ルポ: Rebuild Japan

三月二十日

20日、仙台市内。朝5:50 縦揺れ余震。昨晩も大きな余震。

昨晩一泊、松本さん宅にお世話になる。限りない感謝。

小さな自家菜園からとれた大根の煮物が信じられない美味しさだった。

庭で近所の人たちと会話する松本さんの声が聞こえる。

まだ朝の6時、人々は寝るのは早く、動き出すのは早い。

昨夕、支援物資の水は無事倉庫に格納された。だが、配給を予定されていた場所では水は足りているという知らせを受け、そのまま足りていない避難所へ転送する。被災地現場近くにウェアハウスを設置し、支援物資をそこにストックしていきつつ、最もニーズの高い場所に次々出して行く。この体制作りができつつある。

三連休の初日、泉インターチェンジ近くのショッピングモールに買い出しに来た人々。
無料バス、静かに並ぶ人たち、地割れたちバスターミナルや地下鉄の階段、駅前駐車場には一台の車も止まっていない。
整備されたゴーストタウン…。
どこかに似ていると思ったら、ハリケーン・カトリーナの後のニューオーリンズだった。

ルポ: Rebuild Japan

Rebuild Japan
三月十九日
震災発生から一週間、ユニセフの支援物資のコンボイに同乗して東北自動車道を北上中。
「災害派遣」の布を付けた自衛隊の車両と「わ」ナンバーで荷物を満載したバンが目立つ。
一方、南下してくるトラックが多い。支援物資や機材を届けて戻るのか-。
福島県内に入った途端、道路の状態が悪い。所々で補修作業をしている。
道路脇に残る雪。
陸前高田で仮設住宅建設のニュース。宮城あたりは生活(環境)支援のニーズが高まってきているのかもしれない。例えば、子どもたちへの学習や遊びの機会を提供することだ。支援物資のあるところと全くないところの格差が出てきている。未だ岩手は全体的に緊急物資の支援が必要のようだが。
意外にもSAは開いていた。肉まんとあんまんをほおばった。
宮城県に入った。白石川の手前。道路補修作業が大規模に、また間隔が狭くなっている。
蔵王パーキングエリア およそ4KM手前。「ここはひどいなあ、ちょっと揺れますよ」というドライバーの親切な声。長距離ドライバー歴13年、無精髭を生やして物静か。なかなかのイケメン。
BGMがマイケル・ジャクソン”Heal theworld”に変わった。

緊急ルポ!チュニジア・バーニング-2

チュニジア・バーニング 02・27

27日午後3時半、チュニス郊外に住む女子大生と家族の取材から戻った。目抜き通りには催涙ガスの名残りが薄く漂っていた。上空にはヘリコプターがいつもより低く旋回している。(ああ、暴動は今日もあったのだな)と思いながらホテルの部屋に戻る。しばらくするとデモの声が轟のように聞こえてくる。いつもと違うリズムと音色。バルコニーに出て見る。軍の装甲車がデモの参加者たちにとり囲まれている。中には、装甲車の上に乗っている者もいる。でも、装甲車は動こうとしている。信じられない光景に眼をこらして見る。装甲車は動こうとしている。反射的に(危ない状況だ!)と感じ、カメラをとってホテルの外に出た。

どうも様子が違う。周囲の治安警察も市民と混ざり合い、遠まきに見ている者もいる。衝突ではない。それどころか何かを祝福している。

独裁のベンアリ前大統領がサウジアラビアに逃げ出した後、暫定政権を樹立して選挙までの政権運営を担っていた前政権のナンバー2、ガンヌーシ首相が辞任を表明した。過激なデモ、平和的なデモ、いずれにしても要求は前政権の下で政府の要職にいた者たちの辞任だった。それが成し遂げられたのだ。

兵士と市民が何やら口論している。いや、口論ではなく、激しい「議論」だ。握手をする兵士と市民、装甲車の前で記念写真を撮るカップルや普通の若者たちもいる。私の左脇にいた年老いた(そう見えた)男性が「時計を撮っておけ」と私の肩口から声をかけた。(そうだ!時間だ!)と時計塔にカメラを向けた。午後4時50分。チュニジア「ジャスミン」革命・第二幕は突然幕が下りた。

