パリのイラク女性 (8)

12月19日、日曜日の昼下がりのカフェ。通りに面した窓際の角席。隙間風で冷えた。
“How did you feel when you were in the hotel in the airport?(空港の滞在所にいた時、どう感じていた?)”とディーナに尋ねた。
” Why me?-I always asked such like tihs by myself. I thought that everyone succeed to go toSweden by this way. Why only me who didn’t make good.” 「みんなこの方法でうまく行っているのに、なぜ、私だけダメなの?という気持ちだった」と言うディーナ。そうだろうね、これにはうなずける。ファディには、電話口で泣きながらで思い切り愚痴ったと言う。

カフェで会った時、彼女のポケットにはわずか6ユーロほどしかなかった。ランチをとる人たちで賑わう店内は、家族連れも少なくない。彼女の話をメモしながら、上目使いで彼女の表情を見る。ボクがメモするほんの些細な瞬間に、彼女の視線は斜め向かいの家族連れのテーブルにそそがれていた。彼女の寂しさと不安を考えるとなんとも切ない。ひと通り話を聞いて、昼食を注文した。チキンソテーにレモンバターソース、フレンチフライ添え。イラクのチキンに比べると油っぽいな、と思いながらモモ肉を口に運んだ。

ランチの後、バグダッドに電話することにした。彼女が使っていた電話ボックスに向かう。海外によくある電話交換台ショップ。店内が8~10のボックスに仕切られ、一つ一つに電話が置かれている。客は話した時間分の代金を店に支払うシステムで、こちらからはかけられるけれど、相手からはかけられない。ディーナは一度家族にかけて、「ケンジと会えたから安心して」と伝えると会話も早々に切ってしまった。「えっ?遠慮しないでもっと話しなよ」と言うと、もう一度かけ直した。ボクも彼女の兄マハシンと話したかったし、家族との電話で得られる安心感に比べれば安いもの。実際に、10分弱の電話に書類コピーまでして、代金わずか4ユーロだった。

ディーナは運良く、今いるシェルターで、ウイダッドというパリ在住のアルジェリア人女性と知り合い、友達になった。ウイダッドは母国アルジェリアでTVレポーターをしていたが、イスラム原理主義グループに脅迫を受け、2002年にパリの親戚を頼って逃げ出してきたという。ウイダッドは身寄りもあるし、すでに「緑の切符」を手に入れて、亡命希望者向けの情報をいろいろ持っている。似たような境遇にある彼女たちは意気投合して、ディーナの相談に親身になって乗ってくれているようだ。明日月曜日、ディーナはウイダッドといっしょに、外国人がパスポートを失くした際に相談する警察署に行って、自分の事情を説明してどうすればいいかを聞いてみるという。ボクは、彼女がイラクで通訳として働いてくれていたことを証明する書類を作って持って行くことを約束して、3時半頃別れた。

Republica広場から北駅に向かって歩いて行く途中、教会の前でホームレスの人たちに炊き出しが行なわれていた。寒風の中に立ちこめる白い湯気とコンソメの香り。体だけは温まりそうだ。若い人のほとんどがアルジェリアやモロッコ系の男性、中年以上は白人だ。地面に座り込んで、コショウか何かの子袋の口を切ってスープにふりかけていた。炊き出しは始まったばかりだったようだ。若い男たちは、「亡命希望者の定期列車」には乗れない人たち。「より良い生活」を夢見て、EUに渡ってきたいわゆる不法滞在の人たちだろう。かつて訪れたモロッコのタンジールで出会った人たちとかぶる。正直、こうまでしてEUにいたいのか?と思うけれど、本当の想いは当事者になってみないとわからないのかもしれない。

パリのイラク女性 (7)

