「頭数」になるということ。

Oct. 29, 2004
ボクは今夜も集会に参加する。
参加しなくても祈り続ける人たちと、祈りをあわせたい。
そうか・・・これはボクにとって、ひとつの礼拝なのかもしれない。

各団体がおくった仲間たちの行動の結果も聞いてみたい。
48時間は過ぎた。
これが、いいサインであって欲しい。

Oct. 28, 2004

青年の解放を求める集会に参加した。
デモや集会と呼ばれるものに参加したのは、中学校の何とか集会以来のことだ。
この仕事をするようになってからは、意識的に避けてきたということもある。

国会議員の偽善的で言い訳めいたスピーチが続く。
なんで拍手するんだ?
彼らは、本来なら「今まで政治家として何をやっていたんだ、自分らに責任はないとでも言いたいのか!もっとしっかり汗かいてやれ!」と非難されてしかるべき立場のはずだ。
思わず帰りそうになったが、
「頭数」になろうと思ってここにやって来たことを自分に言い聞かせて、じっと我慢した。

首相官邸前に移動した時には、300人ほどになっていた気がする。
300人・・・これが現代日本の姿。
人質解放を求めて数万人のデモが行なわれたイタリアやフランス、テロが起きたあと、雨のマドリッドを人々が埋め尽くしたスペイン。そうした画とどうしても比較してしまう。
この国と人が、自分たちのおかした罪に落し前をつけずに、実質なき「みそぎ」と呼ばれる儀式で、自らに課すべき罰をかわしてきた末にたどり着いた日本という先進国の姿だ。
こうした集会をオーガナイズするグループの悪いクセは、永遠に変わらないのだろうか?
こんな時まで、政治色ばかり鼻につく。
政府を批判するのはいい。自衛隊撤退を求めるのも当然だ。
でも、なぜ今現場で実際に動いている連中へ、それが自分たちの仲間であれ、政府の人間であれ、「全力でがんばれ!私たちも応援している」と祈るとか、エールを送るとかいう音頭をとらないんだ。若者の主張みたいな、自分らの不満をぶちまけてる場合か?普段そういう偏狭なヒューマニズムでやってるから、いつまでも支持されないし、特殊な人種扱いされる。
卓馬が「シュプレヒコールってなんですか?」と尋ねた。

鈴木さんの静かな訴えは心に響いた。
いろいろ思っても、「あの青年を殺してはならない」ということがすべてだ。
自分に、日本人に、イラク人に訴えかけるにはどうしたらいいのだろうか?
静かに祈りをあわせていきたいと、心から思う。
希望はある。分析的な見方をしても、希望はあるよ。
プラカードに目もくれず、足早に歩くOLやサラリーマン、300人と道路を挟んで向かい合い、群れる濃紺のスーツ姿の男たち・・・彼らの頭の中に青年の顔は浮かんだか?あるいは胸の中で祈ったか?「殺すな」と、どうか同じ気持ちであって欲しい。
際立つTVカメラの少なさ。ロイターとCNNが取材をしているのを見て、少しホッとしたが、それも放送されなければ、青年を救う助けにはならない。申し訳ない想いがこみ上げる。自分は何もできない。祈るしかない。
どうか神さま、彼を連れて行かないでください。

イラクでの日本人拉致

Oct. 27, 2004
日本人の青年がイラクで拉致されたという一報。
ついに現実になったか、という思いやら、また非難ごうごうだろうなとか、思う。
武装グループは「自衛隊の一員」と言ったようだが、風貌や言葉使いから、民間人だとすぐわかった。
彼の行動を非難することと、知らんぷりをすることは、行動の理屈として繋がらない。いろいろ意見はあると思うけれど、漫然と見捨てていいのか、と思う。
「見捨てない=繋がっていますよ」というメッセージは、彼に対してのものであり、同時にイラクとその国の人たちに対するものでもある。
こうしたことをきっかけに、一般の人たちは日本と日本人の行動を見極めている。

ベスランの学校を占拠した武装グループたちに向かって、「あなたたちは間違っている」と訴え、射殺された少年がいたという。彼は正しかった。

解放を求める集会などができれば参画したいと思う。
ノウハウやアイディアのある方はご連絡ください。
なぜ、今回は・・・と自分自身思うけれど、欧米人に限らず、イスラム教徒や同胞であるイラク人までが誘拐されて殺害されるようになった今、自分がどう行動するのか、イラクの人たちや国際社会から見極められていると思うからかもしれない。
実際に行動できなくても、心の隅に彼のことをおいて「祈る」ことだけでも「見捨てない=繋がっている」ことになると思う。