今度は、私服警官に腕をつかまれた。やや酒臭い。(また連れて行かれるか)と思ったが、そうではなかった。有刺鉄線の向こうに並ぶ黒マスクをかぶった治安警察官たちを撮れと言う。両手を上げて喜ぶ者、笑顔でカメラに手をふる者、厳しい眼差しで状況を凝視している者、煙草を吹かす者、皆それぞれだ。なおも私の腕を引っ張り、有刺鉄線を越えて内側に行くと、警察署本部には、逮捕された者が次々連れてこられる。彼らを指さし「こいつらは泥棒だ!」と言う。ある警官は撮れと言い、ある警官はそれを制止する。もう、わけがわからない。政府のトップが居なくなった今、これまで石を投げられていた側の治安警察官たちにはある種の空虚感さえ感じられた。中には、ストレスを爆発させている者もいた。リンチとは言えないが、逮捕連行した「泥棒」たちを引き回し、殴る蹴る、ペットボトルの水をぶっかけるわ、もう統制はとれていなかった。仮に、彼らが本当に「泥棒」だったとしても、少なくとも多勢に無勢であり、すでに抵抗もできない。眼の前で暴力を見るのは至極気分が悪い。さっさとその場を離れたかったが、日に焼けたトッポジージョのような風態をした酒臭い私服警官は私の腕をつかんだまま離さない。散々ひきまわされたあげく、ようやく有刺鉄線の外に連れて行かれた。

街には私服警官が溢れていた。棒を持っているからすぐわかる。その向こうでは、四、五人の警察官にまた一人連行されている。しかし、思えばこの三日間の暴動で、警察が銃を発砲したのは威嚇/警告のための発砲のみ。これには妙な感心をおぼえた。チュニジアはやはり、良くも悪くも「警察国家」だったのだ。訓練された治安部隊だ。

こうした混乱期に治安は悪化する。盗みや放火、破壊行為が横行する。今後警察の役割は、デモ隊と戦うことではなく、市民を犯罪から守るという警察本来の基本的な仕事に移って行かなければならない。長年染み付いた秘密警察的なやり方を変えて行くことができるのか?そんなことを考えながら、街の様子を確かめて廻った。カメラのテープは終わっていたが「見て、自分を浸す」ことが重要だった。

緊急ルポ!チュニジア・バーニング

 チュニジア・バーニング 02・25

チュニス。2月25日午後7時。内務省と警察署本部をデモ隊が襲い、催涙弾と石が飛び交う激しい暴動が目抜き通りで起こった。

滞在中のホテルのロビーには意識を失った若者、座り込んで眼や鼻をおさえる若者が溢れている。

外に出る。「神は偉大なり!」と叫びながら投石する若者たち、警察も怒り狂って催涙弾をバンバン撃ってくる。放水車が水を放ち、路面がぬれている。デモ隊は、催涙弾が撃たれては引き、少し収まると前進するという一進一退の攻防が続く。脇道には催涙弾で動けなくなった男たちが暗闇の中でうめいている。ここに一緒に居ても仕方がないと大通りに出て、盾になる場所を探しながら、デモ隊と警察・治安部隊が相対している前線を目指す。現場で自分込みのレポートをしながら撮影する。眼薬を何回さしたか、わからない。花粉症防止マスクが役立った。バリケードの二列目から撮影。双方が激しい言い合い(なじり合いか?)をしている。催涙弾が背後に着弾。放水車が水を向けると同時に、前線のデモ隊は走って後退する。

その時、誰かに引っ張られた。一緒に走って下がる。

その途中で建物の入り口のくぼみに体をはめ込んだ。ごうを煮やした警察と治安部隊が鎮圧にかかり、一気に前進を始める。「前線」が私の目の前を通り過ぎていく。私のいた場所は警察と治安部隊の側に入った。捕まり/保護され、取材はジ・エンド。デモ隊はチュニジア最大のモスクの方向に吸い込まれて行った。

気を付けてはいたが、取材中に投げられた石が腕に当たるなど危険を感じたので撤収、モスクまで行くのはやめた。

昼間の数万人デモはチュニジア全土から人が集まってきたものだった。リビア、パレスチナ、サウジなど、他のアラブ諸国の旗も見られた。しかし、あくまでもチュニジアの一般市民のデモと要求であり、「イスラム法による社会の実現を求めるか?」という質問を向けてもyesという答えはなかった。さらなる政治的改革を求める平和的なものだったのに…。

