマーワへ帰った。エヤットの父親も同行。料理人として彼のチームの一員になる。彼はかつて80年代半ばにユーゴスラビアの会社で料理人をしていたそうだ。エヤットの現状について親に聞いてみたいと思っていたので、今回は会って話ができてとても嬉しかった。
家族といっしょに見送る自分は、なんだか変な気分だ。いつも逆の立場なのに。道中はもちろん、現場での彼らのチームの安全を心から祈る。

I know you, Kenji

26日、午前2時ホテル発。いつものはにかんだ笑顔を見せるアブドゥラ。頬を合わせた時の鬚の感触が懐かしい。表情は少し疲れているように見えた。

5:10 ヨルダン側国境到着、5:45 日の出、6:25(イラク時間で7:25) イラク側へ入境。両サイドの入管は休日前だからか、混み合っていた。自動車多数。イラク側で荷物チェックは一切なし。両手をズボンのポケットに突っ込みテレテレ歩く米兵2人。

11:20 ラマディ通過、横転して炎上したトレーラー。荷台のドアは開き放たれ、荷物は散乱していた。ファルージャ付近で同じような状態のトレーラーと乗用車が側道に放置してあった。

炎は出ていなかったが、野次馬がいたところを見ると、今朝方にアリババにあったものと推測される。ラマディ-ファルージャ間でアメリカ軍の車列に遭遇。一般車はこれまでより距離をとっている感じがした。これまでは、スピードを緩めながらも車列を追い越していくこともあったのだが、みんな近付くどころか300 メートル以上車間をとっている。

予兆もなく突然始まる米軍と武装勢力との戦闘。その巻き添えにあわないようにしている。たぶんこの道で起こる事件が以前のように散発的ではなく、毎日のように起こるようになったのだと思う。こうした地元の人たちのちょっとした変化は侮れない。何ヶ月かに一度訪れる自分たちとは違い、毎日ここで暮らす彼らにとって危険を回避することは日常的な行動だ。運を天に任せる暮らしが日常的な暮らしとはいえない。けして今日たまたまという現象ではない。

14時 バグダッド着
家族と再会、タラルは少しやせた。一月終わりに胆石(だと思う)で入院していたせいだ。ジョマナの前歯は半分以上生えてきていた。サファーナは表情がより豊かに。アシュワックのお腹は一回り大きくなって、サッカーボールなら2 つは入りそうだ。双子かも、と真剣に思ったが、一人らしい。ファディの帰りを待つ。

カメラマンベストをはおって、ファディが帰ってきた。首には身分証明書をぶら下げて、いかにも報道チームで働いている風。なかなか凛々しい。ファディは今、時事通信のサマーワ取材班のボディガードとして住込みで働いているが、とにかく無事で何より・・・。彼のポジションを思うと、この忙しい時に1日休みなどもらって取材班は大丈夫だろうか、と気になる。

昼食。最近、鳥も牛も食べる気がしない日本にいたから、鳥肉は特に美味しかった。気にすることなく食べられるというのは幸せなことだ。

今回の取材テーマを話すと”I know you, Kenji. I don’t go back to Smaawa.”と静かな表情で言い出した。もちろん、気持ちだけだ。きちんとした相手との約束を重んじる彼がそんなことを現実にやるはずはない。思ったことを言わずにはいられない人間なんだ。彼はもう、自分がどんな取材テーマを言ってもNOとは言わない(ファルージャを取材すること以外は)。ディーナもそう。”I know you, Kenji.”なのだ。

取材対象にあげたアダミヤ警察署とバグダッド・ジディーダ警察署を訪問。無論、行ってすぐにOKとはいかないだろうが、糸口はここから。警察の取材にはバグダッド市警の地域本部から許可書をもらわなくてはならないことが判明。地域本部に着いたのは夕方、日没後だった。

警察は今、米軍以上に狙われている感がある。チェックポイントが何重にも置かれ、建物に入るのもひと苦労だった。こういう時に知り合いがいると助かるな、と思っていたら、タラルの旧友がいた。ひとりはチェックポイントで、もう一人は地域本部長の秘書官として働いていた。こうした偶然には本当に驚かされる。「まず本部長に会ってお茶を飲んで目的を話しなさい。そうすれば大丈夫だよ」という秘書官。可能ともダメとも言わない独特のニュアンスに一抹の不安を抱えながら、土曜日の朝8時半にもう一度出直すことになった。

許可取り、大丈夫かなあ。

秘書官や数人の警察官と話した時、彼らは「以前は特定の人物とグループのためだけに働いていたんだ。でも、今はそうじゃない。自分たちは市民のために働いているんです」と言う。それこそ警察学校で教わったのかもしれないが、実に印象的だ。そして、彼らの本音だろう。地位の高い者は別として、当時の彼らの給料はひどいものだった。現在の消費者物価やその危険度に照らせば、今もけして良いとは言えないけれど、サダム時代に比べれば雲泥の差だし、仕事に取り組むモチベーションや「俺たちは悪と戦う」みたいな警察官独特の誇りは手に入れた(ただし、この誇りが「自分たちが正義だ」と思うこととイコールかはわからないのだが)。

