I know Iraqi people, better than Iraqi

Day-8
アル-アラム村で最も古いモスクの礼拝に参加、撮影させてもらう。小さくて古いが、ぬくもりのある素敵なモスクだ。ムッラーがまたいい。みんなのおじいさん的な雰囲気がかわいい。わかりやすいコメントだった。

ティクリーティは血縁ではなく地縁関係を表す呼び名ということを理解する必要がある。つまり、「ティクリート出身者」という意味だ。ティクリーティはいわばフセイン王朝が作り出したブランドだ。日本にも「〇〇人」というようなブランドは存在する。権力者(団体)がいて、そのもとで他よりも豊かな権利と生活を与えられ、スノッブになって他を見下すようになる。それがティクリーティというものだ。

ティクリーティという地縁関係を構成しているのは、ティクリートの主に西岸に居住するいくつかの部族だが、その中でフセイン一族の血縁にあたるのが、ベジャト族とアル-ブナサ族。ベジャト族とアル-ブナサ族が住んでいるアル-オウジャ村。ここがフセインの生まれ育った村だ。

顔無しの条件でアル-ブナサ族の青年にインタビューすることができた。やっぱり顔がフセインに似ている。口元は特に似ていて笑顔が愛らしい。アル-オウジャ村に住むフセインの血縁は、連合軍から発行された住民カードを持っていて全て登録されているようだ。

一族の1人がかつてアル-ジャジーラのインタビューを受けた時、それを知ったその人のおじが本人をひどく叱って殴ったと言う。ファディとディーナの上手な説明でOKしてくれた。話したところまじめな青年だし、きっと胸に秘めた思いもあるのだろうと思う。

アル-オウジャ村には許可なしでは入れないというので、クサイのおじの家の居間でやらせてもらった。でも、奥さんは「いろいろな人が家に来て、近所の人から詮索されて迷惑だわ。もう帰って」と声を荒げた。

時間も16:30になろうとしていたので「この状況では落ち着いてできないから明日にしよう」と言ったのだが、ファディとディーナとクサイは執拗に今日済ませようと勧めた。彼をいったん家に返してしまったら、家族に反対されて絶対にもう撮れないと考えていたからだ。戦争が終わって半年たったが、とにかく人々が周囲を怖がり、口を開かなくなってしまった。ティクリートはバグダッドよりもはるかに神経質だ。

インタビューを終え、家を出ると18:30をまわっていてもう真っ暗だった。通りを歩く人はほとんどいなくなっていた。昨日の出来事も影響していたか、さすがにみんな表情が固く、家に着くまで車中はほとんど無言。とても重い空気だった。

イラクの社会は地縁、血縁、宗教がこんがらがって非常にややこしい。フセインはこの国を治めていく過程で、これらの間に差異を作り出して境界線を引き、政治的に利用するようになった。いや、自らの支配体制を固めるために政治的に利用した結果、境界線ができてしまったのか。部族(アシューラ)間、スンニとシーアの宗教間における優劣関係を、フセインが意図的に作り出したのが、あるいは反乱への報復処罰をした結果自然に作り出されたのか、フセイン自身に聞いてみないとわからない。バグダッドだけ見てイラク社会を語ることは一面的過ぎるとあらためて思う。

昨日のDiaryの「部族間の優位関係の変化とは別に、米軍や地元の警察が攻撃する連中については、」というのが、間違っていることに気が付いた。正しくは「部族間の優位関係の変化とは別に、米軍や地元の警察を攻撃する連中については、」である。だれかに読まれている可能性があると考えると、こういうところが気になってしまう。例えば、後日に訂正する日記なんてあるのかな。

TIKRITからの車中、ほとんどおし黙っていたファディがついに口を開いた。安全について、彼は激しく意見してきた。極度に危ない危ないと繰り返し言われると、余計に気を使って迷いが生じる。迷いは感覚も判断も鈍らせる。それが怖い。現場では迷いたくない。ヘビーな言いあいになったのでもうへとへとだ。ひとつだけ、指摘されて言葉をなくしたことがある。

昨日事故現場に向かう時に側道を歩いていった。でも、地雷が埋められていることを考えて、舗装されている車道を歩くべきだった。米軍が狙われた場所なのだから、地雷が埋められていたとしても不思議ではない。実は米兵にホールドアップされたことより危なかったと自覚した。わかっていたはずなのに……運が良かったとしか言えない。

彼は”I know Iraqi people, better than Iraqi.”と言ったが、それは事実かもしれない

銃口を向けられて

Day-7
今日はいろいろなことがあった。何もかもがフレッシュだったし、かつレッドゾーンに踏み込んだからか、自覚している以上に疲労がある。どこまで書けるかわからないので印象に残った事から書こうと思う。

人口の半分ずつを占めるジュブウリー族とティクリーティ族がユーフラテス河をはさんで完全に分かれて暮らしていること。フセイン時代はティクリーティ優位で、ジュブウリー地区は貧しく虐げられてきたこと。フセインがいなくなって立場が逆転し、米軍が地元警官などに重用しているのはジュブウリーであること。住民のほとんどがスンニ派のTIKRITでは、スンニ、シーアという宗派間の緊張関係はない。あるのはジュブウリーとティクリーティの緊張関係だ。メトロポリタン・バグダッドではことさらに部族間の緊張状態をとらえることは難しい。