しかし、夜の暴動を見るに、若者の行き場の無い怒りや不満が過激なイスラムへの信条へと繋がって行くような光景が目の前で展開されている。投石する若者、そう、過激なイスラム色が強い。昼間に見た外からのアラブ人(一見チュニジア人を装っているのか…)が暴動に参加しているのだろうと頭をよぎる。まさに今、この政治的空白と社会の変革機を突いてイスラムの過激な部分が入って来て、表面化して来ている。

見たところ、TVジャーナリストは僕一人だったらしい。地元の民放(名前は聞かなかった)からテープを売ってくれと言われたが断った。

 チュニジアは他国の民主化運動と台頭化する過激なイスラムを渦のように巻き込み、新たな炎が燃え上がりつつある。

特集:南スーダン・デイリー 人口急増〜豊かな大北部から貧しい新南部へ

 独立が決まった南スーダンの首都ジュバには、北側からたくさんの市民が自由と新しい生活を求めて戻って来ています。住民投票によって独立が決まった南スーダンに、北スーダンから戻ってきた人たちが自分の故郷に戻って新しい生活を始めるまで一時的に暮らす滞在所(キャンプ)があります。

 ナイル川に面するジュバ港には、家財道具を満載した巨大輸送船が停泊しています。港のほとりには、背の高いマンゴーの木を雨よけにするように、おびただしい数の帰還民が暮らしています。彼らは、もともと南部出身ですが、長く北部で暮らしていたために生活基盤がなく、ここに留まるしかないと言います。行くあてのない滞在者が増え続ける中で、地元政府も対応しきれないというのが現状です。ユニセフが、一時的な処置として飲み水を供給するとともに、子どもの健康管理に関する講習などを定期的に行っています。

 街の診療所では、無料で感染症の予防接種、一歳以下の赤ちゃんにはポリオ・ワクチンの接種と成長カードを創ることができます。また、一般市民には値段が高くて手に入らない蚊帳の無料配布も適宜行われています。

 しかし、内戦と北部への資本と開発の集中によって南部スーダンの医療やインフラは、極めて貧しいままです。最近の急激な人口増加には追いついていません。衛生環境や子どもたちの栄養事情は日に日に悪化しています。

 首都ジュバから50人乗りの飛行機で一時間半、西バール・エルガザイ州の街ワウに降り立ちました。そこから、さらに4WDでおよそ四時間半、北バール・エルガザイ州クルンロックへ向かいます。北スーダンと南スーダンの境界線までおよそ70キロの街です。かたく乾いたでこぼこ道を輸送トラックが車体を上下左右に振りながら走ります。

 アイルランドのNGO GOALが運営するテント宿に着いたのは夜7時半を回っていました。温かいシャワーが道中の疲れを癒してくれます。屋根に取り付けられたドラム缶の水は、昼間激しいスーダンの太陽に熱せられて、ちょうど良い温かさのお湯になっていました。

 翌朝8時出発、向かったのは北スーダンからの帰還民が一時滞在しているキャンプです。キャンプと言っても、テントがあるわけでもなく、大人も子供も自分たちが持ってきた家財道具と共に暮らしています。いわゆる「難民」「避難民」ではない彼らは、戦争や紛争から逃れて来た人たちが受けるような通常の援助の対象にはなりません。

 今日、ここで初めての配給が行われます。この一時滞在キャンプは、今24時間人が集まっては出ていくため、全体の人数を把握するのは困難です。また、帰還民の人たちは帰ってくるのに全財産を使いきってしまっています。用意されたのは100家族分。足りない分があれば、四時間かけて再び倉庫から運んできます。日本が支援した蚊帳や毛布、食器、石鹸など食糧以外の生活用品がユニセフのプラスチックケースに入れられています。

 アチル・アグイェイさん(35)は8人の子どもと夫ともに南部に帰ってきました。このキャンプに滞在して一週間になります。

「こうした配給は本当に助かります。特に、蚊帳や毛布は手に入らないので。でも、正直に言うと、今一番私たちが困っているのは食べ物なんです」

 私たちには何もできませんが歌で感謝を示したいと、アチルさんは歌を披露してくれました。

 私にはそれがとても貴重な命の歌声に聞こえました。彼らの前途にどんな苦労があるか、わかりません。私は一瞬、眼を閉じて空を仰ぎ、軽く息を吸い込みました。ごく自然な一瞬でした。