コメント

  1. キリスト者平和ネット より:2005年7月29日
賛同者の皆様こんにちは、キリスト者平和ネットです。
緊急行動と声明のお知らせです。
日本人青年とみられる人がイラク・サマワで武装抵抗勢力に拘束されたと報じられている事件で、WORLD PEACE NOW は本日27日、18時から、衆議院議員面会所前に集合し、首相官邸に対する抗議・要請活動を行います。

なお、日本キリスト教協議会(NCC)は、総幹事と平和・核問題委員会委員長名の連名で、また、日本基督教団が総会議長名で、それぞれ声明を出しました。この抗議・要請活動に参加します。

WPNはこの春の「人質事件」で有効であったインターネットを通じて、現地武装勢力に「あなたがたは自衛隊関係者を拘束した」と述べているが、私たちはこの青年は民間人であり、自衛隊関係者ではないという情報を持っている。

絶対にこの青年を殺してはならない、とのメッセージを届けるために努力します。
World Peace Now ホームページ
http://www.worldpeacenow.jp/

キリスト者平和ネットホームページ
http://www.jca.apc.org/~cp_...

捜索難航

アル-ムサナ警察のフッテージは、インタビューの内容も画の質も前回よりはるかにクオリティの高いものになった。でも、これは当たり前のことだ。

自分の場合、再撮という言葉は当てはまらないかもしれない。なぜなら、取材は重ねれば重ねるほど深くなっていくからだ。このスタイルは、十分に下取材をした上に台本を書いてノンフィクションドラマを作っていくわけではない。台本はあったとしても日々刻々変わっていく。前回のロケに入るまでに得た知識より、前回のロケで経験した分が加わって今回のロケに望む前に身に着いていた知識の方がはるかに多い。

これと収録テープを落っことした問題とは別だ。捜索は難航している。

朝、起きるのがつらい。体がキシキシいっている。タラルのお宅で少し充電させてもらって少しばかり回復したと思ったけれど、完全に戻るにはきちんとした充電時間が必要かもしれない。でも、まだ重症ではなさそうだから、これ以上ひどくならないようにしないと。日本の夏のようなむっとする暑さ。ボーっとして、今回はもう限界かもしれない。

ハナンのお宅を訪ねる。綺麗なブルーのサテンのドレス”DEAHDASHA(デシェデシャ)”に白い”へジャブ”を頭にかぶっていた。またちょっとお姉さんになった。挨拶するのに笑顔を見せてくれたのはうれしかった。初めてだね。
「気分は?お腹はどう?」と聞くと、上目使いの小さな笑顔で「ハンドゥレラ」と答えた。よかった。一家も変わりない。

今回のバタバタの中で、ここへ来ることが許され、たいした物ではないけれど日本の女の子と同じように雛人形を飾ることができたことに、感謝。こうなってくると、やっぱり学校に行って欲しいなあと欲張りな思いが残る。

明日早朝、バグダッドを出る。最終日、この後そのくらいカメラを回せるかわからないが、できる限り・・・。

・・・

朝食の時、なぜかエストニアの子どもの家と、リベリアで出会った子どもの亡骸を思い出す。砂浜に掘られた正方形のプールのような深い穴に、人間の形をした肉塊が無造作にドサドサ重ねられていく。少年は鼻から血が出ていたような気がするが、とても美しい顔をしていた。安らかな表情とはこういうものなのかもしれない。ナットウェイの写真もそうだった。少年は兵士だったのだろうか?そうは見えなかった。戦闘に巻き込まれて死んだ一般市民。

どうしたのか、涙が出てくる。あの時は、ただただ「この現実をおさめておかなくては」と必死だった。意識して「なぜ、この子は死ななくちゃならなかったんだ?」と考えないようにしたのかもしれない。

なぜ、あの子は死ななければならなかったのか?

なぜ、あんなに安らかな顔をしているのか?