部族間の優位関係の変化とは別に、米軍や地元の警察が攻撃する連中については、ティクリーティの中でも特にフセインの親族ベジャト族とアル-ブナサ族だということ。

米軍が襲撃された現場に遭遇した。ことの成り行きを見守る一般市民の側から、見えない線をまたいで”War zone”へ入っていった。頭の中が白く飛んだこと。”GOD save me”と心の中で唱え、確信があったこと。ジャーナリストだからといって、動きを間違えば撃たれる対象であると実感した。喉が荒れて、咳が止まらなくなってしまったこと。車にもどるとファディとディーナとクサイがすごく深刻な顔をしていたこと。じんわりと恐怖がこみ上げてきたこと。

占領下の真実を見るには絶対に時間がかかる。自分だけしかそこにいなかったという要素だけで評価を期待してはいけない。もっともっと深く踏み込んで行って取材し、その内容と質を分析器にかけ、いま占領下のイラクでなにが起こっているのかを説明できるように、取材の層を重ねていってフッテージを再構成しなければならない。そのための時間を絶対に持つべきだ。「占領下のイラクで今なにが起こっているのか、その真実を見せる」それが今回の目的なのだから、表層の出来事をとらえただけではまったく不十分だ。焦ってはいけない。

シャワーを浴びた。
ジャーナリストに銃口がむけられたフッテージにいったいどんな意味があるのだろうか?よく考えれば「ジャーナリストも例外ではない」という状況説明のひとつに過ぎない。「~も」と表現されるところはいかにも妙だ。あくまでも脇役なのだ。「~は」と主語で語られるのは、他でもないイラクの人たちであり、彼らが主役だ。魅力溢れる主役像を紡ぎあげていくことだけを考えればいいんだ。

明日TIKRIT取材2日目はモスク礼拝とティクリーティ族。

Yesterday bombed,Today work

Day-6
9:30 保険省に診療所の撮影許可をもらいに行く。
途中、一昨日の爆発現場という場所を通った。政府系の建物のようだが、1~3階の窓ガラスは割れていたものの人々はなにもなかったかのように黙々と出入りしていた。ファディが”Yesterday bombed,Today work”と言ったことが耳に響く。

診療所の所長に渡されたメモのところに行くと、担当職員(ドクター)がおり、ワクチンの話を聞いた。すると、ワクチンは不足などしていないと笑い飛ばす。

「私たちはすでに2つの会社にオーダーしています。心配しないで下さい。大丈夫です」と自信たっぷりに言う。そう言われるとこっちの出る幕はない。事実は BCGワクチンはあって、MMRワクチンは3ヶ月前からない、ということのようだ。職員は”We can’t say I don’t have. We arranged already”と繰り返し強調する。子どもの健康に関わることだから、状況がわからない親にとっては気がかりなことだろうに、職員のこうした態度には疑問が残る。

次官(らしき人)が「許可なんて必要ない。身元と目的を説明すれば問題ないだろ。フリーだよ、フリー」と軽く言ってのけたのには、驚いたと同時に「そうだろうな」と妙に納得してしまった。ハンコもない推薦メモを書いてもらった。組織では下に行けば行くほど、依然として自分たちでは決められないという空気がある。日本に似てなくもない。

ファディの義父タラルのコピーショップは保険省のすぐ近く。客は医科学系の学生や学校関係者で繁盛している。2人いる妻の1人ワジハが楽しそうに注文を受けてコピーをとっていた。この前の取材では休業していたから、とてもうれしい。

ディーナと合流し、診療所へ向かう。診療所というのは、この地区のPrimary Health Center (PHC)とわかった。PHCはいわば地域の保健所で、フセイン時代に取材を申請して許可が取れなかった。1年半越しで取材がかなったわけだ。撮影は問題なかったが、所長も医者もインタビューを頑なに断って実現しなかった。怖がっている。

6月にある医師が地元新聞のインタビューを受けて写真が出た後、殺すと脅迫を受けたと言う。許可を取れと言うからわざわざ保険省まで行ったのに今になってイヤと言われると釈然としないし、脅迫事件から5ヶ月も経っているんだから神経質にならなくても、などと思ったが、日常的に生活を脅かされている環境にあって、不安の種を作りたくないという気持ちは理解してあげなくてはならない。

所長の話では、アル・ハリル小学校の関係者に「日本人カメラマンとしゃべるな」という脅迫電話があったらしい。脅迫電話を受けた本人から聞いたわけではないし、怖がって行動しなくなればそれこそ脅迫した者たちの思うつぼだ。でも、そういう噂があること自体で周囲に悪い影響を及ぼしかねないし、注意するにこしたことはない。