特集:南スーダン・デイリー 子ども病院が必要としているもの

 首都ジュバにあるエル・サバァ・チルドレンズ・ホスピタルは、南スーダンで唯一の子ども病院です。平屋建ての建物が雑然と並び、周囲の金網やブロック塀は崩れ落ちて、気にして見ていないとただの工事現場かと思って通り過ぎてしまいそう雰囲気です。

 救急の患者たちが屋根のない中庭に溢れていました。木陰に寝そべったり、座り込んだりして順番を待っています。マラリア(と思われる)高熱、感染症、下痢、栄養失調、子どもたちの病状は様々です。医者がきちんと診察をおこなっているのはここしかなく、具合の悪い子どもを連れて二時間かけて歩いて来たという母親もいました。院長先生によると患者数は一日およそ150人、マラリア患者が増える雨季になると200人を超えると言います。

 入院する施設は十分とは言えませんが、40床ある新しい建物がひとつ稼働しており、さらにもう一棟がこれから作られようとしています。その建物が完成すれば、診察室も増え、緊急入院の場合にも対応できるだろうと思いきや、事態はそう簡単ではなさそうです。

 南スーダンの独立が決まったことにより、北から南に返ってくる人たち(returnee=帰還民)がいて、南スーダン全域で人口が毎日急増しています。患者数がこれまでに比べ、爆発的に増えているのです。また、感染症の子どもたちが多いにもかかわらず、一般の病気の子どもたちと分けて入院・治療できる施設はありません。4月以降、雨季になれば、この新しい建物もスシ詰め状態になることは容易にイメージできます。

 そして、なんと言っても薬の欠如です。エル・サバァ・チルドレンズ・ホスピタルは唯一の子ども病院なので、新生児から3歳以下の子どもたちの割合が多いのですが、薬としてよく使われるシロップ状のものは、薬棚にあと30本ほどしか置いてありませんでした。「これですべてですか?」と尋ねると、「はい、シロップはこれで終わりです」と薬局の看護師さんが答えました。あまりに少なすぎます。「今日でなくなりますよね?おそらく。その後、どうするのですか?」と聞くと、「処方箋だけ出して、患者さんに自費で外の薬局で買ってもらうしかありません」と視線を落として軽く頭を左右に振りました。物価の高いジュバで、一般の薬局で薬を買える人たちがどのくらいいるのかと思うと、先の見えない絶望感に襲われました。

 使わなくなった病棟の廊下に未熟児などをケアするインキュベーターが3台、内側まで砂と埃にまみれて捨て置かれていました。おそらく、どこからか医療機器の支援をうけたのでしょう。私は、パレスチナのガザ地区で20年近く前に日本から寄贈された子ども用の医療機器が現役で働いているのを見て感動したことがあります。メンテナンスして使い続けている現地の人たちに敬意をおぼえました。しかし、ここ南スーダンでは、病棟が整っていない上に、電気がありません。ちょっと通電しては停電するという状態が1日中何度何度も続きます。常に電気を必要とするような医療機器はあっという間に壊れて、砂埃に埋もれてしまうのです。

 絶望的な薬不足と捨て置かれた近代医療機器のギャップが、役に立たない支援の現実をあからさまに示していました。

特集:南スーダン・デイリー 子ども兵士を追って

西エクアトリア州は緑豊かな南スーダンの農村地帯です。その中心都市ヤンビオの舗装されていない乾いた赤土のままの飛行場に降り立ちました。都会の喧騒に暑さが混ざり合う首都ジュバに比べて澄んだ空気の風が心地良い。

舗装された道など全くないヤンビオは、小さいですが行政の新しい建物などが出来ていました。ここに日本政府がユニセフを支援して建てられたチャイルド・ケアセンターがあります。2011年の1月にオープンしたばかり、目新しい平屋の建物が二棟あります。ひとつは男の子用、もうひとつは女の子用です。合わせて50人が寝泊まりできるように蚊帳のついたベッドがまだ白味の残るいコンクリートの床の上に並んでいます。現在、ここでは三人の少年と二人の少女が親や親戚が見つかるまでの短い間暮らしています。