いずれにしろ、イラクの治安の鍵を握っているのはこの新しい警察だ。イラク人への主権移譲の前に治安の確立は必須だし、イラク人自身が治めるということそのものの行方を占う指標にもなる。

アンマン到着

2:15、KL405便は20分遅れでアンマンに着いた。今回はここに1泊せず、3時間ほどの休憩をとってバグダッドに向かうつもりだった。ファディには、4時にアブドゥラがホテルへ迎えに来てくれるように手配して欲しいと頼んでいた。でも、荷物を持って空港を出たときは3:00をまわっていた。このまままったく休みなしの10時間ドライブは強行軍だなと少し憂鬱だったが、それより1日でも多く取材日を確保したいという思いの方が強かった。

4 時を過ぎてもアブドゥラは来なかった。彼の携帯も不通。日にちを一日間違ったのではないか。結局ロビーで5:45まで待ってホテルにチェックイン、ファディに電話した。バグダッド時間で7:00。電話に出たのは時事通信のカメラマンの方だった。朝早くに申し訳ないことをしてしまった。

現在、ファディは時事通信のサマーワ取材班の一員として働いている。カブールのハナカーもそうだが、自分と仕事をした人間がその後に良い働き口(安定した給料や待遇を得られるしっかりした組織)を得てがんばっているのを知るととてもうれしい。インデペンデント・プレスには彼らをキープする金銭的余裕も仕事のキャパもない。彼らの人生がより豊かになるように、より大きな組織、国連機関や名の知れたNGOやメジャーな報道機関でキャリアを持って欲しいといつも願っている。良かったなあと思う反面、さびしい。もう、いつ行っても自分といっしょに動いてくれるというわけにはいかなくなるから。彼らは”Kenji, you are the first. I can work with you anytime you want.”と言ってくれて、予定を空けてくれる。

今の生活を投げ打ってまで・・・というわけではないけれど、時には学校や勤めを休んで時間を空け、いっしょに働いてくれる。給料も額面上は最初の時と変わらない。それぞれが経験や能力を身につけて、今では倍の給料をもらえる立場になっていてもイヤな顔せずに二つ返事で引き受けてくれる。むろん、こちらは甘えるわけにはいかないので当然前よりも報酬は多く支払うけれど、「これだけしかない」と言えば文句を言わずにやってくれると思う。率直に、感謝の気持ちでいっぱいだ。同時に、自分も彼らの発展のスピードに負けないように新しい経験を積んで消化/発達し、プロとして熟成されていかなくてはならないと自分自身に言いきかせている。

やはり、到着を1日勘違いしていたらしい。あんなに言ったのに伝わっていなかったか、やっぱり。今回は準備段階からここまで「立て板に静かな水が流れる如し」だったのになあ、まったく。アラブ人のくせに、何度も”I’m sorry”を繰り返すファディ。まあ、まあ、もういいじゃないか、こっちの仕事モードをいったんブレイクすればいいことだ。

ハイチの情勢が混迷してきた。反政府勢力は第二の都市も掌握し、アリスティード大統領派の住民(警察官か軍人かもしれないが)を捕らえて拷問するケースも出てきた。反政府勢力は国際社会(って一体誰なんだ?)の停戦プロセスを拒否。反政府勢力は幹線道路を押さえて首都と地方の物流をコントロールしようとしている。

一方、政府側は反政府勢力への警戒を強めて、一般市民に銃口を突きつけ始めた。首都ポルト・オウ・プリンスの住宅街では散発的な銃撃戦も起きている。アメリカは大使館を警護するために海兵隊を上陸させた。昨年のリベリアの時とここまでほとんど同じ流れだ。あの時の現場経験をもう一度実戦で確かめてみたい。現場に行きたいが・・・我慢、我慢だ。今後の流れが気になる。

アリスティード大統領は「これは虐殺です。彼らはテロリストだ」と吐き捨て、アメリカを始め国際社会に秩序回復のために軍事介入を求めている。彼はいったい何者なのだ?いったいぜんたい大統領としてこの国で何をしてきたのだろうか?という素朴な疑問が浮かぶ。間違いなく答えは不毛だ。この世で、政治(家)の存在とはいったいなんなのか、まったく考えさせられる。
最近では、国際社会って言っても顔が見えない。匿名性が高くなって、いったい国際社会って何をする人たちなんだ?と思うことがある。以前は国連がひとつのイメージだったんだけど。

アムステルダムからの機内で隣り合わせた英国人は、イラクの警察学校の先生だった。今回のテーマのひとつだったので、与えられた偶然の出会いにびっくりした。マルコム・トンプソン氏はウェールズの現職警官で、ヨルダンの警察学校”Iraq police training center”で教鞭をとる60人のひとりだ。現在、CPAが運営する警察学校は3箇所、バグダッド、バスラ、ヨルダン。内容はまったく同じだと言う。一回のコースは8週間。特に人権について教える。女性に対する平等な扱いや暴力をふるってはならないという考えは、サダム時代の警察しか知らない彼らにとって新しい考えだと言う。