2:30 診療所で出会った20歳のハニン。彼女はTVやラジオ、新聞などのメディアグループ『シャバーブ』でジャーナリストをしていた。今回、ウダイ直轄組織フェダイー・サダムで働いていた若者を取材したいと思っていたが、『シャバーブ』はフェダイー・サダムのいわば文民部門。もと民兵という人を探していたのだが、彼女は顔を隠さずに話をしてくれるし、若者のストーリーを構成するには十分興味がある。

父はアルミニウム工場を経営していてリッチみたいだ。広大な土地にたっているわけではないが、外装に瓦みたいなものが使ってあったりする豪華な自宅にびっくり。アラブ王朝+ビクトリア王朝を足して割ったような家具の応接間、巨大なシャンデリアがすごい。始めは母だけだったが、途中父も帰宅して両親同伴のインタビューとなった。

彼女は文章を書くのが好きで、取材記事の書き方などは独学で学んだ。特に管轄省庁もなくウダイの私的組織だった『シャバーブ』で働いていた人たちは、今仕事が得られないそうだ。若者たちはモチベーションが高かったようで、「自分たちはプロとして頑張ってきた」という意識を乱暴に傷つけられていた。独学で頑張ってきた彼女は特にそうした意識が強いのかもしれない。
途中、母が「インタビューに答えるのはやはり怖いです」と言って中断したが、みんなが怖がる中で彼女もよく顔を隠さずに正直な意見を語ってくれたと思う。婚約したばかりの長女が不安を抱えるようなことをさせたくないと言うのが当り前だと思うが、趣旨を理解して最後までインタビューを続けさせてくれたご両親にも感謝したい。

ファディは”I like your all job. But I don’t like going to TIKRIT. I don’t like.”と言う。答えようがないから、苦笑いをした。その後、彼はTIKRITに住んでいて休暇でバグダッドに来ている人を探し出してきた。ガイドとして、明日チームに加わることになった。いつでもそれなりの準備をするファディに感心する。

明日はTIKRITだ。

Main movement is made in Japan

Day-5
6:00 目が覚めた。風も止んでいい天気だ。子どもたちの登校風景を撮るにはいい、と思いながら1時間ほど寝る。


7: 30 学校の前で生徒先生の登校風景を撮影。前に来たとき、米兵たちがジョマナ父子に銃口をむけながら近寄ってきた同じ通り、その同じフレームの中に、子どもたちがカバンを背負って歩いてくる。自分にとって象徴的な風景だし、とても感慨深い。ここだけ使えば、一見イラクの人たちは日常生活を取りもどしていると理解できるだろう。でも、「核心」はもっと深いところにあるように思う。目に見える日常生活という表層の下に重なるいくつもの層。その層が目に見えるものなのか、見えないものなのか、今はそれすらもわからない。今の自分にわかることは、「状況はそう単純なものではない」ということだけ。

これまでは、子どもたちの元気な笑顔を見ることで取材レポートが終わっていた気がする。これまでの取材レポートを否定されている気にさえなるが、そう考えるのは前向きとは言えないよな。状況が違う。これが「占領下の生活」というものなのかもしれない。

本宅に戻るとプロパンガスを売りに来ていた。子どもの頃、家に灯油屋さんが来ていたことを思い出した。そういえば昨日はトイレのバキュームカーに来ていた。考えてみれば当り前だが、毎日生活しているのだから一日に家に起こる出来事というのいろいろあるのだろうな、とあらためて思った。自分が見ているのは本当にその一瞬に過ぎない。

末娘サファーナの予防接種に行く。病院のようなところへ行ったのだが、病院というよりは中規模の診療所だ。撮影するには保健省の許可が必要だと言う。ファディは一生懸命説明をするのだが、頑として聞き入れない。フセイン時代の時の取材許可取りの難しさを思い出して、少し辟易するが、一方で日本だってTVカメラがいきなり来て撮影させてくれと言ったって通らないし、おんなじか、と思う。

サファーナは注射をしなかった。診療所の所長は、ここだけではなくイラク全土でワクチンがないと言う。ワクチンがないとは知らなかった。自分が講演会で単純に「薬はあります」と言っていたことを深く後悔する。間違いではなかったのだが、単に麻酔薬や鎮痛剤が足りないと言うだけではあまりにも浅かった。大切な事柄だからもっと詳細な解説をするべきだ。本当に謝りたい気持ちでいっぱいだ。

11:00 アシュワックが父母会に行くのに同行。学校はお母さんたちでごった返していた。父母会は年に2回開かれる。学校が再開されて初めての大きな行事でもあるので、先生たちもバタバタ。

さっきまで問題なかったマイクの音が出ない。みんなでアンプやコードのつなぎ目やコンセントをああでもないこうでもないといじくるが直らない。そうしているうちにもう12:00をまわっていた。始めなくて大丈夫なのかなと思っていたら、もうとっくの昔にはじまっていて、ショウカッド校長は最後のクラスでスピーチしていた。アシュワックのいたクラスは終わってしまい、お母さんたちはワラワラと帰っていく。ショックだ、逃した。年に2回、それも戦争後初めて、千載一遇の機会だったのに……。先生たちのバタバタに気を取られてしまった。トホホホホ・・・夜は少ししっかりとアシュワックの話を聞かなくちゃ。