「亡命希望者たちの定時列車」に乗れそうなところまで来ているディーナだが、誰かが切符を買って与えてくれるわけではなかった。
フランスで亡命希望者として生活していくにあたり、所定の警察に住民登録をしなければならない。日本で言えば、外国人登録のようなものだ。そこでGreen Receiptという滞在許可証をもらう。これが「亡命希望者の定時列車」に乗るためのチケットだ。この「緑の切符」で、OFPRA(French Office for the Protection of Refugees and Stateless)へ。フランス政府の難民事務所にあたるOFPRAでは、亡命希望者を難民として保護して身分を保証する。働いたり銀行に口座をもてたり、日常生活が営めるようになり、第三国への亡命申請はもちろん、フランス国籍の申請も可能になる。「亡命」という新しい人生が見えてくる。
このGreen Receiptをとるのにディーナは格闘する。

ICRCからもらった”ASYLUM SEEKERS’ GUIDE”を見ながら所定の警察に行って事情を説明した。担当警察官はGreen Receiptを発行するにはパスポートが必要だと言う。彼女は、没収されたパスポートのコピーや裁判所の書類などと共に事情を説明した。でも、担当官はパスポートの名前と裁判書類の名前が違うことを指摘。彼女のパスポートの名前は”HAMSA”であり、ディーナであるということを証明する適切なものがないと言う。最初の申請で彼女は拒否されてしまった。「緑の切符」を手に入れるにはまずパスポートのコピーが必要(ない場合は警察が正当と認める別の身分証明書が必要)。Green Receiptを発行する警察署にとって、パスポートが偽造で没収されたということは管轄外の事柄なのである。必要なのは彼らの業務にとって有効な身分証明書。偽造であれなんであれ、パスポートを持って入国したのだからそのコピーを使うという理屈である。下手に偽造パスポートを使ったために、ディーナは二つの名前を持つことになってしまった。こうなると逆に、入管で「パスポートを失くした」と訴えた方が良かったことになる。

実際に、フランスで多く見られる中国からの不法入国のケースは、パスポートなしの場合がほとんどのようだ。EU圏は自由に移動できる。列車なら入国管理も緩いし、空路でも乗り換えだけならほとんどの空港でチェックされない。一度乗り込んでしまえばこっちのもの。そして、フランスやドイツやスウェーデンに着いた途端に、パスポートを破り捨てて難民の申し立てをする。中国の場合、天安門事件に代表される言論抑圧の歴史があることと、共産主義ということもあって経済難民としても認知されやすいことがある。

警察で拒否されたディーナは、亡命希望者の相談所に行って事情を話した。自分が”HAMSA”ではなく”DINA”であることを証明できる書類を揃えたら、とアドバイスを受け、彼女はパリのイラク大使館へ行って事情を話し、大使館宛てにバグダッドからファックスを送ってもらうことにした。彼女はバグダッドから出る時、途中の検問所などで自分の正体がバレることを恐れて、大学の卒業証明書や戸籍など身分証明書関係はすべて家に置いてきていた。隠し様はあったと思うけれど、考える余裕もないほど切羽詰っていたのだろう。パリのイラク大使館でファックスを受け取ったものの、結局警察からはオリジナルの書類を要求されたために、後で家族がバグダッドからDHLで送る羽目になった。

また、初めディーナは、偽造とはいえパスポートにこだわっていた。スウェーデンの滞在許可証があったからだ。「パスポートの偽造がわかって没収された以上、いくら自分で申請したとはいえ、その滞在許可証はもう無効だと思うよ」とボクが言うと、彼女は言葉を失っていた。大金をはたいて買ったパスポート・・・気の毒だけど、不法は不法なのだからこればっかりはあきらめるしかない。30年近く続いたサダム独裁政権下で、イラクの一般市民が外の文化や情報をまともに学ぶことはなかった。戦争後、サダムから解放されはしたが、イラク社会そのものが新しい国として成り立っているわけではない。治安が悪くなる一方で、教育や公共福祉サービスやインフラはいっこうに整備されていない。イラク人の行動規範は、まだサダム時代のままなんだと思うことがある。「恐怖」「恐れ」が人々の行動や判断を左右する、悲しい世界。ディーナの話を聞いていて、そんなことを考えた。