「ボクたちは英国では街角のCCDカメラでいつも見張られている。市民に暴力をふるったりすればすぐに見つかって罰せられるって教えるとびっくりしているよ」と笑う。確かにイラク人警官には理解できないかもなあ。一月ほど前に第一期生500人が卒業し、イラク国内で配置に着いているそうだ。これまでのところ生徒たちはサダム時代に警察官だった者がほとんどだが、今後は未経験者も増えてくるかもしれない。警察学校で勉強中も給料(120ドル)は給付される。

トンプソン氏は「金額はすごく安いと思う。でも、毎月きちんと保証されているのは魅力だし、必要なものはすべて支給されるからね」と言う。警察学校の取材には、CPAの許可が必要かもしれない。そうなると面倒だなあ。

トンプソン氏はウェールズなまりがきついのか、自分の英語力が未熟なので集中していないと聞き取れない。「一番苦労するのは何?」と聞くと “Language”と答えた。そういえば、バスラの警察学校のレポートをBBCで見たことがある。教師は英語で話し、アラブ人の通訳が訳していた。授業時間は倍近くかかる。トンプソン氏は生徒たちのモチベーションは高いと言うが、そのレポートでは授業中、生徒がノートに落書きをしているシーンがあった。まあ、それが現実だろうな。

英国では現職の警察官が海外の警察学校で教えるというプログラムがある。現在選べる勤務地はヨルダン、ブルガリアなど。希望者による申し込み制だ。トンプソン氏に申し込んだ理由を聞くと「定年して新しい職を得ようとした時に、海外の警察学校で教えたというキャリアは履歴書に書くのにいいかなと思って」と答えた。これには感心した。教える方にも生活がある。ラグビー大好き、2児の父。今回の帰国はクリスマス休暇だったらしい。

栄花さんはてっきり旅行中だと思っていた。隣国で鬱々しながら一人で居たりすると、さびしさに駆られて、出ないとわかっていても「もしかして」と思ってダイヤルしてしまう時がある。すると、出た。あれっ、栄花さんいるじゃん。こんな時はうれしさと同時に、何から話していいのかわからずにちょっとドギマギしてしまう。彼の希望とは異なるけれど、彼が日本に帰ってくるのはうれしい。もっとクローズドに仕事をできればいいと思う人だから。Sammyもそう。こういう時はいつも自分の組織にキャパがあればいいなあと心から思う。

事務所に伺ってJENの村崎さんに挨拶する。JENは女性スタッフが多いが、一度話せば記憶に残る人が多いかもしれない。仕事っぷりを知らないので人道援助のプロとしての能力はわからないけれど、ひとりの人間として大切なことだ。

勝った側が正義

朝5時 バグダッド発。
乗り慣れた車の後部座席で、すぐに眠りに落ちた。
“Kenji, Kenji, Ali baba. Don’t worry.”
アブドゥラの落ち着いた声で目を覚ます。彼はこちらを振り向くこともない。強盗だ(やばい、ポケットに渡す用の金を持っとくべきだった)。5、6秒後、車は路肩に停車。右のドアが開くと、2人組みが入り口に体を寄せていた。顔は目の部分だけを残して布で覆われている。一人は左手に拳銃、もう一人はカラシニコフを両手でミゾオチのあたりに握り、”Money, Money”と言いながら軽く振る。銃を突きつけたり、大声で脅されたりしなかったからか、せっかく寝ていたところをたたき起こされた不愉快さの方が先立った。

その封筒には偶然10ドル札と20ドル札しか入っていなかったのはラッキーだった。あまり額が少ないといろいろ探されそうだったから、ガサッと十枚ほどつかんで渡す。どうせ暗くて数えることができない。こうゆう時は金額よりもある程度の枚数があったほうがいい。拳銃を持った方が、もっとないのかという感じでこちらの胸元を軽く探る。

“OK, go.”

彼らはドアの入り口から体を離してドアを閉めた。運転席の窓越しにはもう1人男がいた。運転席の窓を半開きに対応しているアブドゥラの顔は前を向いていた。男が運転席の窓から離れると同時に、車は発進した。”I’m sorry, Kenji, I’m sorry.”と首を振りながら繰り返し言うアブドゥラ。もちろん、君のせいではない。カメラも獲られなかったし、200ドル程度の被害でよかったではないか。通行料みたいなもんだ。

その場所はファルージャだった。強盗たちは若かった。おそらく20代前半、もっと若いかもしれない。きっと職もないのだろう。あんなに寒いなか、高速道路に突っ立って車を待っていたなんて、逆にちょっと同情する。