15: 30 インターネットカフェでメール第2便を送信。電気店でDVDプレイヤー(再生のみ)を3種類見つける。ひとつはポータブル型。どれも聞いたことのないメーカーだったが、”Main movement is made in Japan”と書いてあった。なかなかニクイことわり書きだ。値段は80ドル。

ここはファディの会社の近くだから、必ず寄る。同僚は年齢も体格もまちまちだが、みんな目がカッコイイ。プロの目をしている。同僚がポケットからピスタチオをひとにぎりくれた。イラクでもナッツはハダカのままポケットに入れてポリポリ食べるので、よくもらうことがあるが、ポケットに入っていたナッツは人肌でほんのりと温かくなっている。なまるいし、ホコリぽいし、正直まいったなーと一瞬思うけれど、食べるとこれが結構おいしい。そして、食道から胃へと心地好い温かさがしみてくるから不思議だ。

20: 00 イラクTVの連続ドラマが終わるのを待って、アシュワックに今日の父母会のことを聞いた。できれば家族にも参加してもらいたいと思い、わざとリビングでオープンな雰囲気のまま収録した。ファディはジョマナの学校について何かイチモツを持っていそうな気がしていたが、やっぱりそうだった。

アシュワックがインタビューに答えている後ろで、背中を向けて食事をしている。彼がこう言う態度をとるときは、言いたいことがあるのに抑えようとしているときのように思う。食事を終えた彼に質問を向けると、始めは「ディーナは先生だから言えない」と意味深なことを言って話すのを拒否していたが、そのうちしゃべり始めて口調はどんどん激しくなっていった。それにディーナも反論する。矛先はしばしばこちらにも向けられた。そのやりとりは興味深いものだったが、書くにはもう体力がない。

ひとつは、学校の先生たちも切望していたが、教科書を新しいものに切り替えるべきであるということだ。フセインはイラクの人たちにとっていい意味でも悪い意味でも心の拠りどころであり、イラクに暮らすということはフセインとともに生きるということだ。ここでの暮らしは、フセインとイラク社会という関係ではなく、フセインとイラク国民一人一人という関係の中で成り立ってきた。

フセインを否定することは、フセイン時代に暮らしてきた人たちが積み上げてきた生活、考えそのものを否定することになる。フセインをNGと言うのなら、OKと言うものをこの目に見せて欲しい-という叫びのように思う。これはインタビューとか言葉で語るのは簡単だが、映像で伝えるのは本当に難しい。いや、本当に難しい。

話している中で、クルド人地区では新しい勉強道具が配られていることがわかった。クルド自治区では、90年以降教科書からフセインの写真は消えている。それと同じことがなぜアメリカにできないのか、しないのか、もう6ヶ月もここにいるのに……。反米感情の一部が失望感から生まれているというのはこういうことがあるからだ。

そういえば、昨日の23:45に大きな爆発音、続いて24:30に爆発音があった。この間ほど近くはないが、そう遠くでもなさそうだった。探しにいきたかったが、車がなかったのであきらめた。まあ、焦ることはない。

ズボンははけますか?

Day-4
寝ている最中に風が強いな、と思った。朝になっても風はつよい。明け方、少し雨がふったようだ。8:00すぎに本宅へ行くと、ジョマナは母アシュワックと学校へ行った後だった。ラミを送りがてら学校へ行く。朝の町内を知り合いの息子と手をつないで学校へ送るのは、すっかり保護者になったようでなんだか変な気分だ。目立つのも良くないかなとも思ったが、すれ違う人たちにきちんと目を見てあいさつをすれば大丈夫かな、と思って良しとした。学校から戻ると車がない。ファディが起きて後を追ったらしい。ファディは起きぬけのはれた目をしながら、”Here is no security.”と諌めた。わかっているって、と言ってはいけないと思ったから、”OK, sorry.”とだけ笑って答えた。

爆破された警察署を撮りに行った。隣接する店舗の建物は半壊している。警察署そのものの壊れようはひどいものだが、それよりも被害が大きいように見えた。火災によるものだ。あたり一面に焼け焦げた塗料の缶が転がっていて、ペンキ店だったことがわかった。現場を見てみないと分からないことがあるものだとあらためて思う。そのペンキ店を営む一家は建物のすぐ裏に住んでいて、その一角の家々も半壊していた。店は父と息子たちできりもりしていたようだが、父と息子のうち1人が亡くなった。本当にひどい話だ。残された息子たちの笑顔はしっかりとして頼もしい。どうか頑張って欲しい。