パリのイラク女性 (6)

ディーナは不法入国者用の一時滞在施設を出るまで次のような経緯をたどった。
ICRCの職員から亡命希望する場合のガイダンスを受ける→警察の事情聴取→簡易裁判所に護送され、亡命希望者として滞在が許されるかどうか、裁判を受ける。→30分ほどの審理の後、評決。ディーナに滞在許可が下りる。→翌日、空港内の一時滞在施設を出て、パリ市内Republica広場近くの修道院が運営するホームレス用のシェルターに入居。

まず驚いたのは、ICRCが作って配っている”ASYLUM SEEKERS’ GUIDE”なるもの。そこには、フランスに滞在しながら第三国へ亡命するための手順が解説されている。どこへ行って、どんな証明書を手に入れなくてはならないか、各関係先の住所と電話、亡命希望者が頼れるNGO、亡命希望者が緊急の助けを必要とした時の連絡先などが記載されている。そして、すばやく裁判が行なわれ、それぞれの申し立てに亡命希望者として滞在が認められるかどうか審理を行なうシステムに、ボクはうなづいてしまった。ディーナは、パレスチナ人の男性マルワンとチェチェンから来たという一家とともに裁判を受けた。その時の裁判において滞在許可が下りたのはディーナだけだったという。他の二組がどうなったかはわからない。ICRCでも裁判所でも「あなたの国イラクは戦争中だから」と理解を示されて、彼女はフランスで亡命希望者として暮らしていくことを許可されたのである。

とは言うものの、お金も、身寄りも、住む所もない。言葉も通じない。判決を受けた翌日、彼女はICRCでシェルターを教えてもらって、地下鉄の切符をもらい、自分の足でシャルル・ドゴール空港からその場所へ辿り着いた。まず、シスターに事情を説明。入居させてもらうことになった。でも、ディーナは幸運だったのかもしれない(実際彼女もそう感じていると言う)。亡命希望者として滞在すら認められずに空港から強制送還されたり、警察が持て余して結局なんの手続きも受けずにホッポリ出されるケースもあるという。彼女は亡命希望者と認知されて、ひとまずフランスで暮らしていける。手順を踏んでいけば、働けるようにもなるし、政府から補助金を受けることもできる。何より、バグダッドで恐怖に震えながら暮らしていたことを思えば、通りを自由に安全に歩けるパリはホッとすると彼女は言う。彼女の目の前には、「亡命」というレールが敷かれ、そこに亡命希望者の乗せた「新しい人生」行きの定期列車が走っている。この列車に乗り込めば、きちんと次の駅へと辿り着く。そして、そのレールの先に自分の新しい人生が開かれていることをディーナ自身が自覚しているようだ。将来はさておき、彼女は大好きな家族や友人、住み慣れた土地、これまでの仕事や国籍をあきらめて、新しい暮らしを始めた。「寂しさと不安で泣く時もあるけれど、ひと通り泣けば落ち着くし、目の前の一歩がうまく行くことだけを考えているわ」と言う彼女の一途さにはすごくうたれるし、女性のある種のたくましさを感じる。

パリのイラク女性 (5)