イラクで強盗初体験。現場を離れてすぐ家に電話を入れようかと思ったが、心配するだろうし、何もなかったのでとりあえずやめておいた。またすぐ横になって眠りについた。

アンマン空港のラウンジにて。アメリカ人ビジネスマンが目についた。特に金の匂いのするような人たちではなく、ごく普通のカジュアルウエアにバックパックといったいでたちの会社員たち。MCIの中年女性とDCの建設会社の中年男性と話した。

復興のスピードについて聞いてみる。警察と金融分野の復興は進んできている。一方で、他の分野は遅々として進んでいないと言う。そのひとつの原因として、 CPAのビューロクラシー/官僚主義がある。プロジェクト・マネージメント部門(復興事業担当)とエンバシー・グループ(政治担当)が対立していると言う。

窓口も担当官もくるくる替わって、発注を受けた民間企業側は誰と話をしていいのか、右往左往しているのだそうだ。また、外国人ビジネスマンの安全確保は容易ではないと言う。特にホテル滞在組は1週間ほどの滞在期間中にテロにあわなければラッキーだ。DCの建設会社(とおぼしき)チャールズ氏は、マンスール地区にイラク人とともに暮らしている。安全のこともあるし、イラク人といっしょに働きたいという理由からのようだ。

彼は、「建設事業が一番手っ取り早く、社会的にいい影響を与える」という持論を披露した。イラク人労働者を多数雇用することが可能だし、土木作業などの肉体労働で汗をかいてお金を得ることは戦いを忘れさせるはずだ、と言う。これには自分も賛成だ。金物街でも感じたことだが、イラク人のポテンシャルは驚くほど高い。何でも作ってしまう。そしてスピードが早い。

復興といえば、今回初めてUSAIDのロゴを市民の生活の中で見つけた。ベイダの学校で配られたUSAIDのスクールキット。ノート10冊、電卓も付いて、カバンの作りもしっかりしている。正直、質も量もユニセフのものよりいい。小さな敗北感があって、なんだか悔しかった。ディーナもいつの間にかUSAIDのノートを使っていた。メイド・イン・USAの勝利・・・。「勝った側が正義」-その言葉が現実味を帯びて、街や人々の間にじわじわと広がっている気がする。

The Last Day

今日も寝坊。二度寝したのがまずかった。

08:45 ワリッド宅到着。
出勤前の様子をおさめ、そのまま彼らについて職場に向かう。赤い車体の大きなバスに一緒に乗った。100ディナール。両替店で”Only for poor people”と言われたことを思い出す。イラクでバスに乗ったのは初めての体験だ。

ワリッドのインタビュー。
もうすぐ15歳の彼は”男の職場”で鍛えられたのか、以前よりずっと大人になっていた。身振り手振りを交えてはっきりと答える。線の細い感じがした一番初めのインタビューを思い出す。もっと大きい声で答えてくれるかな、と注文した。ワリッドは仕事も早いし、理解力も高い。この子がきちんと勉強したら、どんなに才能を伸ばせることだろうと何度も何度も思う。

でも、彼は学校に戻るタイミングを逸してしまったかもしれない。そして、彼にとって父親とこうして一緒に仕事をしているのは精神的にはいいようだ。幸い、周囲の大人たちは実直で働き者のようだ。ワリッドは彼らから大人のルールや生業を教わり、鍛えられて成長していくのかもしれない。15歳になろうというワリッドが10歳や12歳の子どもたちといっしょのクラスで、恥ずかしさや劣等感を感じることなく勉強できる環境はイラクの学校にはまだない。こうした問題はアルハリル小学校にもあるとディーナは言う。教科書やプログラムの見直し、先生の再教育など、どれもBTSCで行なっていることだ。

イラクでなぜできないのか→アメリカの占領下で国連がいないから、という理由を挙げたてまつる時期はもうとっくに昔に過ぎてしまった。

しみわたる無力感。

ワリッドのお家に戻って、雑観と母親インタビュー撮り。
夜学があることを知る。授業料はただ、もしくは気持ち程度。「彼が本当に勉強したいと思えば、仕事が終わった後にいけるのでは?」と聞く。バカな質問であることはわかっていたが、ワリッドの才能と可能性をあきらめきれなかったのかもしれない。何もできないくせに勝手なものだ。朝から晩までホコリと雑音の中での単純肉体労働が続く。14歳の少年の体と頭がどれだけ疲れることか。もうそれ以上、母親にワリッドの学校に関してや教育に関して聞くことはなかった。

今日はロケ最終日となった。
ジョマナ、ハナン、ワリッドたちにカメラを向ける機会はしばらくないかもしれない。ジョマナとハナンが自分の思いを自分の言葉で話せるようになった時、戦争や占領のことについて聞いてみたい。ワリッドはどんな男になって行くのか、それだけが小さな楽しみだ。

彼らの成長を見ながら、イラクの一般市民の姿や思いを記録する仕事には、今回ひとつのピリオドが打たれた気がする。イラクに取材に来ることはあると思う。でも次に、こうして市民の側に立って長期間記録できる機会は、国連が戻り、ユニセフなどがBTSCのような目に見えるプロジェクトを始めたときかもしれない。つまり、当面はないということだ。正直さびしい。すごく。

