フランクな関係

どたばたといろいろアクシデントが重なって結局バグダッドを出たのは12:00過ぎ。15:00からの部族長会議は完全にミスったかと思ったら、サマワに16:00前に到着。ロケは奇跡的に間に合った。まったくこの人たちは帳尻合わせの天才だ。

日本のメデイアを始め、たくさん来ていると聞いていたが、ふたを開いてみたら海外メディアは自分だけ。これって価値があるのかないのか判断つかないなあ、などとちょっと心配になったが、まあexclusiveだし、いいことだ。記録としては面白い。他はどうしていたかというと、自衛隊とオランダ軍、そして州知事との会見の方に皆ついていったそうだ。部族長会議は無視された形になってしまった。まだ、日本側から会見等に関する接触はないと言う。

ファディ(セキュリティー・オフィサー兼マネージャー)、アブドゥラ(運転手)、ディーナ(通訳)、マハシン(ディーナの兄、運転手転じてアシスタント)、そしてサマワに着いてからガイド役のウィリアムを拾って、取材チームは総勢6人の大所帯。ワンマン取材のはずなのになあ、なんでこんなに大勢なんだ?ロケが間にあったことが彼らをホッとさせていた。皆、気が合っているようで夕食もワイワイ、会話も弾んでちょっとしたツアー気分。雰囲気が良いのは実に好ましい。

先週、飯田さんと来た時は停電が1回しかなかったのに、今日は4回。サマワ市街は電気、水ともにアル・シャウベなどに比べて良い方かと印象を受けたが、やはり不安定と見るべきなのかもしれない。自衛隊が来たその日に何度も停電になるなんてまるでジョークだ。

夕食後、町で一番大きい喫茶店を見学。水パイプをふかしながら、男たちが衛星テレビを見ながら、おしゃべりする社交場だ。壁には、なぜかブルース・リーの映画のホコリで色あせたポスターが何枚も貼ってある。皆笑顔で迎えてくれるし、ものすごく友好的だ。

夜9: 00すぎ、店も数軒の飲食店しか開いていない時間帯になっても通りを安心して歩けるなんてイラクでは特殊な状況だ。ファディとアブドゥラは通りをスキップして渡ったり、少しも緊張したところがない。いい町だ。状況は変わるかもしれないから油断はできないけれど、自衛隊には一日も早くこの町の人たちとフランクな関係を築いて欲しい。そう、”フランクな関係”だ。

ただ、無防備すぎる町と市民の雰囲気に、いちまつの不安を感じないわけではない。

ホテルはどこも満杯で、一番最後にサマワ入りしたであろう自分たちは見つかっただけでもラッキーだったかもしれない。日本のようにお金を払うことなしに予約などはきかない。アパートメント型のホテルはかなりボロ。お湯は出ないし、トイレの匂いも結構気になる。それでも陥落直後のカブール、『スピンザールホテル』の幽霊が出そうな部屋よりはましか。2部屋2晩で70ドル。ちょっと高いかな。

明日、『ニュース・アイ』に電話レポートを入れることになった。リラックスした環境を作ってくれるいい枠だ。自衛隊の方は配信映像があるようなので、一方のサマワの人たちや町の様子やメディアのフィーバーぶりを伝えてほしいと言う。部族長会議や友好的な雰囲気を素直に伝えればいいと思う。原稿用意しなきゃ。

そういえば、部族長の1人が特に若者に職を与えて欲しいと言っていた。ウィリアムはオランダ軍基地で仕事を得て、明日から働くそうだ。ガイド役は終わり。大のシェークスピア好きの父がウィリアムと名付けたと言う。とても素直な性格の持ち主だったから少しさびしい気もするが、きちんとした職を得られたのは彼にとって好ましい。心からがんばって欲しいと思う。

視界が開けた

朝4時に出て、きっかり10時間。とてもリズミカルなドライブだった。ファディから借りた枕のおかげでぐっすり、9割は横になって寝ていた。

戦争後これまで気が付かなかったが、国境には両替所があった。
日記を書き始めてはきだしたからか、頭の中がとってもクリアーだ。バグダッドがなんだかこれまでと違って見える。あるいは、自分と違う人/飯田さんという視点で見てみたからか、視界が開けた感じがする。戦後イラクの「日夜続く米軍や警察への攻撃」「自爆テロ」「回復の目処の見えない治安」ということばかりに目が行き、気が付かないうちに見方が治安の一点に凝り固まってしまっていたのかもしれない。前回来た時、最後の方はストーリーが浮かばなくなってきていた。イメージがいっぱいいっぱいになり、一種の閉塞感を感じていた。「復興の兆し」を見てとることなど思いもよらなかった。

いや、その兆しは実は示されていたのかもしれない。ワリッドたちの金物街だ。あの時は、「サダム時代と比べて」→「変わっていない」と位置づけたが、誰もいなかった「戦争直後と比べて」だったら「大いに変わった」ということになる。

バグダッドの見え方/イメージが一気に突き抜けた。
今バグダッドは、実はワリッドの取材をした時期のバグダッドに似てきている。つまり、ノーマルシーを取りもどしつつある。少し楽観的すぎるかもしれないし、先行した見方かもしれないけれど、治安オンリーの見方から少し広げて人々の生活を検証してみる時期と位置づけてもいいかもしれない。まだ確信を持つまでには至らないのだが。

警察機構が整ってきたということもあるのだろうか。だとすれば、イラク人の手による治安維持が機能し始めた―というメッセージを伝える取材対象として成立する。

また、米兵を取材したいとも思う。きっと、1年前と今の兵士とでは心持ちが違うだろうし、考える余裕も出てきているのではないだろうか?恨まれている、嫌われていることをどう消化しているのだろうか?楽しいのだろうか?

取材チームの動き方をかえる必要を感じる。今こそ、ワリッドを取材した時のようなスタンダードな形が望ましい。車とドライバー(できれば英語ができるのがいい)はいつもスタンバッておく必要がある。ファディやエヤットやタラルでは他の用事があったりしてNGだ。サマワから戻ったら、滞在先もアダミヤやカラダ近辺、センターに近いところに切り替えよう。

楽観はできないし、油断は禁物。だが、もう知らない街ではないし、友人も多いし馴染んでいる。なんだか安心感と安定感がある。これが「根を張っている」ということなんだ。いい時期だ。発想と行動に自由を与えてやるべき時期なんだと思う。

朝、Breaking Newsでバグダッドの自爆事件を知る

朝、Breaking Newsでバグダッドの自爆事件を知る。ティグリス河を渡ってグリーンゾーンに行く途中、現地時間で午前7時過ぎ。いろんな意味で戻る意欲をざっくりと削ぎとってくれる出来事だ。今日一日部屋にいてこのニュースばかり聞いていた。いい加減いやになって、フランス語映画にチャンネルを合わせる。何を言っているかわからないが、静かな音楽のようでホッとする。

昨晩、アブドゥラがアンマン出発時間を変えると言ってきた。いつも夜10時とか11時に出て、バグダッドに朝9時とか10時に着くスケジュールだが、今回は朝4時に出て、午後2時か3時に着く予定にした。