ディーナは偽造パスポートを使った。
アンマンやバグダッドでは、サダム独裁政権下で欧米に亡命したいわゆる「亡命イラク人」たちがパスポートの売買を行っている。スウェーデンやデンマーク、ドイツ、英国などに亡命したイラク人たちの中には自分のパスポートを売る人たちがいて、それらが流通しているようだ。バグダッドにはパスポートの偽造業者がいる。その家族の中に亡命した者がいて、ストックホルム-アンマン-バグダッドを拠点に一族で亡命ビジネスを手がけているようだ。ヨルダン-イラク国境で偽造がばれて強制送還されたという話を聞いたこともあったが、めげるどころかビジネスは拡大しているというから、彼らのたくましさには恐れ入る。購入した人は、パスポートの写真を自分のものと張り替えて使う。ディーナは”HAMSA”という名前のパスポートを手に入れ、写真を張り替えてなりすました。価格は通常12,000ドルもするらしいが、現金大特価7,000ドル。6,000ドルを支払い、ストックホルムに着いて業者の仲間に残り1,000ドルを支払う予定だった。戦後の混乱もあって、多くのイラク人がこうした偽造パスポートを使って人道主義の強い北欧や欧州諸国へ流れているという。アンマンのスウェーデン領事館で滞在許可証まで取って、”HAMSA”は、何の問題もなく目的地スウェーデンのストックホルムに到着するはずだった。でも、”HAMZA”のパスポートを見たフランスの入国管理官は、写真が貼りかえられていることを見破ってしまった。

ディーナは、その時のメガネをかけた女性入国管理官の怪訝そうな表情を鮮明に覚えていると言う。「このパスポートは他の人の物ね」と言われて、何がなんだかわからなくなったという。ただ、アンマンに強制送還されたらそのままイラクへ帰国させられてしまう-そのことで頭はいっぱいだった。彼女は自分のパスポートが本物であると必死で言い張った。そして空港警察に連れて行かれた時、「空港でトラブルがあったらICRC(国際赤十字)に行け」という知人の言葉を思い出して、警官に言ってICRCの事務所へ連れて行ってもらった。空港内にある建物の一階が警察、二階がICRC、三階が不法入国者の一時滞在施設になっていた。入管では私は”HAMSA”と言い張ったディーナだったけれど、ICRCの職員にはすべてを打ち明けたという。自分の本名はディーナであること、脅迫を受けて逃げ出したこと、偽造パスポートを使ってここまで来た事情を話してICRCの職員に理解してもらった。彼女は不法入国者の一時滞在施設で4日間寝泊りすることになる。ファディがボクに伝えた電話番号はこの一時滞在施設のものだった。外部と連絡が取れるなんて、日本の施設とは大違いのフランスの寛大さ(?)に少し感心した。また、あの時のファディの”Kenji, Help Dina.”という声を思い出した。あの晩、事務所の国際電話の料金を払い忘れていてフランスに電話をかけられず、ジリジリしながら翌日まで待っていた。そして、教えてもらった電話番号に何回もかけた。たいていは誰も出ないし、誰かが応答しても英語が解せないという状況でイライラした。彼女からこうして話を聞くまでよくわからなかったが、電話口に出たのはディーナといっしょに施設にいた不法入国の人たちだったのだ。応答した人の中に、唯一少しだけ英語が解せる「マルワン」という名の男性がいた。ディーナが警察の事情聴取で留守にしている時、ボクは彼と話をした。彼の”Dina is OK.”という言葉にホッとしたのを憶えている。彼はパレスチナ出身だったが、その後どうなったのだろうか?

パリのイラク女性 (4)

ディーナと会って、カフェで話を聞いた。
話は5時間近くに渡り、まとめるには時間がかかりそうだ。何回かに分けて、ざっくりと記録しておきたいと思う。

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“We will kill you.”-6月半ば、彼女の携帯にメッセージが着信した。その後、およそ2週間、毎日少なくとも一日に一回、昼夜を問わず同じメッセージが届いた。”We will kill you.” そんなある日、知らない男性から電話がかかってきた。「通訳をしているディーナさんですね?」と尋ねる男性に、彼女は「いいえ、私は英語の教師です。通訳ではありません」と答えて電話をきった。不審に思ったディーナはファディに相談。ファディはディスプレイに表示された番号に電話して、男性に話を聞いたところ、トルコ語のわかる通訳を探していたとのことだった。男性は間違いだったと謝ったという。