さっき、アブドゥラがアンマンから着いた。今日着かないのではと心配していたファディはホッとした表情を見せる。気持ちの半分は、今日着かないなら着かなくても良かったけれど・・・お迎えが来たということだ。

ハンドゥレラ(アッラーのご加護で)

曇りだが、雨は止んだ。
昨日の帰り道からずっと「雨だったらどうしようか」と考えていた。「たまたまロケの日が雨だった」というのは内輪の都合に過ぎない。普段のロケは晴れを想定しているから、雨なら雨なりの効果を考えなくてはならない。待とうと思えば待つ日程的余裕はある。「晴れた日のどかな午後、片足と棒切れでピョンピョンと元気に動き回るハナン」か、「雨上がりのぬかるんだ庭先で、水溜りを避けるように片足と棒切れで歩くハナン」か-戦争から1年経って、自分たちが彼女から見るべき/汲み取るべきメッセージは何か?ずっと考えて、そして雨でもロケを敢行することにした。

09:00ハナンをロケ。
ハナンは昨日より笑顔が多かった。たまに思うことだが、こうしたこと-見たこともない外国人が大きな三つの棒を立ててガラスの筒を自分の方に向けている、自分のことについて何かいろいろ言っている-こうしたことそのものが、何も知らない子どもにとっては、興味というものが芽生えさせるひとつのチャンスなのかもしれないと。そう思うと、たとえ映像が陽の目を見なかったとしても、このロケにはやった意味がある、と救われる気がする。もちろん勝手な思い込みなんだけど・・・。

ファディはハナンの家族に対して否定的だ。なぜもっといい服を着せてあげないのかなぜもっといい食事を与えてあげないのか、なぜもっと温かい部屋を用意してあげないのか、なぜもっと熱心に医者に連れて行かないのか、、、彼らはハナンと姉妹に仕事しか与えていない、働き手としてしか考えていない、と言う。ハナンの祖父は90頭いた羊を半分売って、小豆色のBMWを買った。「ついでに若い女性と結婚したい!」なんて冗談を言って周囲を笑わせていた。
“Yes, they are rich. Why, Hannan?” と言う彼の意見を自分は黙って聞いていた。彼にはそうした意見を言う資格がある。そして、確かにそうかもしれない。でも、自分はこのイラクに住み、同じ歴史や文化、価値観の中に身を置いてきた人間ではない。ひとつの事実があって、なぜそうなってしまったのか、なぜそうしなければならなかったのか、自分たちには何ができるのか、ということを考える立場にある。ましてや、彼らを苦しめた側の人間だ。アドバイスはできても、彼らを批判するようなことは許されない。こう説明すると、ファディもまた黙っていた。

ワリッド父子に会いに金物街へ行く。金物街は活気を完全に取り戻し、新しい息吹すら感じた。サダム時代には、鉄の鎖を作る工房と金属廃材から塵取りなどの日用品を作る工房しかなかったのに、今では一般家庭用の金属の装飾品まで作っている。通りがバラエティに富み、景気も良さそうだ。サダムがいなくなって、彼らが自分たちの想像力と腕を活かして自由に働けるようになったのは間違いない。ここは完全に”復興”し、”自由”があった。

以前と違うのは、働く子どもが減って大人の姿が増えたこと。軍で働いていた人たちだ。ここはシーア派地区でかなり所得の低い層の人たちが働いている。ワリッドの父親を含め、なりたくもないのに軍にかり出されていた人たちも多い。戦後、親戚などを頼ってこの通りで働くようになったんだと思う。一方で、子どもたちはどこに行ったんだろうと思う。学校に戻ったのだろうか?それなら良いのだけれど。

ワリッドのお家訪問。父親インタ。ひとつ目の質問「戦争が起こった時、何を思ったか憶えていますか?」の後、2つ目「戦争が終わって疎開先のナジャフからバグダッドに戻ってきた時の気持ちは?」と聞くと、しばらく沈黙が続いて彼の目から涙がこぼれた。住み慣れた街は戦闘と略奪で破壊され、アメリカ兵に誰もが銃を突きつけられる。彼らの街も心も傷つけられてしまった。それでも、「ありがたいことに(=アッラーのご加護で)、今はこうして家族と生きていられる」と父は言う。「あなたのような外国のメディアの人に、本当の気持ちを言いたいとずっと思っていた」という言葉が痛烈な痛みを持って響く。

「日々少しずつ良くなっていると感じるし、ありがたいことに(=アッラーのご加護で)将来は明るいと思う。」-この答えは、アメリカとか新しい政府とかを云々論じる以前に、権力とは何ら係わり合いを持たない市民層が持っている感覚のひとつだと思う。高等教育を受け、所得もほどほどある層の人たち(ファディやディーナやハイダたち)とはまた違う。