悪いことは何でも関連付けて考えてしまう。今日の爆発は朝だ。もし、昨晩夜発のスケジュールだったら、直に爆発に遭遇することはなかったとしても激しい交通マヒに遭遇していたと思う。昨日アンマンを出る朝、珍しくアブドゥラが1時間遅刻してきた。米軍のチェックポイントで多くの車が止められ、入念なチェックを受けたらしい。そんなこともあって時間を変更したのかもしれないが、彼らは匂いと言うか何か警告めいたものを嗅ぎ取るのかもしれない。

夕方、栄花さんに電話するも留守。
サングラスを買いにオールドタウンへ。高台から坂を歩いて下って行った。斜面に建つ家々と坂の風景を眺めながら、なんとなくモロッコ・タンジールの街を思い出した。あれもいろいろ大変だった。日の落ちたアンマンの街、取材先で夜の街をこうしてゆっくり歩いたのは、いつぶりだろう。

ホテルのレストランで、いかにも冷凍もののパテを使ったビーフバーガーを食べた。

Report for The Big Brother in Iraq PART-2

サマワ視察報告
●サマワ概況
<バグダッドから>
車で通常は4時間弱。ただし、高速道路は米軍によって通行止めになっている区間などがあり、
迂回するため1時間ほど余計にかかる。
<ムサンナ州>
州都サマワ他8都市で構成。
<ムサンナ州知事>
ムハマド・アリ アル アブ ハッサン氏
<サマワ市長>
アル・ダファイ氏
<サマワ人口>
70~80万人

14日
●部族長訪問
[会見相手]
サディク・アブドゥル・アル・ムサウィ氏(62)

[解説]
ムサウィ氏は、サマワとその周辺にある12の部族の連合体”The Independent Iraq Gathering (「独立イラク連合」)”の議長。同団体は1991年 シーア派の蜂起後にサウジアラビアのラファ・キャンプ(イラク人難民キャンプ)で設立された。同グループは1992年9月以降、イラク国内にて活動。宗教属性はナジャフのシーア派。
<部族(長)名>
① アル・ドゥワーリン・チアド シャーラン アブアルジュン  
② アル・アブジェヤ-シュ・アリ アジャ ダーリ  
③ アル・ガニム・ヌーリ アザラ マージョン 
④ アル・ズィアド・カーディム アルファハド 
⑤ アル・アバス・マリク アブド ハシム 
⑥ アル・トバ・ムハシン アルシャーバン 
⑦ アル・チュワブ・ラヒーム ⑧アル・ムハシン・マジッド ミズィアール アルハムド 
⑨ アル・マジード・カリム ラハディ マトラブ
⑩ アル・ブラカット・カザール アル・アナド
⑪ アル・ブ ハサン・ムサ アル・アナド
⑫ バニ ズリージ・アドナン アル・ハワム

[会見内容]
・平和的で、この街の建物を造ったり、道路を造ってくれたりしにくる人たちは歓迎する。
・何日か前、日本が軍隊を送ることに反対しているという3、4人の日本人のグループが来た。彼らから、日本の軍隊が来る前にサマワの人たちにはデモなどの反対キャンペーンをして欲しいと要望される。しかし、自分たちは日本の軍隊がサマワの街をたてなおすために来ると思っているので、そのようなお願いはお断りした。
・日本の軍隊を占領軍とは思っていない。戦かったり、イラク人を傷つけるためにくる人たちではないと思っている。道路を整備したり、オフィスを造ってくれたりすることを期待している。
・治安については心配ない。日本の人たちのために、地元警察、治安部隊、必要なものはすべて用意する。
・造るのは、水の施設だけなのか?単に兵士が来るだけなら私たちには必要ない。
・戦争が終わって7ヶ月間、米軍やオランダ軍に対する攻撃はない。
・日本の会社は、いつ来るのか?
・自分たちの安全を守るという理由で兵士が来るのであれば、イラク(軍)の兵士と(イラク人も雇って)いっしょに働いてくれることを望む。(→オランダ軍は新イラク軍の訓練を行っている。)
・日本が来てくれたら本当にうれしい。
・1月20日(火)15:00より、サマワ地域12の部族の長が会合を開く予定。

●市内の様子
<市場>
生鮮食料品、日用雑貨、あらゆるものが種類、数ともに豊富。自転車店目立つ。自転車はサマワ市民の足。
<連合軍の輸送路>
クウェートからと思われる物資(石油)のトラック車列が多いときは一日中、目抜き通りを通過。
<鉄道>
サマワ駅。貨物輸送にのみ使用されているが、頻度はかなり低い。
<オランダ軍>
本部は街の中心。駐屯地は中心街から車で10分ほどの郊外“スミティ・キャンプ”。町中でもヘル
メットをかぶらずに素頭。
<ICDC>
IRAQI CIVILIAN DEFENCE CORP.(新イラク軍)。 オランダ軍によって訓練受けている。

●若者たちと夕食会
[目的]
日本が来ることについて、どんな情報をどの程度持っているのか、および地元の若者の率直な思いを聞く。

[参加者]
オディ・メジット(29)・・・未婚、無職。
アラ・ナサル(27)・・・未婚、職業は検察官。
モハナド・アリ(28)・・・未婚、技術者としてサマワ通信郵便局に勤務。
ハイダ・ラザック(35)・・・既婚、無職。政治犯として2年間投獄される。左腕前腕部に拷問痕。2002年9月恩赦で釈放。
アベット・アルラティク・ラザック(27)・・・未婚、無職。以前は新聞販売業。

[内容]
・日本の軍隊はオランダ軍やアメリカ軍のような占領軍ではないはず。
・日本の軍隊といっしょに日本の企業が来るとテレビやラジオで聞いた。
・市役所の職業課の人たちが言っている。
・日本の軍隊の中の、建物の修復や水道施設を作る部隊と、その部隊を守る(自衛する)ための
部隊が来ると聞いている。
・結婚にかかる費用は、2~3,000,000ディナール(2,000ドル前後)。
・彼らが中流と感じる生活を送るのに必要な月収は、400USドル。
・とにかく働きたい。
・(サダム時代に)大学に行って、学費を払って単位をとってきたのに、憤りを覚える。あの時のお金を返して欲しい。

15日
●サマワ新聞社訪問
[会見相手]
編集長 ナファー・アル・ファルフーリ氏(34)

[会見内容]
・日本の軍隊は、自衛のために来る軍隊である。
・日本人にはいいイメージを持っている。
・日本の軍隊が来るのは、サマワが安全だから。
・何らかの形で、お金を落としていってくれる。
・ひと月ちょっと前、ラマダン中に日本の軍隊が来ることを知った。
・サマワ/ムサンナ州にはイラク最大のコンクリート工場やソディウム塩、それに石油、ガスもある。
・町のバスケットチームが『日本の友だち』というグループを作った。州知事に日本への要望書を書いて渡した。
・テレビ、ラジオ、インターネットの設備が欲しい。特にテレビの放送機材が望まれる。
・オランダ軍と協調して6ヶ月間、8月(米軍とオランダ軍の駐留期限契約による)まで活動するのではないか。その後は米軍が受け継ぐはずだが、日本は残ると思う。
・駐屯地はサマワ郊外にあるし、砂漠地帯にあるから安全。
・サマワには多くの軍隊が来て、そしてビジネスマンもやって来られるようになる町だと思う。