その後、7月に入ってからメールではなく直接電話がかかってくるようになった。ディスプレイに表示される番号はいつも同じだが、その都度違う男の声だった。台詞はいつも同じ”You work with the occupation troops. And we will kill you.” それだけを言い残して切る。誰?お金か何かが欲しいのか?というこちらの問いには全く反応しない。また、こちらから表示された番号にかけても誰も出ない。こうした電話が週に1,2回、早朝か夜中にかかってきたという。

7月17日、ディーナの自宅の入り口の扉に”Unfaithful Girl”と落書きされているのを、朝彼女が出勤する時に見つける。男たちからの電話は続いていた。

7月25日、ディーナの大学の同窓生で親友のラナ・アルムサウィ(24)さんが、高速道路を運転中に銃撃されて亡くなる事件が起こる。バグダッド陥落直後から米軍で通訳として働いていたラナさん。事件の少し前、ディーナは彼女と電話で話している。ラナさんも携帯電話にディーナが受け取ったのと同じメッセージを受信していた。ある日、彼女は車のフロントガラスとワイパーの間に”We will kill you.”と書かれたメモの入った黄色い封筒が挟まれているのを見つけた。中には銃弾が入っていたという。彼女の家族はもちろん、ディーナもラナさんに仕事をやめるように薦めたが、彼女は心配ないと言って仕事を続けていた。彼女の給料はひと月900ドル。新イラク警察官の3倍以上の金額、しかも安定した収入だ。ひと月40-50ドル以下の現金収入しかない人たちが大多数を占める今のイラクで、トップクラスの高収入だ。物価も高騰している。もちろん命には代えられないけれど、彼女が脅されて簡単に失業するわけにも行かなかったのは理解できる。襲われた時に同乗していた14歳の弟の話では、2台の車が自分たちをつけて来ていたという。そのうち、ピックアップ1台が並走してきて、運転中のラナさんの頭を狙撃。コントロールを失った車はフェンスに激突して止まった。狙撃した犯人たちはピックアップを現場に乗り捨て、もう1台の乗用車に乗り換えて逃走したという。乗り捨てられたピックアップは、後日盗難車とわかった。

7月末、ディーナは携帯電話のディスプレイに表示された番号を通信会社イラクナに照会。誰が電話しているのか?悪質ないたずらか何かか?調べて欲しいと頼んだ。イラクナの職員は「12時間後に問題の番号は受信拒否になりますから」と対応し、その日から彼女の携帯電話には男たちからメッセージも電話もかかってこなくなったという。

8月5日朝、自宅の庭で黄色い封筒(縦10センチ横15センチほどのもので、普段一般に使われる白く横長のものとは異なっている)を見つける。中には二つ折りにされた1枚のメモが入っていた。”We will kill you.”この一文が手書きで書かれていた。日にちは覚えていないが、4,5回受け取ったという。毎回同じ封筒で同じ白いメモ紙だった。筆跡が同じだったかは自分でも思い出せないという。

8月25日朝、自宅の入り口の扉に”Killed the Spy”という落書きを家族が見つける。

10月20日、自宅の庭に投げ込まれていた黄色い封筒。この時のものは封筒の表に”You are death.”と書かれ、中にはメモの代わりに銃弾が入っていた。今年春、自分がスンニ派反米武装グループをインタビューした際にディーナは通訳を務めていた。「占領軍に加担するものはイラク人であっても殺す」と言う男たちの答えに、彼女は恐怖を抑えきれずインタビュー中に嘔吐してしまった。その時の男たちが関わっているのではないかと、当時連絡役を務めた男性にファディと共に問い詰めたという。彼は「あのグループは違う」と関与を否定したが、ディーナには「すぐに国を出た方がいい」と忠告した。この話は自分もファディから電話で聞いていたし、100%違うと笑い飛ばすことはできないけれど、インタビューしたグループは一方で「攻撃対象は米軍とその同盟軍、一般人は標的にしていない」と答えていたし、自分のチームの通訳に手を出すとは思えない。彼らはこちらの情報や意図を理解した上で、お互いある種の信頼関係が成り立ったためにインタビューに応じた。また、彼らのすべての答えから判断すると彼らの活動はレジスタンス的なものと思える。ただ、彼らが関与していないとしてもスンニ派武装グループとパイプのある人物が逃げた方がいいと言うのだから、”We will kill you.”のメッセージに何らかの現実味があったのだと思う。