腰の疲労がひどい。なんだかへとへとだ。

昨晩夜中からひどい暴風雨。初めての経験だ。朝になると、風は収まったが冷たい霧雨は断続的に続いた。

ファディとディーナと、ハナンに会いに行く。
ハイダがいないため、行き方が確かでない上に道路はぬかるんでいる。田舎の一本道はスペースがなくて間違えるとUターンもできない。ぬかるみにはまるわ、窓が泥だらけで外が見えないわ、着いた時にはもう4時を回っていた。

ハナンは元気だった。体の調子は昨年11月に訪問した時と変わらない模様。
『ようこそ~』と朝小と、お土産を渡した。
ちょっと面食らっていた、というかニコニコ喜ぶわけでもない、ムスッとしているわけでもない微妙な表情を見せた。この時ふと、「この子は自分の感情をどう表していいのかわからないのではないだろうか」と思った。相変わらず、学校には行っていない。ハナンの姉妹も全員学校に行っていない。本を読むことも、絵を描くことも、将来の夢を見ることもない視線・・・インドのアウトカーストの女性と子どもたちと同じ視線だ。アウトカーストの子どもたちに「将来の夢は?何になりたい?」と聞いた時、彼は質問の意味を理解できなかった。「夢」という意味がわからなかった。自分の親がすること以外は何も知らないし、想像することさえない。それを否定するわけではない。これもひとつの”生”だ。でも、願わくは、願わくは「この色が綺麗」とか、「この歌が好き」とか、「こんなことをしたい」とか、「こんなふうになりたい」とか、夢とか希望を描ける能力とチャンスを与えてあげたい。それができるのは、国際規模の支援だけだ。アフガンでできたことがイラクでできない-無念、憤り、失望・・・入り混じって胸につかえている。自分たちの大きな罪だ。

この日記ももう「30」か。サダム時代、開戦直後のクルド、バグダッド陥落直後も数えたら倍以上もこの国とこの国の人たちを映像におさめてきた。いろいろと対外的な理由を付けてはいるが、自分を取材にむかわせる本当の理由は、この『胸のつかえ』だ。この胸のつかえが取れるまで、自分の中にある渇きは癒えないと思う。

そういえば『ようこそ~』の家族写真にはみんな覆いかぶさるように見ていた。自分の姿が、見慣れない「本」の中に他の人たちの姿と並んで載っている。こんなシンプルなことでも、刺激になるのかもしれないなあ。

大きな瞳

インターネットカフェにたどり着いたときには、もうへとへと。
さんざんロケしたあとに、バグダッドまで4時間強のドライブ。高速道路は、米軍によって途中2箇所ほど通行止めにされ、その都度迂回を余儀なくされる。これがまた強盗が出てきそうな田舎道だから、余計緊張して疲れる。ファディは銃を構えるわ、それを見てディーナは隣りでまた吐きそうな表情になるわ、バグダッドに着いて車内の空気が和んだ時はホッとした。

それにしても、笑いの絶えないいいチームだった。行きこそドタバタだったが、それぞれ周囲に気を使いながら自分の役割を楽しんでいたように思う。最初はドライバー、転じてADになってしまったディーナの兄マハシン。建築工学を学んだ彼に、水道施設や建物の知識を教えてもらいながら取材を進めることができた。押しが弱そうな雰囲気の持ち主だけど、とてもまじめで勉強熱心な人間。カブールのハナカーに似ている。

こんなふうに異国の地で、これまで出会った人たちのことを思いがけず思い出すことができるのは本当に幸せなことだ。

普通、取材チームは男所帯。ディーナは100人以上いる取材陣の中で唯一のイラク女性だった。しかも、化粧をしたちょっとモダンな女性となれば、周囲の興味もおのずと集まる。英語が通じるから、外通の連中は気さくに話かけている。他チームのイラク男性スタッフたちのうらやましそうな視線が面白かった。

サマワ郊外の村の小さな学校をロケ。
今、イラクの学校はちょうど中間テストの時期。3年生の算数のクラスにおじゃました。先生に名前を呼ばれた生徒は黒板の前に出て、口頭で出される計算問題を黒板に解答する。解答が終わると席には戻らず、そのまま教室を出て行って帰ってしまう。合理的といえば合理的だ。

子どもたちの表情は素朴で実にかわいらしい。ズームしたファインダーの画をパンしていくと、見たことのある口元にほくろ・・・昨日畑で出会った少女だった。一見気が付かなかったのは、今日は頭にスカーフをかぶっていたからだ。

あまりに美しい瞳、すいこまれる。大きな黒いダイヤモンド・・・いや、そんな陳腐な例えで表現できない。自分は、新たな生きる楽しみを見つけた子どもたちの瞳が大きく呼吸をしてキラキラ輝くことを知っている。しかし、この少女の瞳は新たに生まれた希望によって輝いているのではなく、希望とか未来という存在そのものの美しさような気がした。今はこれ以上うまい表現が見つからない。とにかく、びっくりした。