●サマワ市職業安定所訪問
[会見相手]
所長 ムハマド・ナスィール・アル・フセイニ氏(65)
副所長 ナスィール・カディム・ファルフーディ氏(62)

[概況]
職業労働省管轄で、今年1月7日開設。
名前や専門などを用紙に書いて登録。同所では、どんな仕事をできる人が何人いるかを把握して要請に合わせて募集、派遣する。
1日500~600人が来所。5つある窓口には人々がごった返す。
1 月初め、駐留オランダ軍から5000ドルの寄付を受け、ビルの修繕、コンピューター3台とコピー機1台を購入。コンピューターは州政府が用意した4台と合わせて計7台。しかし、オペレーターは女性1名のみ。コンピューター技術者を養成するためイラク国外に数名を派遣している。

[会見内容]
・イラン・イラク戦争の時は、みな兵士だった。91年以降は、特に農業の仕事が盛んで雇用はあった。92年の反政府動乱の後、バース党員だけが優遇されて職を与えられるようになった。
・職種は、運転手、技術者、大工、電気技師など、何でも対応できる。
・オランダ軍は治安維持活動をする兵士たちだから、雇用機会が広がるとは期待していなかった。
・まだ日本の軍隊を見たことがないので、イメージがわかない。
・日本の軍隊が来たからといって、すぐに雇用があるとは思っていない。働き口が増えるかどうかは実際にはわからない。たとえ雇用は創り出せなくても、職業訓練センターのようなものはぜひ欲しい。
・アマラ(バスラ-サマワ間の町)にある小児科病院が日本に支援されてできたことは知っているが、日本に支援された病院があることは、知らない。
(→ 市内のユーフラテス河沿いに、86年に日本の援助で開設されたサマワ総合病院がある。一部メディアでは、対日感情が良い要因の一つとも言われている。しかし、当時のサダム独裁政権下では日本の援助によって造られたということは公表されていなかったと考えられる。一般市民は知らない可能性がある。)

●オランダ軍キャンプ・スミティおよび自衛隊宿営予定地視察
[概況]
町から車で10分ほど、サマワ駅を越えた広大な平地に位置する。自衛隊宿営予定地はほぼ隣接している。周囲に何もなく、360度見通しがきく地形。

[会見相手]
オランダ軍 ハルシンガ広報官

[会見内容]
・自衛隊とはお互い協力し合いながらうまくやっていける。
・オランダはカナダやポーランドなどと並んで平和維持活動の経験がある国。自分たちが日本側に教えてあげられることもあるし、日本側から教わるところもあるはず。それが連合軍という意味。

16日
●在バグダッド日本大使館訪問
[会見相手]
松林健一郎 1等書記官

Report for The Big Brother in Iraq PART-1

車に乗り込んだ瞬間、糊付けされた紙がばりっとはがされたような感覚が自分の中に奔った。車窓に流れるオレンジ色がかった高速道路のコンクリート壁、運転するアブドゥラの横顔、いつもと変わらない風景だ。またひとりか。助手席に座るべきだった。シートに散乱したミネラルウォーターのボトル、色が抜けたような無機質さ。一気に色気が抜けてしまっていた。・・・飯田さんは無事飛行機に乗れただろうか。まったく最後までせっかちな人だったなあ。


ことの起こりはこうだ。
12月初め、飯田さんから電話がかかってきた。懐かしいあのだみ声で「おい、イラク行くどお、連れてってやー。」帰国して間もなく、ティクリート・ルポの配信作業をしていたときだったから、まだ現実的に考えることはできなかった。

12月、クリスマスを前にして、サダムが捕まった。
この出来事はイラク戦争の余熱を急激に奪ってしまうかもしれない。アメリカへの攻撃や外国人を狙ったテロが収まるのか収まらないのか、情勢がどうなるにせよ、イラクに戻って取材を再開しなくてはならない。
その後の2,3週間は、イラクの治安に関して自分がまったく予見のできない状況が続いた。さすがにそんな状況では取材に出ることはできなかったが、理由はもうひとつあったと思う。前回米兵の襲撃現場に走って行った時のことと、そして結果的に人が亡くなったことで自分のレポートが世に出たということを自分自身が看過/消化することができなかった。

編集から放送本番まで、何度も何度もあのシーンを見る。そのうち慣れるかと思っていたけれど、慣れるどころかどんどん息苦しくなっていく。映像を見た人たちから口々に「危ない」とか「すごい」とか「怖い」といった言葉を耳にしていたが、「敵」扱いをされて銃口を向けられたことがトラウマとなっていたわけではなった。それは看過/消化できない何かの一角にすぎない。本当にトラウマとなってしまっていたのは、あの時、家族に「さよなら」をしてしまったことだった。映像を見るたびに、自分の愚かさを見せつけられた。「なぜ、『さよなら』してしまったんだ」「『さよなら』をしたなら、なぜ、おまえは生きて帰ってきたんだ」-四六時中、自分へ問いかけていた。自分に与えられた幾つかの命に対して、勝手に袖をふった罪は大きい。もうぬぐい去れないかもしれない。クリスマスの礼拝は、その罪を懺悔する機会になってしまった。懺悔するクリスマス・・・初めてのあの時以来だ。

日本の外交官2人の死に関する報道や組織の対応、日本の一般市民の反応にはやりきれなさと物足りなさと、情けない気持ちや申し訳ない気持ちがごちゃ混ぜになっていた。彼らが亡くなったことによって番組が成立したのは事実だが、考えてみれば、これまでだって戦争やなにかで誰かが亡くなっている状況の中で取材が成立し、番組が成り立ってきたことに違いはない。でも、今回は周囲の受け止め方を含めて、より身近な出来事だった。そして「日本の外交官が殺されたから」ということが番組成立理由のほとんどすべて。逆に言えば、「亡くならなければ実現しなかった」番組かもしれない。にもかかわらず、自分も含め日本のメディアが徹底的に真相を取材するわけでもない。できない理由はそれぞれあっても、そんなものはジャーナリズムには関係ない。真相究明の努力もしない番組に、故人を知る人たちが出てきて勝手な意見や気持ちを恥ずかしげもなく語る有様は醜悪そのものだった。現場取材はしないくせに、遺族には野次馬のように付きまとうカメラには吐き気さえもよおした。『クロ現』の制作現場が真摯な態度だったことはせめてもの救いだったが、それでさえ電話取材でしかない。そして自分は間違いなくその一味であり、映像が売れてお金が入ってきて助かる張本人なのだった。人の血で成り立つ生き方・・・いったいどれだけの血を流せば終わるのか?体の内も外もザラついていくのがわかった。

自衛隊派遣に関しては、残念な思いとともに政治家のばかばかしい論議に辟易していた。日米の対等な関係を標榜すべき、などと考えているのはこっちだけだ。国連主義を唱えながら、日米安保は基本と言う。現実味もないし、とても真剣に「変えよう」としているとは思えない。本当に口先だけ、軽薄なパフォーマンスに過ぎない。
サマワにはもっと興味がなかった。自衛隊が行くとなれば日本の他のメディアも行くだろうし、インデペンデント・プレスが出る幕ではないという気もしていた。日本の番組基準に寄りそうのではなく、前回までの取材をまとめ上げる必要がある。ただ、局側には外交官殺害事件とサダム拘束という出来事をへて、彼らのイラク情勢に対する興味も広がりを見せている感があったし、サマワ取材はオーダーがあれば・・・ぐらいに考えていた。売れるにこしたことはないのだから。