ジョージ・オコエ君(17)は、首都ジュバの小学校に通っていました。休みに入り、自分の村に帰る途中、隣国ウガンダ反政府勢力LRAの兵士たちにバスが襲われて連れ去られました。三年前の事でした。それ以来、ずっとLRAの兵士と共に行動し、森や原野で暮らしてきました。ジョージ君は17歳にしては、体が小さく、私は14歳ぐらいかと思いました。

ある日、逃げ出すことに成功したジョージ君はヤンビオ郊外でこの地域の人たちに保護され、今年1月にセンターに連れて来られたのです。

彼は記憶もはっきりしていたため両親の居場所はすぐにわかりました。近く首都ジュバにある『トットちゃん・センター』に移送され、手続きを経て、親元に帰ることができます。ユニセフは、こうして武装グループに誘拐された子どもたちを保護し、家族探しを行政や地域、NGOと協力して行っています。

ジョージ君は親元に無事帰ることができました。しかし、彼が以前のような普通の子どもの生活を取り戻すのはそう簡単ではありません。まず、学校です。三年間を失ってしまったジョージ君は、現在17歳。普通の小学校ではもう勉強できません。18歳以下で兵士となった子どもたちは、まず普通学校に戻るための特別な学校で勉強します。学力の遅れを取り戻すためです。こうした制度がきちんと機能して初めて、子どもたちはもとの生活の戻れるのです。

センターには子どもを保護したり、地域で聞きとり調査をする女性の職員がいます。彼女は、この日ジョージ君と同じように学校の休みに家に帰る途中で襲われ、16歳の少女を誘拐された家族を訪ねました。母親は「もう6年になります。生きていたら兵士の子どもを産んでいるでしょう。諦めることも必要なのかもしれません」と寂しさと悲しさの混じった眼で低くなった空を見つめながら言います。

その横に座って女性職員は私をまっすぐに見つめて言いました。

「ここではまだ戦争は終わっていません。終わっていないのです。」

特集:南スーダン・デイリー 未来を創る『トットちゃん・センター』

 首都ジュバにあるユニセフ・南スーダン事務所に着くなり、目に飛び込んできたのは、”TOTTO CHAN”という看板でした。スーダン内戦中にユニセフ親善大使の黒柳徹子さんがこの地を訪れた際、兵士にさせられた子どもたちや戦闘で親を失った子どもたちのために「できることをしたい」と申し出て建設された施設です。子どもの保護、トラウマ・ケア、家族探しなどを行っています。戦闘が激しかった頃は、およそ200人もの子どもたちがこの施設に一時保護をされていたそうです。現在は、国の社会発展省が仕事を引き継ぎ、管理しています。

 スーダンの内戦が終わり、2007年~2008年にかけて南スーダン軍の子ども兵士たちの除隊が進みました。今では、『トットちゃん・センター』で暮らす子どもたちはいません。

 しかし、戦争が終わっても、国境沿いで活動するウガンダやコンゴの小さな武装グループがスーダン側の村々で子どもたちを誘拐する事件が毎日のように起きています。そうした子どもたちのために、まだまだ『トットちゃん・センター』の役割は重要です。建物はとてもしっかりしたコンクリートの二階建てです。かつてのように子どもたちのケアが忙しく行われているわけではなく、お役所のような雰囲気でした。社会発展省の人たちが椅子に座り、少し時間を持てあましているように見えました。こうした状況の中で必要とされているのは、地方の子どもケア・センターの拡充と充実です。

 かつて私がシエラレオネで取材したような子ども兵士が社会復帰するために暮らす孤児院のような施設は、スーダンにはありません。ユニセフは近年、孤児院に子どもたちを留めるのではなく、少しでも早く親や親戚などのもとに還す方針をとっています。ただ帰すのではなく、地域の受け入れ態勢や教育の遅れを取り戻すための仕組みを整えた上でのことです。子どもたちは孤児院のような施設で暮らしていても、いずれはそこを出て「卒業」していきます。グループ・ホーム形式などで成功している例もありますが、子どもたちだけでは社会に復帰する際に障害にあってつまづいてしまうことが多いのです。家族や親戚はもちろん、地域で受け入れて行かないと貧困からは抜け出せず、道を見失って再び兵士に戻ってしまうケースもあります。ですから、戦いを経験した子どもたちにとって家庭・家族という雰囲気の中できちんと見守られて暮らすことがとても重要なのです。