ホテルをチェックアウト。
昨晩、タラルのお宅でリラックスしたのが良かったみたい。不安は残るけれど、体力、集中力、思考力、自分が何を考えているのか、がわかる。

失くしたテープの捜索を続ける。取材に関わってくれた人たちに本当に申し訳ない。「神さまは何かを示そうとしている」という彼女の言葉を頭の中でリフレインしながら、再撮を決めた。一段と良いものを撮らなくてはならない。

昼食はタラルの家で。美味しい。生命エネルギーが注入されていくようだ。

あらためて本日午後から、アル-ムサンナ警察1日目。

タラルの家で美味しい食事と何も考えない時間を取ったからだと思うが、集中力、気力、体力も持ち直していてモチベーションも高かった。いい仕事ができたと思う。

1:30 署に戻る。
こうしてパソコンに向かう気力さえあるが、まだ完全に復調していないみたいだ。少しだけ、この間の感覚を覚える。眠い。休んだ方が良さそうだ。

明日は最終日、何とかもってほしい。

・・・

書けない。休筆。
壊れてしまったか。
目の前にあるもの、起きていることはハッキリと認識できる、それに対して体が反応しない、言うことを聞かない。●●の感覚を思い出す。
自律神経失調症って、こういうものなのか?

憶えていない。
体力は回復。
回復した体力が何とか集中力を支えてくれている。
何とか最後までだましだましいけるか。

昨日、現場で収録テープを落っことしていた。
しかも、今日になるまで気がつかなかった。
ありえないことだ。

パトカーの中でテープチェンジしたことは憶えている。それから車内に置いていくか、持って行くか迷った自分を記憶している。
でも、夢で見たシーンだったかもしれない。
確かなのはテープが一本ないことだ。
何で迷う必要があったのか、なぜそんな判断をしたのかもわからない。

タラルの家で夕食をいただくことにした。
美味しい。ホッとする。

アシュラ最終日

アル-ムサナ警察署2日目。
シーア派の聖休日「アシュラ」の最終日で祭日。イマム・フセインの死を悼むこの期間は、キリスト教で言えば受難節。何か起こっても不思議ではないと思っていた。

朝、起きて少し撮影するが、カメラを担ぐと目が回る。
7: 30勤務終了30分前、昨晩のフレッシュマンたちは、眠そう。疲れきった表情。24時間勤務の後、1日休みというシフト彼らへのインタビューは不可能と判断するディーナが来るまで少し休みながら、インタビューの準備。休みを取ったため、インタビューは何とか集中できそうだ。

フレッシュマン&先生へのインタビュー、とても興味深かった。先生役の警察官たちに対しても、教育の機会が必要なはず。彼ら自身も望んでいる。

インタビューのあと、カルバラ&カドミヤ地区で爆発事件があったことを知る。カドミヤ地区を見に行くことにした付近は封鎖、アダミヤ警察署のすぐ近くだったため話を聞きにいくアブドゥル・ラフマンがいた、米軍が封鎖しているから現場には近寄れないと言う。現場に行くチームがいたため、パトカーに同乗させてもらって、いけるところまで行くことに。

“Are you Muslim? You Muslim, OK?”と聞かれたため、”Yes”と答え、指輪をはずす。ピアスも取ろうとしたが取れなかった。

現場付近、パトカーを降りる。米軍とICDC、ICDCを縦列させて自分たちの前を行かせる米軍、従属的な風景、新イラク軍と新イラク警察、、、給料はどうあれ、自分だったら警察官の方を選ぶと思う。ティクリートで取材した青年のコメントを思い出す。米兵に「CJTC-7はあるか」と聞かれ”No”と答えたら撮影禁止と言われる。

「CJTC-7」ってなんだ?
しつこく現場にいて手持ちのまま回していると、他のクルー(エジプトのTV 局と思われる)がやってきて撮影し始めた。自分も担いで撮り始める。何もなかったように黙々と歩くシーア派教徒たち。カドミヤ・モスクに向かうシーア派教徒たちの流れについていく。モスク手前200メートルほどのところでボディチェックする教徒たち。警察と救急車以外立ち入り禁止日差しが厳しい、暑い、何か飲みたい。

ロイターや他のクルーもやってきて取材を始める、自分は撤収する。歩いてアダミヤへ向かう途中、タクシーをひろう。よかった。帰って休んだ方がいい。

中華レストランで昼食。久しぶりの中国茶は美味しかった。異文化に好奇心旺盛なディーナは喜ぶ、タラルは口に合わなかったようでほとんど食べられなかった。店構えは綺麗だが、味はかなり物足りない。

4時ぐらいから、ホテルの部屋で休む。衛星TV、ラテンのダンス音楽チャンネルが、なぜか今の自分に心地好くホッとした。体は大丈夫なのに、頭がボーっとする。何もできない、どうしちゃったのか、自分でわからない。

お湯が出ない、部屋を替わってもダメ。インスタントラーメンを買って、お湯を貰って作ってみた。懐かしい味。最初に2,3口は美味しかったが、すぐに飽きた。

明日、自分は大丈夫だろうか?