そんなモチベーションの低さの中で、サマワ行きを実現したのは飯田さんの“熱き思い”に他ならない。彼の立場なら、自分たちの送り出す日の丸軍隊がどんな意味を持ち、どんな環境で活動するのか、自分の目で見て、匂いをかいで、肌で感じて、的確に認識したいと願うのは自然なことだ。道理に合っている。それなら、お手伝いしなければならない。でも正直、かなり不安だった。まず、彼への手紙にはこう書いた―「私自身、始めから同業者以外をお連れすることは初めてです。イラクの一般市民の暮らしを精一杯感じていただきたいと思います一方、不安もございます。他の場所のように『ご安心ください』とは申し上げられませんが、現地では確かな人間たちが支えてくれます。いろいろ至らない点はあると存じますが、どうかお許しください。」
それから、彼の視点にまかせてサマワとイラクを見てみることが、自分にとっていい勉強になると考えたことは大きい。とにかくこれまで経験したことのない機会、自分が及ばない力でグシャグシャにされるような機会を求めていた。彼への手紙には、正直にこう書いた―「私は旅行手配を生業とさせていただいている者ではございませんし、私の所属するインデペンデント・プレスが責任を持つことができる案件でもございませんので、私の希望でご同行させていただくという心つもりでおります。」いつものように直前まで決まらない予定・・・それでも飯田さんはじっと耐えてこちらからの連絡を待っていた。けしてフリーな時間を多く取れる人ではないにもかかわらず。意思確認など細かく話していたわけではなかったけれど「この人はいっしょに行ける人だ」と確信できた。

ファディとの連絡はなかなか取れなかった。連絡役はまずアブドゥラ。彼がアンマンにいれば到着予定を伝えられるし、ファディへも連絡してくれる。でも、今回は2日前までつかまらなかった。こんな時、スラヤを持っていないファディと連絡を取るには苦労する。エヤットの自宅電話にはこちらから国際電話ができるけれど、彼も家族も英語がまったくNG。一家が無事かどうか確かめるのがやっとだ。ハイダにメールするが、新しい職場で働き、婚約者もできた多忙な彼が対応できるかどうかはわからない。ファディの会社『アリハ』に電話して、ほとんど単語状態の英語で話す。すると「彼らはスレマニアに行っている」と言うではないか。バグダッドに居るかどうか大丈夫かなあ、と思ったが何とか到着する日時を伝える。翌日深夜、ファディから電話がかかってきた。「ケーンジ、ケーンジィ、アイ・ミス・ユー」優しい声が受話器から聞こえた時、彼の頬の鬚の感触が自分の頬に甦ってきた。バグダッドへの帰還を彼は心から喜んでくれているようだった。これでまず安心だ。

成田で落ち合わせた時、飯田さんはすでに関西から列車での長旅を終えたところだった。便は限られるが、関空からドバイ経由にすれば良かったかもしれないと思う。
自分は、礼節が行き過ぎて気を使う状態になるとロクな仕事ができない性分だと自覚している。でも、14時間のフライト、パリでの長い乗り継ぎ時間を消化していく中で、自分が飯田さんに必要以上に気を使ったりしないだろうかという不安は、払拭されていった。あらためて「この人となら大丈夫だ」と確信すると同時に、「ある程度のことがあっても必ずこの視察は成功する」とイメージすることができた。

アンマンに到着。携帯電話で話すアブドゥラを見つける。元気でいてくれたことがうれしかったし、ホッとした。アンマンで動き回ろうとする飯田さんに「ここは経由地ですから。目的はこれからです」と言うと、「そうやな、目的を達するまではシンプルにやな」という答え。説明すればすぐにわかるのは彼の中に確実な測りがあるからだ。このことは今回の視察の間じゅう実感したし、たとえ状況が違っても分析して結論を導き出せる測り/軸を持っている人だと感心させられた。

栄花さんとの再会もとてもうれしかった。今回はホテル泊ということもあって、ご家族とお会いできないことが少し残念だったが、事故なく過ごしてくれていることに感謝する。飯田さんの目的と身上を説明し、帰りのアンマンで付き合ってくれるように頼んだ。抽象的な思いだが、飯田さんには栄花さんという「生き方」の一端を感じてもらいたかったし、栄花さんには飯田さんという「人」とその理屈を知ってもらいたかった。自衛隊で務めた後、フランス外人部隊に5年間在籍して今カメラマンという稲垣氏を紹介される。来る前に栄花さんから彼のことを聞いた時、事によってはいっしょに仕事ができるかなと思っていた。夜、ブリティッシュパブで4人で食事をしたが、自分の頭がいっぱいいっぱいだったこともあって、あまり実のある会話はできなかった。自分のそんな様子を、飯田さんは観察していたようだ。ただ、ひとつ興味を引いたのは、稲垣氏が一般市民の使うバスで国境を越えてバグダッドに入ると言う点。たぶん20時間近く、それ以上かかるかもしれない。どんな人たちが乗り込んでいくのかだけでもイメージは膨らむ。そして彼らの目線で、彼らの見る風景、考えること、去来する思いを道々記録していくのはとても興味深い。たとえ、バグダッドのバス停でバイバイしても、ちょっとしたストーリーになりそうな気がした。でも、翌日乗る予定のバスは出なかった。彼は GMCに切り替えた。残念・・・。

視察同行は、ある意味自分の望んだ通りだった―これまで経験したことのない機会、自分が及ばない力でグシャグシャにされるような機会―。自分を納得させるために見たいもの触りたいものを徹底的に求める飯田さんのパワーに、チームは時に引きずり回されることもあった。そして感情表現の激しいアップダウン。ファディとエヤットは困惑し、声を荒げる時も2,3度あっただろうか。でも、破綻してしまうようなことはなかった。ひとつには、一度として飯田さんがこちらを振り切って勝手をすることがなかったこと。もうひとつは、ファディが自分にしてくれたように飯田さんの要求を受け止めてくれたこと。この二つに尽きる気がする。双方ともに、異なる器の大きさを身につけていた。