州知事のインタで時間をつぶす。待つこと1時間半、インタビュー10分。彼は具合が悪かったということもあるかもしれないが、カルバラで出会った冷たい目をしたシーア派の人たちと同じ目をしている。「イスラムを汚す者がいれば、指導者の名において我々は行動する」というオーラを発している。自分の思想や考えが最上なのだと考える怖さを感じる。サマワは明るく穏健で平和な町だが、宗教的にはけして楽観できる場所ではない。社会の基本単位である部族を見ても、ティクリートなどスンニ派地域に比べ、宗教的縛り/影響が強いように思う。

町雑観を撮影して、サマワをあとにした。
また戻ってくることがあるだろうか。

Media circus

実に愉快な1日だった。
のんびりとしたイラクの田舎町サマワでちょっとしたメディア狂想曲が繰り広げられている。自衛隊がどう動くか、メデイアは基地の外でさわさわしながら待ち、自衛隊が動けばみんな走り出して車に乗り込み、その後に付いて大移動が始まる-”Media circus.”自衛隊の取材に来ている報道陣は国内外合わせてざっと30人。先遣隊1人に1人の割合だ。イラク人のドライバーや通訳を含めるとその数は 100人を超えると思う。それらが自衛隊の動きとともに大移動する。自衛隊は安全に関わるという理由から、いつどこで何をするということは一切伝えない。情報がないからメディア側はついて行くしかない。自粛というのはいったい誰に決定権と責任があるのだろうか?ものすごくあいまいだ。しかも権力を持つ側が声高に叫ぶのは民主主義国家のすることではない。出したくないなら「今回は〇〇の理由から一切広報はいたしません」と言えばいいのではないだろうか。自衛隊側はとにかく「安全第一」何でもかんでも「安全」に関わる問題として伏してしまうのはあまりに雑だし、幼稚だし、甘い。ロイターやAPにそんなことを言っても理解されるわけがない。『雅子さまご懐妊』というニュースがいい例だ。国内メデイアにしても外通が自衛官の様子を流すのに指をくわえて眺めているわけには行かない。誰もがここに仕事をしに来ている。ルールは守ろうとしているし、自衛隊のイラクでの活動を失敗させてやろうと考えている人よりは成功して欲しいと考えている人の方が多いと思う。正直、何を伝えて/撮って良くて、何がオフレコなのか、みんな計りかねている様子は気の毒だ。

「これは撮ってもいいとか、ここはダメとか具体的に示して欲しい」
「すべてのメデイアをひと括りにしてダメと言われてもわからない。ダメなものがあれば何月何日の〇〇新聞/局のどれそれと指摘して欲しい」
「何を食べたかということも“安全”にかかわることですか?」
「メディア側全員が彼らの会見に一切集まらないとか、われわれが自衛隊のすることを無視すれば、彼らも焦ってきちんと考え始めるのではないか」という、いかにもジャーナリスティックな意見もでた。フランスとか英国など、「広報」「国民への説明責任」「公僕」という概念のある社会的先進国ならありえるかもしれない。日本ではそうした概念が薄い、というかほとんど口先だけで中味はない。「効果のほどはあるか疑問」というのが、ある日本の記者の考えだ。
イラク戦争報道の大混乱の一端がここにもある。

10: 15 テレビ東京にLIVEを入れる。現場にて1人でライブスポットに行き収録したのは初めてだったのでいい勉強になったし、生感覚が面白かった。「原稿見ない方がいいですよ」という一言を貰った時は「大丈夫かな」と思ったが、逆に腹をくくってやれた。ラジオ生番組の気軽さが自分は好きだったけれど、それに近い感覚があった。出川さんなどは短くポイントをまとめてわかりやすく伝えるのがとてもうまい。これからもっと勉強していきたい分野だ。

中継の後、NHKと昨日の部族長会議の映像配信の話がまとまる。「貴重な映像」と理解してもらえたことは率直にうれしい。「当然」という思いもあるが、自分の場合、過信するのはそれこそ「自粛」した方がいい。

コンクリート工場を見に行く途中、サマワ郊外の農村を撮影。素朴さがとても美しい少女達に出会う。彼女たちは学校に通っているのだろうか。どんな学校に通っているのか、と気になってコンクリート工場の取材をキャンセル。村の学校へ。

小さな村の小さな学校。教室の床は直に地面、激しく剥がれ落ちた壁の塗装、割れた窓ガラス。相当使い込まれた黒板、黒板のない教室もある。サダム時代に入れたという机とイスは比較的まともだ。始業終業を知らせるベル、電気(スイッチなども)、トイレは新しくされていた。昨年12月、オランダ軍から修繕費として500ドルを寄付されて校長先生が発注したと言う。目新しいトイレだが、水が来ていないため使われていない。水道管は来ていて、屋根の上にタンクもあるが、ポンプがないから吸い上げられない。これぞ「絵に描いた餅」だ。