10月29日11:00am、ディーナは末の弟と共にファディが用意した車でバグダッドを出発。10時間後にアンマンに出国した。アンマンではファディの妹の家族の元に身を寄せ、12月2日まで滞在していた。
12月2日7:30am、ディーナはエアーフランス AF585便でパリ経由ストックホルムへ向かった。

パリのイラク女性③

裏通りの灯りが暗かったからか。いや、けして灯りのせいではない。ディーナはやつれていた。
アムステルダムを出て、パリ北駅に着いたのは5時半。霧雨。駅前のホテルにチェックインして荷物を置き、地下鉄に乗った。Ripublica広場近くの修道院のシェルターに辿り着いたのは6時半。ベルを鳴らすと、古びた木製のドアが開いて、メガネをかけた小柄なシスターが応対に出てきた。とても怪訝そうな表情と視線、ドアもわずか20センチほどしか開いてくれない。雰囲気から、ここは普段来訪者を受け付けていない施設なのだとわかった。ドアの隙間から垣間見えた内部は大学病院のような趣だったが、食堂かロビーのような空間はこぎれいで少なくとも冷たい雰囲気ではなかったのでホッとした。「ディーナというイラク人女性に会いたいのですが・・・」と伝えるが、小柄で気難しそうなシスターは英語がわからないようだ。そんな人はいません、とドアを閉めてしまいそうな勢いだったのでちょっと焦った。ドアの前で待つこと5分。雨と風が冷たくて、すごく長く感じられた。ドアの内側で女性のやりとりが聞こえる。ドアが開くとそこにディーナが立っていた。1,2歩、一瞬ホッとしたような笑顔を見せて抱きついてきた。そして泣き出した。OK、もう大丈夫。どう力になってあげられるかはわからないけれど、少なくとも相談できる知り合いが近くにいるというだけでも安心できると思う。彼女はえんえん泣いているけれど、本当にホッとした。この施設はやはり来訪者を禁止しているようなので、ほんの5分ほどの面会で済ませ、明日午前中に外で会うことにした。地下鉄に乗る気がしなかったので、しばらく歩いた。途中、教会の前で炊き出しが行なわれていた。コンソメの香りが食欲をそそったが、アルジェやモロッコ系と思われる若者たちの数の多さに驚いた。彼らは当然移民だと思うけれど、より良い生活を夢見て巴里まで来たものの、やはり仕事にはありつけないのか。北駅までは賑やかな大通りが続いていたのでそのまま歩いてホテルに帰る。途中のスーパーで食パンとレバーパテと牛乳を買って部屋で夕食。パリでは一人の外食ほど物を不味く感じることはない気がする。

パリのイラク女性 (2)

もう空港に行かなくては。
連絡役のハイダからメールが入っていた。少し状況がつかめた。

hello dear ….