飯田さんの見ていく方法は、かなり参考になった。
ひとつは、イメージが先にあって、それを事実とすり合わせていく作業。イメージが固定され、先行していると、当事者と話をした時に当然かみ合わない部分が出てくる。例えば、話合いのほとんどの時間が、相違点をあぶり出す作業とそれに換わる事実の確認に費やされる。これはかなり頭の疲れる作業だ。しかしその結果、こちらが知りたい情報はまず確保し、さらに相違点があったという事実そのものも新しい情報として価値を持ってくる。自分でもこれまでにその場その場で無意識のうちにとっていた方法かもしれないが、きちんとした取材方法論として意識して頭に入れることができた。
もうひとつは、見ていく視点をピンポイントで固定すること。取材のひとつの方法に、定点観測というものがある。飯田さんの場合、例えば「いくつも空爆跡を見ていく」というものだった。その過程で、空爆の被害よりも略奪/放火の被害の方が大きいこと、空爆のほとんどが通信施設および軍関連施設をピンポイントで行なっているということ、廃墟になった軍施設に生活する人たちが多くいること、街中で目にする戦争の傷跡は消えつつあること、建物の構造が脆弱なこと、復興がけして難しい街ではなく、やろうと思えばすぐに再建可能であることなどなど、「いくつも空爆跡を見ていく」という視点でたどって行くだけでさまざまなことが見えてきた。これまで自分はこうゆう見方をしてこなかったのではないか、とちょっとした驚きと反省めいた感覚を憶えた。定点観測で用いることができる「定点」とは、人や場所などの実像を持つものだけではないということ。いくつもある興味を精査してひとつだけに絞って見てみる作業は実に得るものが大きい。

日本大使館を探すのには右往左往した。先月、大使館は在留邦人に対して近寄らないように通達。誰もが情けないと思ったニュースだった。飯田さんも出発前に「行かないで欲しい」と言われたと聞いていたから、もしかしたら遠慮するのかな、と勝手に思い込んでいたということもある。日もだいぶ傾いてきた。なかなか大使館が見つからないことに飯田さんの苛立ちは頂点に達し、助手席のドアを殴る。エヤットは「やってられるか」と運転に覇気がなくなり、ファディは「なぜ彼は怒るんだ!」と”WHY? I just want help him. Because of friend of Kenji !”を隣で繰り返す。「おまえは興味の対象として知っとくべきやねん」と飯田さんに言われたとき、反射的に「ボクは必要ないですから」と答えた。実際に必要としていなかったし、内心「自国のジャーナリストの興味の対象にされない、必要とされない大使館の方こそ責められるべきだ」と思っていた。でも、次の瞬間には彼の言葉の方が有意義だと考えることができた。「逆に知っていて損になることはあるのか?」長く対象と付き合い、ストーリーを深めていくためには無駄な知識などあり得ないはず。「興味の対象」が少なくては、多くの生きた知識は得られない。ついに、三人と車を置き去りにして1人であたりを探し回った。誰も知らないし、違ったことを言う。万策尽きて車に戻ろうとしたとき、最後に尋ねたタクシー運転手が追いかけてきた。激しく頷く彼を信じて車に乗り込む。日本大使館は、奥まった路地の先に隠れるようにしてあった。3メートルはあろうかというコンクリートの壁に遮られて、建物はまったく見えなかった。

探す過程でいろいろな事実がわかった。日本大使館の場所をその地区の警察官ですらほぼ知らないということ。ドイツ大使館にひと気がなかったこと。各大使館がそれぞれの周辺道路を封鎖しているので、当然車両は制限され、徒歩でもかなりの回り道を強いられること。日本大使館はアメリカ大使館から100 メートルほどの近所に位置していること。米軍のパトロールが来ていたこと、などなど。

飯田さんから無駄が多いという指摘も受けた。普段、ロケではなるべく取材対象の環境やリズムを傷付けまいとして彼らの行動規範にのっとって行動するようにしている。そして、いっしょに動いてくれる人たちの能力を信頼するように心がけている。無理やり自分(のやり方)を通しても結果が得られないことを経験してきたから、その場所に入ったらそこの流れに任せる癖がついている。でも、ちょっと冷静に今の環境を考えてみると―実に居心地の良い環境で、リラックスしきっている。仕事を忘れても生きていけそうなほど。自分がファディたちに甘え、まかせっきりになりかけているかもしれない。大使館探しに自ら走ったように、自分の体を突き動かして獲りに行くことがいつも必要だ。そういう環境に常に身を置くべきなんだ。家族同然の人たちを与えてもらったからこそ、もう一度あらためて自分の役割を考える必要があるかもしれない。

買い物は愉快だった。飯田さんは、ジョマナとサファーナへかわいいピアスを買ってファディにプレゼントしてくれた。エヤットにはトルコ製の革サンダルを買って、布製の履き古したサンダルを履き替えさせた。ご機嫌のエヤット。食事は通りに面した(というか、歩道の上で)白いプラスチックテーブルとイスを並べた串焼きレストランでとった。夕暮れ時、行き交う車と人々の頭上を米軍ヘリが旋回飛行する。周囲には気を配っていたが、ぴりぴりした雰囲気は感じなかった。夕方、こんな繁華街で食事をするのは戦争後初めてだった。自分の内で何かが緩まっていく。伸びきったゴムひもが緩まってだらんとするのではなく、少し緩めたために弾力が豊かに増した―そんな感覚。

最後の夜、インターネット・カフェにて。飯田さんの長女からのメールを見て、こみ上げてくるものがあった。アフガニスタンに行った時には、父の様子を聞いてくれる人もいたけれど、今回は誰からも尋ねられないという。「行き先が行き先だけに、下手にいじれない(聞けない)のでしょうか・・・。」という一文に、勝手な父を送り出した後の留守を預かる彼女の苦労と孤独、周囲への失望や疑問が込められているように思えてならなかった。ご家族のもとまで、飯田さんのあしをどうかお守りください・・・。

最終日ずっと考えていたのだが、飯田さんを送りにアンマンまで行くことにした。時間がタイトなこともあったし、なにより栄花さんと交わる機会をきちんとセッティングしたいと思ったからだ。ファディに話すと”I know you, Kenji. When you told me about Iida, I know you go with him.” 今のイラクにおいて、身の危険に会うのは確率の問題でもある。アリババに遭う危険の高い行き来はなるべく少なくすべきだ。その後のロケスケジュールを考えると腰と背中の疲労にも不安があった。信頼できるドライバーと友人もいるし、任せても良かったのかもしれない。でも、どうしても1人で行かせることはできなかった。“兄弟”と認めた人の道中に最後まで徹底的に付き合うこと、時には自分の身を削ってでもそばにいること、それがどれだけその人を安心させ、その家族を安心させることか―これはファディが自分に教えてくれた、言葉には言い表せないほど尊い輝きを持った隣人愛だ。ファディの気持ちを理解できる機会を与えてくれた飯田さんに感謝したい。

栄花さんに日記を書くと約束したのに、めまぐるしい時間と疲れのために最初の1日しか日記が書けなかったなあ、トホホホホ。

【視察同行日程】
13日(火) 10:30 バグダッド着
13:00 スラヤ購入
15:00 グリーンゾーン視察
17:00 インターネット・カフェにて通信
バグダッド泊(市民宅)
14日(水) 08:00 バグダッド発→12:00 サマワ着
サマワ視察/取材>
14:00 部族長と会見
15:30 市場等市内視察
19:00 地元若者と懇親会
サマワ泊(ホテル)
15日(木) サマワ視察/取材>
09:00 サマワ新聞社編集長と会見
10:30 職業安定所視察、所長らと会見
12:00 オランダ軍キャンプ・スミティおよび自衛隊宿営予定地視察
13:00 サマワ発→18:00 バグダッド着
バグダッド泊(市民宅)
16日(金) バグダッド視察/取材>
09:30‐大統領宮殿、米軍駐屯地等々、市内空爆跡数々視察
16:00 日本大使館訪問
17:00 アダミヤ地区界隈にてショッピング
17:30 レストランにて夕食
18:30 インターネット・カフェにて通信
バグダッド泊(市民宅)
17日(土) 06:30 バグダッド発→16:30 アンマン着
18日(日) 01:25 飯田さんアンマン発