 南スーダンは新しい国になります。今、仕事はたくさんあります。兵士として大人たちと戦場で戦っていた子どもたちに大切なのは、専門的な技術を身につけられるように”advocacy program”をスタートさせることです。エンジニアとか、電気技師とか、大工や服飾職人などなど、社会で暮らしていく術を学ぶ機会です。私は、『トットちゃん・センター』がその役割を果たせるのではないかと思っています。子どもたちとって、”TOTTO CHAN” センターは、忘れられない親しみ深い場所であることを考えた時、彼らが自分の力で意欲をもって未来を切り開いて行くのに最もふさわしい場所ではないか、と思うのです。

コメント

  1. Fumi Yoshikoshi より:2011年2月12日
トットちゃんセンターのお話、とても興味深かったです。黒柳さんは本当に色々なところで活躍なさっているんですね!同じ日本人としてとても嬉しいです。

子ども兵士の問題には色々と考えさせられました。子ども兵士に反対するのは簡単だけれど、実際に子どもが戦場に行かなくてすむような環境をつくるのはとても難しいし、また戦場から帰ってきた子どもたちの心のケア、その後の人生のサポートなど課題も多く、一筋縄ではいかないのだということを改めて感じます。

スーダンの子どもたちに、一刻も早く平和が訪れることを切に願います。。。

 

特集:南スーダン・デイリー

地球上で193番目の最も新しい国になろうとしている南スーダン。

国の社会制度そのものが根幹から変わる時、人道支援の果たしている役割は何なのか?現在とこれからを見て行きます。

乾季。首都ジュバは、厳しい暑さとすさまじい砂埃に包まれています。

舗装された道路はわずかしかありません。一般市民の家に水道はひかれておらず、電気の供給量は全世帯の20%にも満たないでしょう。

生活インフラは「貧しい」の一言です。

しかし、人が生きて行くのに「平和」という状況が、いかに欠かせないものであるか、とてもよくわかります。

南スーダンは今年初めに行われた住民投票によって自治区から独立国家になることが決まりましたが、北スーダン政府との関係において事を荒立てるようなことは避けています。

長い内戦を経験した人たちだからなのか、新しい社会を迎えるからといって、ただお祭り騒ぎをするようなうわっついたところがないのです。

ひとたび隣人とのバランスを崩せば、小さな希望は儚い陽炎で終わってしまうということがわかっているのでしょう。

白ナイル川沿いにあるジュバ港に行ってみると、北から戻ってきた南部出身者の人たちがおびただしい量の家財道具を山積みにして、マンゴーの木の下で過ごしていました。

returnee、いわゆる「帰還民」と呼ばれる人たちですが、自由と安定を求めて戻ってきたものの、彼らにはまだ戻る家がないのが現実です。

 

コメント

  1. より:2011年2月6日
今、いろいろと毎日のnewsで話題にこと欠かないアフリカの新しい国ですね。
話題の国達も新しい体制にしようという庶民の力が結集しての騒動と
なっているのですが、スーダンではどうですか?
新しい国を造るというのはどんな感じなんでしょう?
日本にいると感じ取れない空気があるんでしょうね。そんな空気感まで知ることができるレポートをまたお願いします。

 
  1. 千珠 より:2011年2月8日
ようやくともった希望の灯火を決して消してしまうことのないように、
不安と期待と、自分と家族と母国の立ち位置を探しているのでしょうか。

大人たちが、必死で幸せをつかもうとするとき、親のない子供は取り残されるのでしょうか。
それは遠い国の出来事ではなく、70年前の我が国もそうだったのでしょう。

親に恵まれなかった子供は、子供に恵まれなかった大人の愛に巡り会いますように。
どうか幸多き未来が開かれますように。 

子ども兵を探して (4)

   シエラレオネにNGO数あれど、実績と信頼性においてCOOPIは外せない。
 カントリー・コーディネーター のLamorte女史の話は、とても的を得ていて有意義だった。
 セント・マイケルズセンターは、NHKのETV2000『断ち切られた家族』やNHK出版『ようこそぼくらの学校へ』に登場する子ども兵士の社会更正施設。「藪の殺し屋」と呼ばれたムリアのいたところだ。母体は、FHM。