Yesterday, Fadi had called me at night and tolled me some issues about Deena to tell you :
1-You can call Deena this comming Tuesday at the phone cabinet at 06:00 o’clock, Baghdad Time, at the evening .. the cabinet No. : 0033143142988
cuz she doesn’t have a phone no. she will stand at this phone cabinet at the exact time ..OK

2-She has another phone No. but without a code for calling her : 0623504491
and you can call her every evening at 09:00 o’clockBaghdad time and ask for Deena to talk to you ..but first Fadi did not give any code no. for this mobile phone you have to get the code to call for her …..OK

As you know, Deena is in France now and she’s looking for a Humaniterian Resort and she’s still fighting for this goal and she needs your help for this if you can offer any thing for her…and her residence is in a house within a church in France and she is sharing this house with some girls…….and what she really needs from you is a phone No. that she can get you on cuz she needs to talk to you very quickly…OK

This is all I got from Fadi and and if you want anything I will go to him and tell hem things that you want ……OK……..keep in touch

your’s
hayder

パリのイラク女性 (1)

AMSTERDAM8:00AM NOW
It’s very cold and there is a big Tree in the DAM square. Men, women, and children in the street looks just ready to have Christmas day.
少年兵士取材のため、シエラレオネほか西アフリカ諸国へと日本を発ったのは、12月8日。
ヴァージン航空 VS901便 同日15:45 ロンドン着。

9日 Oxford circus にあるシエラレオネ高等弁務官事務所でビザ取得。6ヶ月マルチ、160ポンド(およそ35,000円!)体臭の混ざった事務所の臭い、現地語の混ざったクセのある英語、事務的だけど雑然としたスタッフの対応の仕方に、もうシエラレオネに着いてしまったような感覚を憶えた。自分の今の暮らしや共通の友人に関して会話を交わす彼らを見ていると、ここが紛れもない西アフリカ・コミュニティであることがわかった。
東京では手に入らなかったフリータウンへの便は、クリスマスへの帰省客でいっぱいで取れない。1月までウエイティングリストもいっぱいだという。残念。安い航空券を探すも見つからず。ただでさえ、物価の高いロンドンだが、ポンド高(1ポンド=211~220円)もあいまって金額がべらぼうになってしまう。円、ドル、ポンド、ユーロの価値が以前のように一定していない。同じ物でも金額が倍以上になることもある。自分の購入したい物やビジネスの内容によって、購入場所や仕事場所を変えていく必要があるのか。現代は便利になったのか?と感じるけれど、そうした差があるところには必ず経済が生まれる。この差のおかげでもうけている人たちもいるだろう、と思うと良いのか悪いのかは一口に言えないかも。現地への入り口をアビジャンに変え、安い航空券を求めてアムステルダムに移動することにした。

10日 ブリティッシュ・ミッドランド航空 BD101便 06:35 ロンドン発。チェックインカウンター混み合う。飛行時間1時間25分 1時間遅れでアムステルダム 9:55着。11日発のカサブランカ経由アビジャン行き航空券を購入。モロッコは悪い思い出があるのであまり立ち寄りたくないが、乗り継ぎだけだから大丈夫だろう。

11日 Ams.-Casablanca Royal Air Maroc 13:00-15:30 AT 0851->Casablanca-Abidjan Royal Air Maroc 19:00-23:40 AT 0533
ディーナは、今もパリにいるようだ。全く電話が繋がらないと思ったら、ファディがよこした電話番号は公衆電話のものだったようで、曜日と時間を決めて彼からディーナにその電話にかけているという。ディーナは電話もない場所に泊まっているのか。ファディ、もう少し早く相談してくれよお。バグダッドでは周囲から尊敬され、頼りにされていた英語の教師だった彼女。買物が好きで化粧品やアクセサリーやファッションにもうるさかった彼女が、今は亡命希望者 “Asylum seeker”として外国で貧しく不安な生活を送っている。彼女は電話を手に入れるお金もままならないし、ましてや西洋は生まれて初めての西洋だ。何とか力になってあげたいが、連絡がつかないことには動きようがないではないか。なんとか助けてあげなければならないと思う。”Half OK, Half not OK.”とさっきの電話でファディは言ったけれど、何がOKで何がOKじゃないのか、そこを彼女から聞けば対応のしようもあるが・・・。クリスマスだというのに、家族や友人と離れて本当にかわいそうだ。
神様、どうか彼女と彼女を支えてくれる人たちの傍らに、あなたがいて道を示してくださいますように。