ひとまず

Day-19 & to be continued.
家を朝3時半に出た。
イードの夜だというのに、昨晩も爆発音や機関銃の音とヘリの音が聞こえていた。途切れ途切れ単発で古臭い湿った銃声はおそらくお祝いの空砲だったのだろうな。

朝靄がかかっている。真っ暗で誰もいない通りをアメリカ軍がパトロールしている。いつも2台一組。前科があるだけに、間違って撃たれたらタマランな、と思う。ヨルダンで休暇を過ごそうというイラク人一行3人をマンスール地区の自宅で拾い、4時半に出発した。

全体を通して、こんなに治安が悪い悪いと言いながらアメリカ軍のパトロールや検問の規模は印象としては小さい。

ボーダーまでぴったり5時間。入国手続きに1時間。ヨルダンボーダーから3時間半。ヨルダン側の道は起伏があって、これが結構疲れる。前回と違い、出入国にはまったくストレスを感じなかった。予想外、めったにないことだ。

ドライバーはアブドゥラの腹違いの兄、ウィサン。ARIHAの最古参ドライバーの1人。一定のスピード、等間隔に取る休憩、ブレーキング、車線変更、ムダ口もなし・・・実に安定していて飛行機に乗っているみたいだ。頼れる会社だ。ファディに感謝。

深夜1時過ぎにフライトがあると思うのだけれど、ヨルダンはイード初日でほとんど休みだろうし、いつものように空港に行ってみないとわからないと思う。

今回は、別れが本当に惜しかった。精神的にも、肉体的にももっと居ることはできたし、取材するイシューもまだあったと思う。今までの「とりあえず終わったー」という感覚はほとんどない。ちょっとここまでの仕事をまとめにしばらく留守にする、というぐらいの感覚だ。それだけ環境に馴染んだということなのかもしれない。

現在進行形で歴史上重大な「占領下の生活」を見る、記録するというのは、仕事としても自分にとっても間違いなく意義がある。太平洋戦争後の日本は自分にとって過去のことで、これまでは実感するのは難しかったけれど、この取材が、独裁政権崩壊から占領という過去の出来事やこれから起こるかもしれない同じような出来事を実像としてとらえていくことに、必ず活きてくるはずだ。

今回は、「戦争直後」-「進行形の占領下」-「その後」の3部作のうちの第2部という位置付けのように思う。今回は全てのストーリーが連関しているし、きちんとまとめて形にできるはずだけれど、実はすごく難しい作業で簡単じゃない。今回NHKはセカンダリーだ。彼らの興味はここには無いと思う。小柳に相談するか?日本人と組んでBBCや2、アル-ジャジーラやパースペクティブのスタイルに合うのか?フォーマットをどうするか?頭の中がグルグルグルグル。

イード

Day-18
風ひとつない穏やかな日。静かな湖面に小石を投げ込むとポチャンと音がして水紋が広がっていく。水紋はやがて消え、また静かな湖面にもどる。大きな石を投げ込むとドボンという音がして大きな水紋がさっきよりも遠くへ広がっていく。それもやがて消える。どんなに大きな水紋も時間が経てば消えるということは誰もが知っている。でも、水紋が消えないうちにまた石を投げ込むと、バシャンという濁った音がして真円を描いていた水紋はぶつかり合い、乱れ、規則性を失う。さらに、次々と石を投げ込むと湖面は激しく波打って静けさは見る影もなくなる。静かな湖面を眺めていた人たちは、最初は一筋の水紋の広がりを眺めていたが、そのうち1人2人と去っていく。

朝、身支度をしていたら、そんなイメージが頭に浮かんだ。

今日アンマンへ撤収予定だったが、ドライバーのアブドゥラの都合で明日の午後になった。13:00に出ると同日の夜遅くに着く。もしかしたら、時間によったらそのまま空港かな。帰りはいつもこんなふうだ。

今回は、途中でテープの補給を受けた。東京からアンマンの栄花さんへDHL、栄花さんからアブドゥラが受け取ってアンマンからバグダッドまで運んでくれた。週に平均3~4往復するこのGMC陸送便はどんな方法よりも安全で確実だ。一部始終はファディが管理してくれる。こうした確実なロジシステムがフレキシブルに活用できるのは後方支援を必要とするロケには大きい。

ファディの会社はダマスカス-アンマン-バグダッド-西岸-ベイルートを網羅する陸送網だ。みんなファミリーだし、どこで何が起こっているかもモバイルで常に把握している。協力してもらえば、いろいろなことに活かせると思う。

なんと今日ラマダンが明けた。イードだ。シーア派はスンニ派よりも一日遅れ、明日ラマダン明け。さすがにラマダン明け当日に強盗は出ないだろうと考えていたし、もう少し居てもいいように思うけれど、今が撤収時だと思う。

午前中、家族は起きてくると、それぞれキスをしてラマダン明けイードをお祝いする。この場に居合わせることができて良かった。こんな普通の幸せを与えてもらったことに心から感謝したい。

昼頃、爆発音。後のニュースでバグダッド、バクバ、キルクークの3箇所でTNT爆弾テロがあったことを知る。映像は、現場検証する米軍の様子を遠目から撮ったもの。バグダッドはアル-シャウベの近く。

イラク人と言うとき

Day-17
今、22:00ちょうど。20分ほど前から、銃声がするなあと思っていたら、マシンガンとカラシニコフ(だと思う)が交互に撃ち合う音に変わってきた。どんどん激しくなっている。明らかに米軍が誰かと交戦している音だ。撮りに行きたい。でも、どこかわからないし、夜だし、停電とあっては現場に辿り着けたとしてもあまりに危ない。撮ってどうする、etc…行かなきゃ、でも無理だろ、などと考えていると状況がわからないだけにだんだんドキドキしてきた。

22:10 銃撃戦の音がおさまった。
と思ったら、小規模の爆発音。外に出て見るが、空も辺りも真っ暗で何も見えない。
22:15 音がしばらく止んでいる。終わったのか?

戦闘の様子を撮るには米軍と動かないとダメだと思う。ただ、それが何を伝えるシークエンスになるのか、意味を持たせていかないとただ散漫な画になるだけだ。

戦闘は本当に散発的で局地的だと思う。例えば、ファディの一家はいま衛星テレビを見ながら、トランプでもしているし、表通りの夜市はラマダン明けのイードを祝う準備の買い物客で23:00ぐらいまで賑わっている。

一見、普段は戦闘と日常生活は隔絶されているかのように思える。でもそれは錯覚だ。一般市民は、自分が狙われることはないかもしれないけれど自分の生活範囲においていつでも突然巻き込まれる可能性がある。

戦闘と日常は表裏一体で常に混在し、あっという間にまき沿いになって死んだり、怪我をする-それを望もうが望むまいが、ここに住んでいる以上「まき沿いになる」ことを拒否することはできない。

国連やアメリカ軍のもとで働く人たちが「標的にされる」のとは少し違う。「標的にされる」のは何かしら理由が見つけられるが、「まき沿いになる」のは理由が見つけられない。ただ単にそこにいたからだ。「まき沿いになって死んだり、怪我することを覚悟して日常生活を送ってください」と、誰がここの人たちに言うことができるだろうか?