【COOPI】
話: Ms. Antonella Lamorte
・女性のための様々なワークショップと、暴力や迫害から女子を守る一時滞在施設”Center for Women”を運営。
・アンプティ・キャンプのリハビリセンターは、現在一般の障害者も対象としている(HANDICAP INTERNATIONALとコラボレート)。
・犯罪(DV、レイプなど)、および路上生活を送る若い女性たちの様々なケア。対象は、少女から25歳くらいまで。
・学校や家を訪問してモニタリング。
・およそ7,000人の子ども兵士たちが武装解除されたが、「まだ戻って来てほしくない」という地域は多い。
・元子ども兵士をサポートするNGOへの批判。
・地域にいても疎外感を感じている女子は多い。とても受動的で、何をされても仕方がないという感覚を持っている。
・体にある刺青やサインを消す少女たち・・・痕が残っている。
・RUFはもとは学生だった(?)。
・2004年は、40ケースのトレーシングが行われた。リベリア側からの問合せを受けたものもある。
・心理療法(社会心理療法)を病院で行なう(HANDICAP INTERNATIONALとコラボレート)。
・問題は、心理療法士のやり方が西洋的で、現地のコンテクスト、アフリカの価値観(1に地域社会、2に個人)に適合できないこと。
・”Single Bush Wife”と呼ばれる10代の少女多い・・・従軍して兵士の妻にさせられて子どもを生み、夫は戦争で死亡もしくは行方不明。
・2005年2月からリベリアでの活動本格化。
・人々は忘れたがっているが、アンプティの人たちは忘れられない。
・アンプティの人と元子ども兵士が同じ施設で暮らしていたケースも以前にはあった。

【ST. MICHEAL’S CENTER】
話: Mr. Berton Giuseppe
・5,6歳で誘拐されて兵士となった子どもは、幼い頃からタバコや麻薬をやっていたため、自分の故郷や家族のことを思い出せない。
・一般的に自分たちが使うストリートチルドレンというカテゴリーとは異なる、「チャイルド・オン・ザ・ストリート」-行き場を失った子どもたち。
・親が離婚。
・心理療法士が足りない。
・元子ども兵士というカテゴリーをはずして、困難な状況にいる子どもたち全般をカバーしている。
・人口の50%近くが子ども(?)・・・子どもに負担が大きい社会。
・”Danger”から”Difficulity”へ。失業、貧困の問題が浮き出てきた。
・シエラレオネ社会そのものがトラウマを抱えている “Society is traumatize itself.”。
・指導者がいない。誰もが行き先を見失っている “No sense of Direction.”。
・フリータウンのスラムには支援の必要な子どもたちが、およそ400人いると見られる。これらの子どもたちは戦争前にはいなかった子どもたち。
・現在、センターには40人の子どもが暮らしている。
・トレーシング(親探し)に決まったやり方はない。
・元兵士だった子らは、自分自身が歓迎されていないと感じることも多い。
・元兵士だった子らは、内面が子どものまま。大人になれない。危険からは逃れたが、何をすればいいのか、わからなくなったり、毎日の暮らし方を見出せない状態に陥る。
・親もとや故郷に帰っても、戻ってくる子どもは多い。
・2002年の4月で、元子ども兵士のトレーシングやリハビリプログラムは終了。
・継続している活動
1、小学校の建設 
2、里親探し 
3、養子縁組(Association Voluntary Service International (AVSI)による)
これまでに400-500人の子どもが国内外の養子になった。

●FAMILY HOMES MOVEMENT (FHM)
話: Mr. Harry A. Kpange (St. Michael’s Center)
Mr. Augustine Kapindi (St. Michael’s Center)
Mr. Paul Kamara (FHM Kissy town, Assistant Programme Manager)

・St. Michael’s Center の母体。
・グループホームの形態をとり、「家族」単位での暮らしを実現している。
・グループホームで暮らす子どものうち、親のいない子どもは40人。
・40人はケンカや諍いの起こらないように、それぞれ個別に離れて暮らしている。
・何か問題が起こったら、子どもは別のホームに引越しさせる。
・スタッフも同じ界隈に住んでいるので、ホームを訪問する形式のモニタリングは毎日行なっている。
・ほとんどの子どもは学校へ行っている。
・資金援助はイタリアのNGO “Association Voluntary Service International (AVSI)”。
・ひと家族(6‐8人)につき、一ヶ月100万レオン給付。
・Freetown 32箇所(Makeni 2、Lungi 2、Lunsal 2、Lakka 14、Bunbuna 15)。
・およそ3,000人の子どもたちは故郷や親もとに帰った。