10:30 学校へ。歴史の授業を見学&ロケ。6年生の男子クラス。授業中、先生に質疑応答の機会をつくってもらった。彼らからの質問は、①占領をどう思うか ②イラクが好きか ③戦争をどう思うか ④あなたもラマダンに参加できるのか ⑤日本の占領とイラクの占領は同じか-。席から立ち上がって手をあげる少年たちの元気な姿は最高だ。理解しているかいないかはあまり問題ではなく、彼らの質問に真剣に答える態度が大切だと思う。こうゆう楽しい時間ばかりならいいなあ。
隣の6年生のクラスには、トルコ大使館の隣に住んでいる少年がいた。爆弾テロで両足に大火傷を負い、皮膚の移植手術をしたそうだ。今は痛みも無いと言い、とても元気だけれど包帯が痛々しかった。父親は一命をとりとめたものの失明したそうだ。

12: 30 先生たちとインタビュー2回目。今回はアメリカの占領についてどんなストレスや疲れを感じているのか、どんな思いを抱いているのかを聞く。一番印象に残ったのはジョマナの先生の「50/50」と言う表現。自分の日常生活で疲れやストレスを感じることがあるか、という質問に対する答え。フセイン時代の約30倍の給料を月々もらえるようになり、学校もきれいにしてもらって、教師としての誇りも取りもどした。でも、治安が悪すぎて安心して暮らせない。そこにストレスを感じているようだ。「一年後、あるいは将来的にイラク人はアメリカと仲良くなれる可能性があると思いますか?手をあげてください。」と聞くと、「可能性はある」と手をあげたのは5人中1人。通訳をしてくれたディーナだけだった。わかる気がする……。

夜、もとローカルセキュリティのメンバーだった青年から話を聞く。共産主義世界にはあると思うが、警察国家、密告社会だったイラクに独特のシステムだと思う。外国人、イラク人に限らず、特に他の地域から来た人物の監視をしていたようで、住民の日常生活上の治安を守る警察とは似て非なるものだ。以前はイラクの人民と国のために働くというはっきりとした目的を持っていたが、今はセキュリティやインフォメーションで働いていた過去のある者はどこにも雇ってもらえない。「自分たちが何を悪いことをしたと言うのか」という鬱屈した気持ちを伝えたかったようだ。彼の希望で顔は見えないように収録。この手の仕事をしていた人たちは、みんなもとの仕事は隠していて捜しようがない。米軍、イラク人の両方から襲われるのを怖がっている。
インタビューの始め、どんな仕事をしていたのかと聞くと「イラクの国と人民を守る仕事」という答えが繰り返され、いっこうに具体的な答えが返ってこない。少ない明かりのなかで2時間近く、こちらも経験したことのない長いインタビューになった。へとへと。でも、せっかく勇気を出してしゃべりたいと言ってきたのだから、あますところなくかつ詳細に話を聞いた方が面白いはず。純粋な心を持ったまじめな青年だ。なんだか心に残るインタビューだった。

学校で、ディーナに「変な質問だけど、ズボンははけますか?」と尋ねると「学校ではロングスカートが決まりなんです。普段はズボンもはいています」と答えた。夜のインタビューには颯爽とズボンをはいてきた。通訳のリズムも良くなってきている。考え方はモダンで、ハイダと同じように民主主義指向がある。ときどき反イスラエル・反米感情が突っ走って空回りするファディに対して、彼女はきちんと自分の姿勢を崩さす反論できる。第三者にとってはバランスが取れて良いかもしれない。

焦るな

Day-3
朝寝坊した。急いで本宅に向かうとジョマナは制服に着替えてソファにちょこんと座っていた。これから髪の毛を結い直すところだった。間に合ってよかった。

何を考えすぎているのか、どうも頭が回らない。「次の画はー」とか「どんなシーンがなくちゃいけなかったっけ?」とか、ほとんど頭は真っ白になっている。なぜだか、今書いていて理由がわかった。これから先この仕事をしていくには、NHKや自分がこれまで目にして模倣してきた画や取材ではもう通用しないと考えているからだ。取材の難易度は上がっている。だから、要求されるものも厳しい。ドリー・ペック・アワードの番組を見て、自分にとってはフリダシにもどったような感覚があったが、同時にトップランナーたちのグループがどんなものか、少しわかった。相撲で言えば、自分はまだ新弟子検査に受かった程度なのではないかと思う。足は重いし息苦しい感じもするけれど、この仕事を続けて行きたかったら前に進むしかないな。そのうちきっと峠を越えて自然に足が出るようになると思う。

焦ることはない。これまでよりもスピードは落としても焦ってはいけない。

子どもたちの勢いがすごい。猛然とカメラに向かってくる。「ハロー、ミスター!ミスター!」と個別に呼びかけていたのが、すぐに手拍子つきのひとつの大きな掛け声にに変わる。先生たちに申し訳なくて仕方がない。アフガン以上に手を焼く。リベリアの子どもたちの方がよっぽど聞きわけがいいかなあ。あきるのを待つのも手だけど、治まる気もしないしなあ。子どもたちなりに自由を謳歌している、と肯定的に解釈することにしよう。

ジョマナの先生は、子どもたちの興味を引きながら授業を進めるのが大変上手だった。「授業が終わるとへとへとよ」という答えが印象に残る。教育省は先生たちに給料は支払うものの、管理指導的役割は一切していないようだ。学校側は何か問題を抱えても相談する先が今のところない。新しい教科書の要望を相談しても「私たちは何もできません、わかりません」と言われるらしい。

