Oct. 28, 2004

青年の解放を求める集会に参加した。
デモや集会と呼ばれるものに参加したのは、中学校の何とか集会以来のことだ。
この仕事をするようになってからは、意識的に避けてきたということもある。

国会議員の偽善的で言い訳めいたスピーチが続く。
なんで拍手するんだ?
彼らは、本来なら「今まで政治家として何をやっていたんだ、自分らに責任はないとでも言いたいのか!もっとしっかり汗かいてやれ!」と非難されてしかるべき立場のはずだ。
思わず帰りそうになったが、
「頭数」になろうと思ってここにやって来たことを自分に言い聞かせて、じっと我慢した。

首相官邸前に移動した時には、300人ほどになっていた気がする。
300人・・・これが現代日本の姿。
人質解放を求めて数万人のデモが行なわれたイタリアやフランス、テロが起きたあと、雨のマドリッドを人々が埋め尽くしたスペイン。そうした画とどうしても比較してしまう。
この国と人が、自分たちのおかした罪に落し前をつけずに、実質なき「みそぎ」と呼ばれる儀式で、自らに課すべき罰をかわしてきた末にたどり着いた日本という先進国の姿だ。
こうした集会をオーガナイズするグループの悪いクセは、永遠に変わらないのだろうか?
こんな時まで、政治色ばかり鼻につく。
政府を批判するのはいい。自衛隊撤退を求めるのも当然だ。
でも、なぜ今現場で実際に動いている連中へ、それが自分たちの仲間であれ、政府の人間であれ、「全力でがんばれ!私たちも応援している」と祈るとか、エールを送るとかいう音頭をとらないんだ。若者の主張みたいな、自分らの不満をぶちまけてる場合か?普段そういう偏狭なヒューマニズムでやってるから、いつまでも支持されないし、特殊な人種扱いされる。
卓馬が「シュプレヒコールってなんですか?」と尋ねた。

鈴木さんの静かな訴えは心に響いた。
いろいろ思っても、「あの青年を殺してはならない」ということがすべてだ。
自分に、日本人に、イラク人に訴えかけるにはどうしたらいいのだろうか?
静かに祈りをあわせていきたいと、心から思う。
希望はある。分析的な見方をしても、希望はあるよ。
プラカードに目もくれず、足早に歩くOLやサラリーマン、300人と道路を挟んで向かい合い、群れる濃紺のスーツ姿の男たち・・・彼らの頭の中に青年の顔は浮かんだか?あるいは胸の中で祈ったか?「殺すな」と、どうか同じ気持ちであって欲しい。
際立つTVカメラの少なさ。ロイターとCNNが取材をしているのを見て、少しホッとしたが、それも放送されなければ、青年を救う助けにはならない。申し訳ない想いがこみ上げる。自分は何もできない。祈るしかない。
どうか神さま、彼を連れて行かないでください。

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