夢か現実か

バグダッド・ジディーダ地区アル-ムサナ警察署1日目。

秘書官から宿泊することについて、あらためて考え直すように注意を受ける
1泊ということで了解得る。

繁華街にあるアダミヤ警察署はバグダッドっ子気質、アル-ムサナ警察署は、住宅街にある郊外型、雰囲気が違って面白い所長室に泊めてもらうアンマンの学校で訓練を受け、1月に卒業したばかりのフレッシュマン・オフィサーたちを取材。

皆、20~21歳。
幹線道路での検問をいくつか案内してもらう。5人から6人のフレッシュマンに先生役のオフィサー1人19時から23時過ぎまで、夕食をはさんで交通量の多い道路の真ん中に立ち、目を凝らして1台1台チェックほぼずっと立ちっぱなし、かなりきつい業務、へばった、車の中で寝てしまう、体のコントロールがきかず、集中できない。署に送り返してもらう。朝まで同行すると言ったのに、、、勤務の邪魔をしてしまった、、、申し訳ない。

所長室のソファで横になるが、寝付けない。蚊がうるさい。ボーっとする、どこにいるのかわからなくなる、紺碧の水の中にいるみたいだ。洗面に小さな蛾の死骸3時過ぎ、ディーナからの電話、アリの悪い予感、その数分前に警察署前(だと思う)で銃声、車が出て行く音、起き上がれない、何とか起き上がって外に出て尋ねると「何でもない」という答え。

とにかく、ボーっとして目の前の光景が夢か現実かよくわからなかった。

警察署二日目

アダミヤ警察署2日目
静かな夕方
停電、ジェネレーター故障、何もできない、彼らの仕事に支障はないのか?攻撃されたらどうするのか? 昨晩とはうってかわって何もないアブドゥル・ラフマン(35)は親切な男、高そうなレストランで夕食、美味しそうなカバブだったが、どうしても味が口に合わず、ほとんど食べられず恐縮。
彼はトイレに行っている間に会計を済ませていた。残りを署にテイクアウトしたアブドゥル・ラフマン(35)に。

深夜、爆発物処理。米軍MPに連絡(24:00)、40分後、現場に現れる。3:00過ぎ、署に戻る。

・テロリスト捜索
・検問業務
・武器押収
・強盗捜査やけんかの後始末などの通常業務
・米軍と協力して行なう業務

イラク警察の業務はほとんどカバーした。

密着24時を一人でやるのは無理か

まったくバグダッドの交通渋滞には辟易する。車の数が多いから、無理なUターンをしようとする1台のために何百メートルも何時間もの渋滞がすぐ起こる。さらに、譲り合うとか回り道することを知らないというか、たぶん嫌いなんだ。革命や戦争や経済制裁の歴史の下で、この世で信用できるものなどもうなくなってしまったのかもしれない。今、目の前にあってできること/手に入るものだけが信じられる。「急がば回れ」という言葉はこの国にもあったかもしれないが、もう消えうせてしまったのかもしれない。

秘書官との約束は8時半だったが、45分遅れて地域本部Al-Rusafa(ルサファ) Police Directorienに着いた。出勤してくる警察官や職員、警察学校の生徒たちの表情は明るい。すでにレセプションは混み合っていた。待たされるかな、と思ったがすぐに秘書官と会うことができた。きちっとした印象。地域本部長と面会、取材趣旨を伝えて取材許可をもらいたいと言うと「自分は許可を出すことができる立場ではない。担当部署があるからそっちへ行くように」と言われる。あー、これはたらいまわしにされるか、と半分凍った。でも、繋がりは彼しかないし、秘書官の「お茶を飲んで目的を話して」という言葉を思い出して、気を取り直す。後々、この人にも話を聞くことになるかもしれないし、礼は失してはならない。どこの誰に言えば良いのか、助けて欲しいと頼む。本部長は秘書官に案内するように指示を出した。ふと思ったが、実際にアレンジしてくれるのは秘書官であり本部長ではない。しかし、秘書官が動くには当然上司である本部長の許可が必要だ。秘書官が、本部長に会って話せと言ったのは「私の上司の許可をもらえ」という意味だったんだ。当然のことなのに、気がつかなかった。イラク社会にはきちんとした官僚機構があるといわれてきたので自分自身も頭ではわかっていたが、官僚機構の最たる警察に触れてみて実感させてもらった。