今日は、通訳候補2人にテストを兼ねて通訳を務めてもらった。一人は、30代半ばの男性サム(家族有り)、もう一人は女性ディーナ(未婚、アル-ハリル小学校の英語教師)。
英語力は、ディーナの方が5倍くらい高い。でも、インタビュー時の通訳のタイミングはいまいち。こちらが聞きたい内容をいち早く把握するのが上手いのはサム。ロングスカートをはいている女性を街中のガチャガチャしたところに連れて行くのも無理だろうし、女性には危険な場合もあるし、何かあったときの身体能力が心配だ。学校の先生をやっているディーナを46時中キープするのも気が引ける。ファディはしきりにディーナを勧める。むさくるしい男よりは女性のほうがいいのだろう。もっとも、今のように口をつぐむ人が多い時には男性よりも女性の方がいいのかもしれない。女性が相手のインタビューもやりやすい。ただ、動きが優雅なのはいいけれど、リズムがどうも。。。

こちらとあちらの会話をきちんと絡ませていきたいと思うと、サムの英語力では厳しいかなあ。でも、先生たちのインタビューが終わった後、あなたに聞きたいことがあると言ってきて”Why don’t you ask about occupation?”と指摘した。仕事ではなくマンツーマントークだと断りを入れた上で話してきたのだが、こうしたプロポーズができるのはいっしょに仕事をしていく上でとても大切だ。時間を気にしながらだったとはいえ、体制が変わったことに対する質問と答えの比重が大きくなってしまった感がある。サムの指摘はもっともだ。明日、あらためて先生たちのインタビューをしようと決めた。すると、学校ストーリーのイメージが広がりを見せ始めた。いいカンジだ。そういうわけで、今週はバグダッドでストーリーを仕上げることに決定。

栄花さんと約束した(?!)72時間が迫ってきた。インターネットカフェを探す。電気街に見つけて無事送信。フセインの時代には規制されていたインターネットも不自由なくできるようになった。それもISDNだからまったくストレスを感じない。20台ほどのブースの7割は埋まっていて、みんな静かに整然とネットサーフしていた。ゲームセンターもそうだが、市民生活のおけるテクノロジーの解放と浸透はあっという間。モノも新しいし、高い専門知識を持った人たちが働いている。そして個人は自らの労働力の提供し、それに対して対価を要求する。非常に個人主義的な面を感じる。利益は国家や社会よりも個人の生活により直接的に収束するように行動する。かといって、お金がなければ無視されるかといえばそうでもない。話して互いの事情を理解しあえればかなりの融通もきく。ふとカリフォルニアにいる感覚を思い出して、似てなくもないなあと思う。もし、アメリカとイラクが同盟関係を結んだとしたら、お互いに結構気が合うんじゃないかと思ったりする。政治がまともだったら、の話だが。

ハイダが訪ねてきた。彼の会社はCPAから仕事受注したアメリカ企業と契約したUAEのオフィス
サプライヤー(コンピューターなど事務用品)のバグダッド現地法人だと言う。”Green Zone”と呼ばれるアル-ラシッド・ホテル界隈に会社があり、職場環境は気に入っている。でも、CPA下の外国系企業で働いていることは隠しているそうだ。彼に限らず、連合軍やCPAと関係を持っている人たちは、誰に狙われるかわからないと怖がっていると言う。どんな人が狙われるのか、細かくグルーピングすることは可能なのだろうか。人なのか、組織なのか、及ぼす影響なのか、いったい狙う目的とは何なのだろう。イラク人の個人主義に照らして考えるなら、報いてくれる可能性もない、目に見えない人物のために自分の日常生活を捧げるとは思えない。やはりそうした労働に報いる人たちがいると思う。それが外国人なのかイラク人なのか、あるいは両方入り乱れて勝手に行動しているか……。いずれにしろ、反米ということだけは共通しているのだ。

PS2 を借りてきて、ファディ一家で『ようこそ~』を観た。テレビの事情で白黒画面になってしまったのが残念だったが、ジョマナをはじめ、16歳のベイダや10 歳のラミ、3歳のアルバラまでが文字通り釘付けだった。イラクの話だけでなく、ほかの国の映像も同じようにジーっと観ていた。同じ年代の子たちが同じように勉強しているし、他国の人たちの暮らしや風俗が新鮮だったのだと思う。新鮮な興味や驚きで輝く目は、どこの国の子どもたちでも同じように持っている。ナレーションがアラビア語だったらなあ、と思う。
ファディの激しい質問攻めにあう。特に、エイズやドラッグに関して興味を持ったらしく、エストニアの子どもたちやザンビアのストーリーにはショックを受けたらしい。ブワザニの腕を触ったところで、うつらないのかっ?とびっくりしていた。いまやエイズはグローバルな問題だが、その対策や知識は驚くほど局地的なものだとあらためて思う。