「気をつけて下さい」と言うことさえ、意味を成さない。いったい何をどう気をつけろ、と言うのか?こうしたとり止めのない問いが繰り返される・・・これが、占領下の治安の悪さというものなのか……。

逆に、「アメリカ軍の占領下=強盗や殺人が多い」という論法は成り立たない。治安の悪さに2つの側面があることを今回の素材を通して表現しなくてはならない。

① 軍事占領下ならではの危険・・・アメリカ軍と市民のボーダーレス状況。間違って撃たれたり(→ジョマナ・ケース)、むやみに逮捕されたり(→地雷犯人探し)、アメリカ軍への直接攻撃やアメリカ軍による軍事作戦に巻き込まれる恐れ(→TIKRIT襲撃)。アメリカ軍が狙われて、イラク市民はまき沿い。

②支配者を失った戦後の混迷社会ならではの危険・・・a)反米、復讐を目的とした一般イラク人に対する犯罪(→警察署爆破テロ、エヤットのケース)。b)脆弱な警察力による一般犯罪(強盗、殺人など)の横行。②は狙われるのもまき沿いをくうのもイラク市民。

いけるかなあ。やっぱりこの辺でまとめてみたい。
朝食を取っていたら、隣の親戚が「ベイダの学校の隣に、男が爆弾を持って車の中にいる」と伝えにきた。すぐに出かけた。大通りに出ると、群集が同じ方向に動いている。Uターンする車で動かなくなると、ファディが”You can go.”と言ったので降りた。

走り始めた時、彼が”Be careful, Kenji!”と言ったのが聞こえた。これまで危険は避ける方だった彼が、送り出してくれた。彼はこの仕事、後藤健二という人間を理解してくれたんだとその瞬間わかった。彼との関係は今回の取材で大きく変わった。

警察が男の身分証明書を確認している。男は苦笑いしている。状況がつかめなくてわけがわからない。爆発するかも知れないのに子どもたちは群がっているし、何やってんだこの子たちは。

結局、1時間以上ぽつんと止まっていた車を不信に思った住民が警察に通報したということだったらしい。とんだ朝のテロ騒ぎだった。それにしても、第一報はメチャメチャだったな。現場はベイダの学校の隣でもなかったし。こういうのはニュースでも良くあるよな。バグダッドホテルがテロにあった時のBBCの第一報を思い出した。

ユースフィーア近くにある戦車や機関砲など重火器が捨ててある広大な廃棄物処理場をロケ。
“The mass grave for arms.”

道中、ファディがTIKRIT取材の前に遺言を書いたことを話し出した。アシュワックに渡したら、彼女は怒っていたらしい。彼女を始め、ファディ一家に本当に申し訳なく思う。彼は自分が生まれて初めて遺言なるものを書いたと言う。彼の中でも何かが変わったのかもしれない。

家族の話もし始めた。どの家庭にも悩みはあるんだなと思うけれど、なんだか耳が痛い。

タラルの店ロケ。イードのイブで学校休み。客少ない。

サハドシュハダにワリッド親子を訪ねる。彼らの経済状況をもう少し詳しく知りたかった。

おじはこの前に増してホクホク顔だった。注文が多くて忙しいらしい。「話に交ざれずにすまない」と恐縮していたが、とってもいいことだ。

エヤット自宅と家族雑観撮影。彼らがけして豊かではない庶民だという説明の画だ。昨日脅迫状めいたものを受け取ったと言うので見せてもらった。連合軍に協力するな、すれば殺す、といった内容だ。

ハニン写真入手。婚約のことを聞いても無口な彼女。ディーナが「婚約者と何か気まずいこと、もしかしたら解消したのかも」などと冗談まじりに言う。

自宅にてファディ・インタ。
今回はイラクに長年住んできたパレスチナ人として、イラク人のアイデンティティ、占領、自分にとってのイラクという国、について話を聞いた。パレスチナ-クウェート-イラクと、戦争と占領に追い回されてきた彼と家族の背景を思うと、友人としてはこみ上げてくるものがある。

自分もこれまでそうだったのだが、よくイラクの話を取り上げる時に「イラク人」という範疇にパレスチナ人を含めないで見る傾向がある。イラクは多様で個性的な部族、宗教、地縁で構成されている社会だ。さらに、クルド人、パレスチナ人などの人種という要素もある。イラク社会の本当の姿を理解しようとするなら、まず全ての要素を並列に見てみる必要がある。その上で、どこにより深い「断層」があるのか、見えてくるのではないだろうか。

戦争後、イラク人によるパレスチナ人やシリア人に対する暴行が相次いだということも聞いた。テロで殺されたシーア派指導者(バクル・ハキムと言ったっけ?)が、「パレスチナ人をパージせよ」という説教をしたと言う。内容そのものが正しいかは確かめようがないけれど、少なくともファディたちパレスチナ人が以前よりもイラク人の鋭い視線を感じるようになっていることだけは確かだ。自分を取り巻く環境-周囲のパワーバランスが微妙に変わってきたことを感じ取っているようだ。彼は真剣にヨルダンへの引越しを考えているかもしれない。

昨日、ラマディで警察署爆破テロ。大きかったようだ。

後ろ手に

Day-16
ここでの生活が快適になってきた。環境に馴染んでしまった。つまりアメリカの占領下にある日常生活に慣れて、ここで生活する人になっている。こうして境界線がなくなってきてから見えてくることもきっとあると思う一方で、誰に何を何のために伝えるのか、という基本的な立場の違いを見失いそうになる。ジャーナリストは自分の国籍や人種を意識せずにはできない部分もあるので、ここの住民になったと自分を安易に肯定してはいけない。ただ、この国の日常をいろいろ見て感じて今までよりはるかに取材対象に馴染んでいる。自分にとっては良い経験だと思うし、正しいステップのはず。

素材が揃ってきたし、ストーリーも消化してきた。これ以上、何が必要でどんなストーリーがとらえられるのか、浮かばなくなってきている。貯めたものを一回吐き出してみる時が来ているのかも知れない。撤収時期だ。

ダーワ党の活動を取材。先日よりはみなさんの目つきが優しかった。警戒を解いてくれたのかな。

簡単な職安機能と新聞発行部門がある。新聞上には「ブラック・ファイル」というコーナーがあり、フセインの親派だった学者や知識人などを紹介して読者にパージを呼びかけている。弾圧されたシーアの人たちからすれば当り前のことかもしれないが、こうしたフセイン親派バース党狩りが他の人たちにシーア派への恐怖心を与えている感は否めない。フセイン時代は普通の小学校の先生だって1人残らずバース党員であったわけだから。

案内してくれた事務方トップは、護身用に拳銃を携帯していた。それを隠そうとする態度が気になった。表面ではシーア、スンニ他全てのイラク人の連帯をポリシーに掲げておきながら、一方で見えない後ろ手に武器を隠し持っている。「この人は殺されることがそんなに怖いのか」そう思うと同時に「この人は平気でだますのだろうな」と思ってしまう。相手を信用しない人物が、相手から信用されることは難しい。基本的なことだと思わないのか?