捜索難航

アル-ムサナ警察のフッテージは、インタビューの内容も画の質も前回よりはるかにクオリティの高いものになった。でも、これは当たり前のことだ。

自分の場合、再撮という言葉は当てはまらないかもしれない。なぜなら、取材は重ねれば重ねるほど深くなっていくからだ。このスタイルは、十分に下取材をした上に台本を書いてノンフィクションドラマを作っていくわけではない。台本はあったとしても日々刻々変わっていく。前回のロケに入るまでに得た知識より、前回のロケで経験した分が加わって今回のロケに望む前に身に着いていた知識の方がはるかに多い。

これと収録テープを落っことした問題とは別だ。捜索は難航している。

朝、起きるのがつらい。体がキシキシいっている。タラルのお宅で少し充電させてもらって少しばかり回復したと思ったけれど、完全に戻るにはきちんとした充電時間が必要かもしれない。でも、まだ重症ではなさそうだから、これ以上ひどくならないようにしないと。日本の夏のようなむっとする暑さ。ボーっとして、今回はもう限界かもしれない。

ハナンのお宅を訪ねる。綺麗なブルーのサテンのドレス”DEAHDASHA(デシェデシャ)”に白い”へジャブ”を頭にかぶっていた。またちょっとお姉さんになった。挨拶するのに笑顔を見せてくれたのはうれしかった。初めてだね。
「気分は?お腹はどう?」と聞くと、上目使いの小さな笑顔で「ハンドゥレラ」と答えた。よかった。一家も変わりない。

今回のバタバタの中で、ここへ来ることが許され、たいした物ではないけれど日本の女の子と同じように雛人形を飾ることができたことに、感謝。こうなってくると、やっぱり学校に行って欲しいなあと欲張りな思いが残る。

明日早朝、バグダッドを出る。最終日、この後そのくらいカメラを回せるかわからないが、できる限り・・・。

・・・

朝食の時、なぜかエストニアの子どもの家と、リベリアで出会った子どもの亡骸を思い出す。砂浜に掘られた正方形のプールのような深い穴に、人間の形をした肉塊が無造作にドサドサ重ねられていく。少年は鼻から血が出ていたような気がするが、とても美しい顔をしていた。安らかな表情とはこういうものなのかもしれない。ナットウェイの写真もそうだった。少年は兵士だったのだろうか?そうは見えなかった。戦闘に巻き込まれて死んだ一般市民。

どうしたのか、涙が出てくる。あの時は、ただただ「この現実をおさめておかなくては」と必死だった。意識して「なぜ、この子は死ななくちゃならなかったんだ?」と考えないようにしたのかもしれない。

なぜ、あの子は死ななければならなかったのか?

なぜ、あんなに安らかな顔をしているのか?

ホテルをチェックアウト。
昨晩、タラルのお宅でリラックスしたのが良かったみたい。不安は残るけれど、体力、集中力、思考力、自分が何を考えているのか、がわかる。

失くしたテープの捜索を続ける。取材に関わってくれた人たちに本当に申し訳ない。「神さまは何かを示そうとしている」という彼女の言葉を頭の中でリフレインしながら、再撮を決めた。一段と良いものを撮らなくてはならない。

昼食はタラルの家で。美味しい。生命エネルギーが注入されていくようだ。

あらためて本日午後から、アル-ムサンナ警察1日目。

タラルの家で美味しい食事と何も考えない時間を取ったからだと思うが、集中力、気力、体力も持ち直していてモチベーションも高かった。いい仕事ができたと思う。

1:30 署に戻る。
こうしてパソコンに向かう気力さえあるが、まだ完全に復調していないみたいだ。少しだけ、この間の感覚を覚える。眠い。休んだ方が良さそうだ。

明日は最終日、何とかもってほしい。