寝るのが遅くなった。明日が心配だ。

バック・トゥ・スクール

Day-2
ラマダン中、一家の朝は遅い(正確には早すぎる、か)。
11:00 ジョマナの学校「アル-ハリル小学校」を訪ねてみた。お土産用にせっかくチョコレートも大量に買い込んだし、と思いつつ。

まるで新築の学校だった。子どもたちの姿が消え、すべてがほこりをかぶり、割れたガラスの破片が散らばって荒み切った学校は、まるで別の世界の話だったと思うほど学校らしい学校の姿を取りもどしていた。ショウカッド校長は上気した笑顔で再会をことのほか喜んでくれたようだった。外内装は真っ白に塗りかえられ、電気もファンも新しくなり、机や椅子もぼろいものは見当たらず、廊下の電気もガラス製の装飾カバーがつけられて、全てが美しくなっていた。教室のドアにいたっては、足元の部分に金色の金属板が張ってある徹底ぶり。床を水掃除した時に下の部分が濡れて木が腐って壊れていくことのないようにするためだ。素晴しい。ショウカッド校長によると、9月にアメリカがやってきて(USAIDだと思われるが)9月に修繕が始められたと言う。その後、10月4日に再開されて新学期をむかえた。

勉強するのにふさわしい環境を取りもどして、今ではほとんどの子どもたちが登校してきていると言う。治安の問題があるので、多くの親が送り迎えをしているそうだ。先生たち、特にショウカッド校長はジョマナが学校に来るようにファイドに話していたようだった。とはいえ、爆破された警察署から数ブロックしか離れていないところに学校はある。子どもたちが巻き添えになる可能性は大いにあるのだから心配だ。

TIKRIT に行って何を撮るかまだ定まっていない。先にジョマナの「バック・トゥ・スクール」を撮りたいなあ、とも思う一方で、日本の番組で放送したらきっと「アメリカもイラクの復興を進めているじゃないか」と短絡的に解釈されて、ますますイラク戦争はもう終わったという感を強めてしまうのではないだろうか、と心配してしまって迷いが生じている。でも、誰もいない教室でジョマナが見せたあの笑顔が本物になったということを、やはり撮らないでおくわけには行かないと思う。TIKRIT行きは数日延期して、バグダッドでの取材を進めていこうか……。

米軍の駐屯地を回る。各PAOと会い、米軍取材の段取りを考える。プレスセンターがあるコンベンションセンターでは、アーミテージ国務次官の会見が会ったために、セキュリティチェックは厳しいものだった。世界一厳しいセキュリティチェック-さすがアメリカだ。会見は聞かずに帰った。

それにしてもプレスの数が少ない気がする。TVカメラの数は 20台弱だからほどほどかもしれないが、報道陣の数が少ない。出席者の3分の1は地元メディアだろう。とても世界中が注目しているニュースの現場とは思えない迫力の無さだ。世界の興味はイラクの国や民衆そのものにはもう興味が薄れてしまっているのだろうか?プレスセンターがあって、その情報に報道陣が集い、会見を撮る-座って質問するだけでジャーナリスト面ができる、創造性をまったく必要としない現場のいい例だ。

夕食は、チキンのトマト煮、ブロッコリーのトマト煮、ナスのフライ、オリーブや野菜のピクルス、ズッキーニに炒めたご飯を詰めて煮たロールキャベツのようなお料理、ナン、白米。男性も女性も子どもも一家全員で食べたのはこれが初めてだと思う。とにかくおいしい。食べすぎで気持ちが悪いほど。
夜、DVDを見るためにゲームセンターにPS2を借りにいった。そこは15分350ID、10畳ほどの店内は中高生ぐらいの少年たちが順番待ちをするほどこみ合っていた。

22:15 大きな爆発音があった。なにがあったのか確認の仕様がない。

22: 30 ファディが戻り、米軍の車両を狙い路上に仕掛けられた爆弾が爆発したと言う。現場はすぐ近くということで行くことにした。車で5分ほど。野次馬が大勢、少年たちがまとわりつく。”Fuck you”など、汚い言葉をふざけて使って米軍を茶化す。死傷者なし。リモートコントロール式の爆弾ということから通りに面した周辺を捜索するが犯人は見つからなかった。警察署といい、今回といい、この辺もけして安全ではなさそうだ。

24:00 帰宅

イラク入り一日目

Day-1
6日22:30 アンマン出発。
あけて7日2:45 国境のヨルダン側に着く。パスポートコントロールには60人ほどがいたが、西側外国人と思しき人はいない。3:20 イラク側の入国手続きも終了した。イラク側のゲートは新しく荷物検査のレーンができていたが厳しく取り締まっているようすはなかった。米兵の姿が2人。子猫と戯れていた。国境を通過するまでに要した時間はわずか35分。すべての手続きはドライバーのアブドウラがおこなったが、あっという間だった。勝手知ったるヨルダン側はもちろんだが、イラク側に入ってからトランクを開けて荷物を説明した程度でほとんど時間がかかることはなかった。警備兵を含め、対応するイラク人職員には、その都度500イラク・ディナールを袖の下で渡していた。この辺がコツなのだろう。そういえば、かつてメディアセンターで領収書ひとつ書いてもらうのにも、その職員に手間賃を渡していたことを思い出した。何かをしてもらうにはすべてお金、というのは、当り前だがフセインがいなくなった社会でも変わることはない。バグダッドへ向けハイウエイを走り始めてからしばらくして眠ってしまった。途中、ハイウエイからはずれ、迂回した舗装路でない道を走っていたようだったけれど、真っ暗で詳しくはわからなかった。