村に水を送っているサマワ市内の給水施設を見に行く。巨大なタンクだが、中は空っぽ。大元の飲料水(地元ではフレッシュウオーターと言う)用施設のキャパシティが小さく、水が送られて来ないためと言う。村への給水は夜間 2、3時間しか行なわれない。施設内にはもうひとつ生活用水の小さなポンプとタンクがあって、こちらはユーフラテス河から引いてきている。水道施設の復興はほとんどゼロから取り組まなくてはならず、大規模なプロジェクトを組まないと実現しない。これは簡単なことではない。

オランダ軍に対して、結構やれることはやっている印象を受ける。それでも「何もしていない」と言われる。日本は給水事業をやると言っているが、市民の期待に沿う規模にはならないだろう。そうなった時、サマワの人たちから「何もしていない」”useless”という評価を受けてしまったら・・・双方に気の毒ではないか。

町一番の喫茶店でロケ。実はみんな、日本について、車と電化製品以外ほとんど知らない。日本が中東にあると思っている人がいたのはおかしかった。総じて友好的だが、中には他の国と同じで石油目当てだと声を荒げる人もいた。バグダッドやティクリートなどでは、こっちの意見の方が普通だ。サマワに来てから、誰もが一様にウエルカムだったので逆に新鮮だった。議論が熱くなって収拾がつかなくなったので撤収。

フランクな関係

どたばたといろいろアクシデントが重なって結局バグダッドを出たのは12:00過ぎ。15:00からの部族長会議は完全にミスったかと思ったら、サマワに16:00前に到着。ロケは奇跡的に間に合った。まったくこの人たちは帳尻合わせの天才だ。

日本のメデイアを始め、たくさん来ていると聞いていたが、ふたを開いてみたら海外メディアは自分だけ。これって価値があるのかないのか判断つかないなあ、などとちょっと心配になったが、まあexclusiveだし、いいことだ。記録としては面白い。他はどうしていたかというと、自衛隊とオランダ軍、そして州知事との会見の方に皆ついていったそうだ。部族長会議は無視された形になってしまった。まだ、日本側から会見等に関する接触はないと言う。

ファディ(セキュリティー・オフィサー兼マネージャー)、アブドゥラ(運転手)、ディーナ(通訳)、マハシン(ディーナの兄、運転手転じてアシスタント)、そしてサマワに着いてからガイド役のウィリアムを拾って、取材チームは総勢6人の大所帯。ワンマン取材のはずなのになあ、なんでこんなに大勢なんだ?ロケが間にあったことが彼らをホッとさせていた。皆、気が合っているようで夕食もワイワイ、会話も弾んでちょっとしたツアー気分。雰囲気が良いのは実に好ましい。

先週、飯田さんと来た時は停電が1回しかなかったのに、今日は4回。サマワ市街は電気、水ともにアル・シャウベなどに比べて良い方かと印象を受けたが、やはり不安定と見るべきなのかもしれない。自衛隊が来たその日に何度も停電になるなんてまるでジョークだ。

夕食後、町で一番大きい喫茶店を見学。水パイプをふかしながら、男たちが衛星テレビを見ながら、おしゃべりする社交場だ。壁には、なぜかブルース・リーの映画のホコリで色あせたポスターが何枚も貼ってある。皆笑顔で迎えてくれるし、ものすごく友好的だ。

夜9: 00すぎ、店も数軒の飲食店しか開いていない時間帯になっても通りを安心して歩けるなんてイラクでは特殊な状況だ。ファディとアブドゥラは通りをスキップして渡ったり、少しも緊張したところがない。いい町だ。状況は変わるかもしれないから油断はできないけれど、自衛隊には一日も早くこの町の人たちとフランクな関係を築いて欲しい。そう、”フランクな関係”だ。

ただ、無防備すぎる町と市民の雰囲気に、いちまつの不安を感じないわけではない。

ホテルはどこも満杯で、一番最後にサマワ入りしたであろう自分たちは見つかっただけでもラッキーだったかもしれない。日本のようにお金を払うことなしに予約などはきかない。アパートメント型のホテルはかなりボロ。お湯は出ないし、トイレの匂いも結構気になる。それでも陥落直後のカブール、『スピンザールホテル』の幽霊が出そうな部屋よりはましか。2部屋2晩で70ドル。ちょっと高いかな。

明日、『ニュース・アイ』に電話レポートを入れることになった。リラックスした環境を作ってくれるいい枠だ。自衛隊の方は配信映像があるようなので、一方のサマワの人たちや町の様子やメディアのフィーバーぶりを伝えてほしいと言う。部族長会議や友好的な雰囲気を素直に伝えればいいと思う。原稿用意しなきゃ。

そういえば、部族長の1人が特に若者に職を与えて欲しいと言っていた。ウィリアムはオランダ軍基地で仕事を得て、明日から働くそうだ。ガイド役は終わり。大のシェークスピア好きの父がウィリアムと名付けたと言う。とても素直な性格の持ち主だったから少しさびしい気もするが、きちんとした職を得られたのは彼にとって好ましい。心からがんばって欲しいと思う。