夜、タラルにいつ頃この国にシーア派とスンニ派の間に溝ができたのか?聞いた。タラルはバグダッド生まれのクルド人だが、親戚のほとんどはスレイマニアに住んでいる。彼に、タラバー二を支持するか?と聞いた。答えは「ノー」。選挙に行くつもりもないと言う。フセイン大統領の信任選挙にも投票に行かなかった。その時は脅されたらしい。

フセイン前→フセイン誕生→イラン・イラク戦争→フセイン後を生きてきたタラルの話は興味深く、取材で得た視点や知識に深みを与えてくれる。

テロのこと知ってるのか?

Day-15
今日はほとんど撮影なし。
前回病院で出会ったハナンの実家をハイダを連れ添ってファディと3人で再訪した。クラスター爆弾の不発弾で左足を失った少女の姿にはたくさんの人たちの心をうった。撮影はしなくても、彼女が今どうしているのかを知る必要があると思っていた。

ハナンの実家はバグダッドから1時間、ユースフィーアという小さな町だ。見覚えのある田園風景。戦争中、バグダッドに進軍する米軍に破壊された大きなイラク軍基地もそのままだ。地元の警察官が検問をしていた。

ハナンの実家に着いた。ハナンがいた。当時、エレベーターが使えずに4階のハナンの病室まで階段をのぼって行かなくてはならなかったが、見舞いにきた祖母は息切れをおこした。その祖母といっしょに家の前に座っていた。半年でもこんなに成長するものかと思ってびっくり。

すっきりとした穏やかな表情をしている。あの時は顔がむくんでいたのか、などと思い出す。取材後、半月後に左足と裂けたお腹の手術をしたそうだ。左足には軽く包帯が巻かれているが、痛みはないと言う。痛みはないが、食べたものをもどす時があるようだ。ハナンのおじで養父のサードは留守だった。今はバグダッドでタクシードライバーをやっているそうだ。サードのお兄さんが寝起きの顔で出てきて、強く握手して、あいさつのキスを交わす。

ハナンは木の棒を杖にしてピョンピョンと小走りする。松葉杖は持っているが、使わなくなったらしい。リムは?と聞くと以前は病院に聞くなどして手に入れることもできたが、今は扱ってもらえる場所がないと言う。

ジョマナの学校と同じように、この辺の学校も修復されて再開したが治安が悪いためにもと通りに子どもたちが戻るまでには至っていない。ハナンはまだ学校へは行っていない。おじは、行けるようになったら行かせたいと言っていた。学校に行こうと思えば、リムは必要になるだろう。もう少しして傷口が落ちつけばリムが付けられるようになる。作るのにいくらぐらいかかるのだろうか?

おじたちとの話しは面白かった。前回は駆け足の取材だったし、イラクという国、民族の知識も乏しかったからあまり話しができなかった。まず、この辺のクラスター爆弾の処理は8月ぐらいに行なわれたそうだ。彼らはCPAと言っていたが不発弾処理は米軍そのものではなくCPAの管轄なのだろうか?その後は事故もないと言う。これは良かった。でも、他の地域と同様CPAや米軍、警察を狙ったテロ攻撃は絶えないらしく、強盗も多い。羊に爆弾をつけたケースもあったと言う。

彼らは初め、アメリカというものに対して知識もないいわば初対面だったが、この6ヶ月間でアメリカに対するイメージはどんどん悪い方向に固定化されている。前回の取材でハナンのおじたちは「どちらとも言えない」派だったが「口先だけのアメリカより、実行を伴ったフセインの方が良かった」に変わっていたのは象徴的だ。

彼らはファルージャ出身のアシューラ(部族)だった。ファルージャは外の人間が入ってきて支配することに激しく抵抗する部族性と土地柄だそうだ。その志向はイラクの他のアシューラよりもずっと強いと言う。アメリカ軍のファルージャにおける最初の蛮行が住民の激しい反感をかった。

現在、アメリカ軍はファルージャ中心部には米軍基地をおかず、周辺に留まっている。中に入れば攻撃されるからだ。おじが「ムジャヒディーン」という言葉を使った。ファルージャで米軍に攻撃をしかけているのは、「サダム・ロイヤリスト」だからというよりはむしろ「聖戦」という性格が強い。この辺はTIKRITとは少しことなっているように思う。こうした細かいズレを認識できただけでも有意義だ。彼らに「ファルージャに行こうと思っていたんだけど・・・」と言うと「薦めない」と言われてしまった。今回ファルージャはNGとなったが、この結果は良かったのかもしれない。次回ファルージャに行くとしたら、彼らに指南してもらえばいい。

あいさつをして様子を見たら帰る予定だったが、お昼までごちそうになってしまった。前回もそうだったが、ハナンの家の自家製パンは粗挽きの麦粉を使っていて香ばしくて実においしい。

別れが惜しい。帰り道、ハナンとワリッドの2人ぐらい、自分が何とかしてあげられないかと思ったりする。でも、彼らの人生に踏込みすぎだろうか……などと考えたりいろいろ。

今朝、パレスチナホテル、シェラトンと石油省がテロにあった。石油省が攻撃されたのは初めて。ロバの馬車からRPGが発射されたそうだ。犯人は捕まったのだろうか。こちらはのんきなものだ。

2 日ほど前、中心街を通りがかった時、上空を飛んでいたアパッチが上空を低空でゆっくり旋回しながら明らかに肉眼で何かを探している様子だったので、このあたりで何かあるんじゃないか、と漠然と感じていた。常時戦闘態勢なのだからテロに対する正規のパトロールなのかもしれない。一方でこう思った。攻撃予告なのか、タレコミかわからないがテロの事前情報を彼らは何らかの形で受け取っているのではないだろうか?もちろん推測の域を出ないが、自分がこうした疑いを持つのだから毎日ここで生活して見ていればアメリカ陰謀説を真剣に信じる人たちが出てきても不思議ではない。

ハイダは西欧型の志向を持っている人間だが、毎日CPA関連の機関がある”Green Zone”で働くうちにイラク評議会やCPAのスタッフたちが何もしていないと感じるようになっている。CPAはもっとできるはず、と感じている。彼が言うには、米軍でさえCPAを能無し扱いしているという。実際にはいろいろやっているのかもしれないし、「やっている」と言うだろう。でも、ハイダのように人の意見や考えを思慮深く聞いて、勉強熱心な人間から失望されているのが実情だ。

書き忘れていた。3日ほど前、ジョマナがユニセフマークの入ったビニール袋を持ち帰ってきた。学校にユニセフが来て配ったのだ。それは良かった。中味はクレヨン、ノート2冊、鉛筆、鉛筆削り、消しゴム、定規、子ども用ハサミ。でも、これらはその辺でも買える。今、先生、親、子どもたちが望んでいるのは一にも二にも新しい教科書だ。内容もいつもと比べると貧しい。ユニセフも本隊がいない中で精一杯だったのではないか。よくやったと思うし、本当に小さいことだけれど信頼を得ていくために今できることを示し続けるというのはきっと後に繋がる。