5:20 空が白んできた。6:30 ラマディ通過。「街」ではなく、「町」だ。7:10 ファルージャ郊外通過。こちらは「街」だ。7:20 バグダッド郊外に入ったところで米軍駐屯地。今回はバグダッド近郊に来るまで米軍の姿は見られなかった。反対車線を40台ほどのタンクローリーの車列がすれ違う。右手に見える建設中のイラク最大(になるはずだった)のモスク。その後どうなったのだろうか?カーステレオをつけると鮮明な音が耳を驚かせる。「Radio Iraq」からは、アメリカのフォークソングやポップスが流れていた。
ラマダン、しかも金曜聖日とあって、街は静かだ。でも、幹線通り沿いの家具店や造園業者が開いていて、戦争前とかわりのない風景にもどっていた。ボデイビルジムまで営業していた。7ヶ月ほどでここまで日常を取りもどすとは、イラク人たちのパワーと能力には感心する。

8: 30 ファディの家に着いた。家族みんな元気だ。どんなに強くhugしても足りないくらい、また会えたこと、彼らが元気だったことがうれしかった。前の家から引越ししていて、おばあさんの家の隣に家族みんなで暮らしていた。前の家より古くていたみもあるが、そんなことよりも家族4世代にわたって揃って暮らせる方が何より良いのだと思う。ファディ自身の妻と子どもの家が30メートルほど離れた並びにあり、そこに泊めてもらうことにした。とても快適だ。電気は回復していた。夜10時ごろには切れてしまったが、宅にはジェネレーターもあり、それを使ってラマダンの長い夜を過ごしていた。水もお湯も問題なく、生活インフラは回復しつつあることを確認。今、彼らが抱える一番の問題はやはり治安だ。
この家から500メートルほど離れたところに警察署があるが、先日そこが爆破された。現場には爆破に使われたと見られる車も残っていて、周囲は爆発の大きさをものがたるように瓦礫となっていた。このあたりもまったく安全ではないようだ。

『ようこそ~』のサンプル版を持っていたものの、やはりDVDを見れる環境はないようだ。ただ、このあたりにもインターネットカフェやコンピューターショップがたくさんできていて、そのうちの一軒でDVDドライブを発見。Video CDにダビングしてくれることになった。30歳ぐらいのショップの店員はものすごく詳しいので、どこで勉強したのか聞いてみると軍でコンピューター技師をやっていたそうだ。それにしても詳しい。バグダッドには高度な専門知識を持った優秀な人材が集まり、郊外の街角のコンピューターショップなんかで働いているのだから、「へえ~」である。

夜、ハイダが来てくれた。取材の目的と方向性を説明すると、”I understand what you want and it’s good. But very difficult and almost impossible.”という答えだった。彼は、「今はケンジがいた戦争直後とは違って、みんな話をするのを怖がっているよ」と言う。せっかく生活が成り立つようになってきて、余計な事をしゃべって自分の生活に余計な波風を立てたくないという思いからなのだろう。フセイン時代も程度の差はあれ、同じような空気があったと思う。フセインにしろアメリカ軍にしろ、巨大な力によってある種の畏れを人民の心に植え付けて治めている。「リヴァイアサン」。。。結局、支配者が変わっただけなのだ。皮肉な感じだ。バグダッドの人たちにとって、フセイン時代よりもエキサイティングであることは確かだ。移動も自由、衛星テレビやコンピューターなどの新しいものも自由に買える。これまで心に納めてきた言いたいことも自由に言えるし、支配者に文句も言える。そういった意味ではフセインがいなくなってくれて良かったと思う人が8割方というのもなんだか納得できる。でも、そのかわり治安状況はめちゃめちゃになった。フセイン時代、治安は良かったが自由はなかった。どっちに支配されるのがいいかはここに住む人だけが判断できる問題かもしれない。
ハイダは少しやせた感じだったが、半月ほど前にUAEの子会社でコンピューター関連の仕事を得たようで、なんと婚約までしていた。本当におめでたい。外国メディアに雇われて仕事するのは、時に一般市民からはかけ離れた環境・文化の中でやっていかなければならない。不安定だし、博打っぽい面もある。地元で家族や自分の生活を大切にしていきたいと考えるなら、地元に根をはったレギュラーのきちんとした仕事の方がよっぽどいいと思っている。そういうわけで、残念ながら今回彼に通訳をやってもらうことはできない。いろいろアドバイスはもらえそうだが、彼も自分の生活の方があるだろうし、あてにしてはいけないと思う。

Tikrit行きは明後日にした。