秘書官とその部下に連れられ、別の地域本部Al-Kargh(カラハ) Police Commandを訪ねる。広報と言えばいいのか、取材許可をくれる部屋で担当者に取材の目的と内容を説明する。「取材許可は1日のみ、2日以上を希望する場合は本部長の承認が必要」と言われる。1日でできるはずがない。何とかならないかと話していたら、この部屋の責任者が戻ってきた。「さっきこの人に説明したのになあ」と思いながら、彼にも最初から取材目的と内容、プラス、それがいかに有意義なことか説明する。とにかく、警察官たちと同じ時間と行動を体験しなければならない。泊り込みはもちろんのこと、食事も。たとえ短い間でも、仕事やそれに伴う危険を共有しなければ「密着」とは言えない。できる限り、すべてに同行する覚悟が必要だし、そういう態度を示さなければ相手も受け入れてはくれない。また、今回は彼らにとっても自分たちの働きと心意気をアピールするまたとない機会だ。今、イラクにくるジャーナリストで泊り込んで密着したいなんて物好きはいるはずないし、やりたいと思っても経験やノウハウを持っている者は少ないと思う。治安問題はイラクの今後を占う最大のイシュー。あらゆる意味で、今やるべき取材だ。
最後まで、ニコニコしながらこちらの説明を聞いていた部長は、アダミヤ警察署とバグダッド・ジディーダ警察署で2日間ずつの取材許可書を書いてくれた。何か事故が起これば理由はどうあれ彼らの責任になるにも関わらず、宿泊もはっきり”NO”と言わない形で黙認してくれた。秘書官とその部下、部長らに素直に感謝したい。
彼の「戦争の後の状況は、日本とわたしたちとは違うと思う。なぜなら、アメリカは私たちといっしょに働いてくれていない」という言葉が印象に残った。

それにしても、警察や軍関係の取材までの道のりは険しい。『24時』の場合、取材に入るまでの段階で、地方だと県警本部のトップから始まって下へ、取材対象の署各部署の副長クラスまで挨拶しなければならない。警察側の思惑もあるし、時には一年近くかかって受け入れてもらったケースもある。実際、プロデューサーは先方によく出向く。多くの場合、その県の出身者が担当ディレクターとして送られる。それでいて中身のない下心だけの付き合いでは受け入れてもらえない。そうそう、実に手間がかかっていたんだった。イラクでも同じことだ。

許可書をもらって、そのままアダミヤ警察署に直行、署長に面会した。こういうことは時間をおいてはいけない気がしたから。署長とオフィサー連中もまた、泊り込みはもちろん、パトロール同行も危険だと言う。そして同じ説明をした。もう何人に同じ説明をしただろうか・・・。ディーナが最初にある程度説明してくれるようになったので少し楽だが。決め手の言葉は、”You are professional, I’m professional. You have family, I have family, what’s difference? It’s same. We should sure every moment even safe or danger that I want to understand each other.” 彼らはほんの一瞬静まりかえった後、”OK! Halasu!”と
言った。

ホテルに移動したあと、機材をまとめてアダミヤ警察に入ったのは18時だった。

盛りだくさんだった。
●モスクの警備&パトロール
●警察襲撃グループがいるとの通報を受け、民家を急襲。
●幹線道路で検問、不審車捜索&届出していない武器を押収。
●泥棒の通報受け、現場捜索。

ノリで書いた企画書を後悔する。だいたい「密着24時」をひとりでやろうってのが、間違いだった。小さい車にぎゅうぎゅう詰めになりながら、デカカメを担ぐ。変な体勢になるから体が悲鳴を上げる。しかも、何かが起こるの待つから、ずっと担ぎっぱなし。警官たちは突然走り出すし、検問を止まらなかった車には容赦なくパンパン威嚇発砲するし、屈強でがさつなイラク男たちは猛ハッスル。もうロデオの荒馬乗り状態で、最後は鞍から落っことされて引きずり回された感じがする。でも、常に自分のそばに着いて護衛してくれてたり、、、かなり気は使っていてくれた。”I save your security.”と言うチームリーダー。ほとんど英語は話せないが、身振り手振りでわかった。

詳しく書きたいが、盛りだくさん過ぎてこの辺にしておこう。