シエラレオネでは今、ストリート・チルドレンが急増して社会問題化している。
戦争後、武装解除の段階がひと通り終了した後、浮き彫りになってきた。
子どもたちが路上生活をするに至った経緯はそれぞれだが、シエラレオネの経済的復興が遅々として進まない中で、激しい貧困問題とも大いにリンクしている。
こうした中で、今回は路上で暮らす子どもたちの中で、兵士をしていた子どもたちに焦点を当てる。身寄りがなくて家に帰れない、あるいは家族や地域から受け入れられないといった状況の中で、路上で暮らすようになった子どもたちを探す。
ストリート・チルドレンに関する実態調査などはまだ行なわれておらず、データもない。支援活動を展開するNGOもわずかで、きちんとフィールド活動に取り組んでいるところは2,3の団体しかない。ユニセフを中心に、ようやくNGO間で情報交換や連絡会議を持つようになってきたというところ。
その中で、「ドン・ボスコ」と「GOAL」は二大双璧であり、たいへん信頼のおけるNGOだ。彼らの持っている情報は、この国のストリート・チルドレンの実態を理解させてくれると思う。
[DON BOSCO]
話: Mr. Momoh Kargbo(ヘッド・ソーシャルワーカー)
・ストリートチルドレンをケアするイタリア系NGO。歴史は長く、1996年以来シエラレオネで活動する。ボーやケネマにもケアセンターあり。
・年長の少年や青年たちには、2年間の職業訓練が受けられる施設有り(Dworzark地区)。
・ケアセンターには、18歳未満の子どもたち65人が寝泊りする。日中だけ来る子どもたちは1日60-70人程度。
・センターでの活動内容は主に三つ-
①学校に行かない子どもたち対象に午前中授業を行なうNon Formal Educational Program。
②遊びやスポーツをコーディネート。サッカーやバスケットボール、ビデオ鑑賞など。
③子どもたちの家庭訪問
・子どもたち一人一人をインタビューして履歴ファイルを作っている。
・家庭訪問では、なぜ家出をしたか、確かめるが親は認めないケースが多い。
・基本的には、センターでは9ヶ月間子どもを預かり、その後は家庭に戻すようにしている。
・家に帰した子どもたちは再び問題を起こす危険性を判断してランク付けし、保護観察の目安に。
<危険度・高>親が共働きや子どもが家に一人にされる場合・・・毎週家庭訪問。
<危険度・中>家庭になんらかの問題がある場合・・・2週間に一回。
<危険度・低>問題なし・・・月に一回。
・元子ども兵士だった場合、周囲がどう扱っていいのかわからない場合もあるため、学校と家庭を訪問し、少なくとも30分は子どもたちの話し相手になる。
・ストリートチルドレンのうち、どの程度が元子ども兵士か、あるいは体にそのしるしがあるかは、調査項目にしていないためわからない(そうした調査は行われていない)が、感触として5-10%程度。
・視察-ストリートチルドレンの溜まり場スラム街夜間-
ソーシャルワーカーたちは夜中12時過ぎからスラム街のパトロールを始め、子どもたちを保護する。フリータウンのスラム街は海に面した港湾地区に広がる。たちこめるマリファナやハシシの臭い。ストリートチルドレンのほとんどが麻薬をやっている。
<ポイント>
・KIMGIMI MARKET (火・木・土)
・GOVERNMENT WARF
・GROUNDNOT MARKET (バスターミナル)
・KOLBOYA (ギニアへの船着場)
・SAMI ABACHA St. (市場)
スラムのコミュニティーの中に、Youth groupという青年団のようなものがあり、ソーシャルワーカーたちとネットワークしている。地域の美化活動やストリートチルドレンの寝泊りを監視指導したり、犯罪防止に一役かっている模様。
・MALAMAHTONIANS YOUTH ORGANIZATION
[GOAL]
話: Mr. Sullay B. Sesay (Program Manager)
・ストリートチルドレンのケア。
・ストリートチルドレンの中に元子ども兵士はいることは確かだが、正確な数はわからない。
・少年ギャング団があり、犯罪に関わっている。特に、麻薬がはびこる。
・様々な理由から家出した子どもたちがストリートで暮らす。
・元RUFの子ども兵士だった19歳の青年のケース・・・
戦争中に使っていた麻薬の中毒から今でも抜けられない。「人を殺したい」と思う。
・コミュニティは今でも彼らを受け入れていない。表面では受け入れようとするが、心の底ではまだ受け入れていない。
・RUFの若い兵士の多くはいまだにフリータウンにおり、犯罪に関わるケースがあとを絶たない。
・例えば、元子ども兵士たちは復帰施設などで職業訓練を修了すると仕事道具を受け取る。そして社会に出て行くが、仕事が見つけられないためにもらった仕事道具を売ってしまう。そうした就業環境の難しさが現実問題としてある。
・GOALでは、フリータウンとケネマにシェルターと職業訓練所を運営している。
・体に”RUF”などの刺青やサインを持っている少年はいる。また、それを自分で消した子どももいる。その痕は残っている。
作成者アーカイブ: Kenji Goto
子ども兵士を探して (2)
ユニセフのシエラレオネ事務所の根本さんには本当にお世話になった。
華奢な感じの男性だが、フィールドが好きと言う言葉通りに真っ黒になっていた。独自の調査に力をいれ、積極的に情報発信して行こうという姿勢がいい。彼のような人がいると、メディアと人道援助機関との効果的な協力関係が作りやすい。すなわち、質の高い現場近況が一般の人たちに届きやすくなるということだ。
話を聞かせてもらったのは、チャイルド・プロテクション・オフィサーのドナルド・ロバートショウ氏。NGO出身のロバートショウ氏は、シエラレオネで子どもたちの状況をを10年見てきたベテランだ。
<取材メモ>
・性的虐待(Sexual Abuse)と、ストリートチルドレンの問題は、戦前までシエラレオネの人たちの意識の中にはなかった問題で、戦後に認識されるようになった。その数もケースも報告されていない。
・戦争中のレイプ行為が、現在の性的虐待の根っこ。また、戦争中の麻薬中毒が、多くのストリートチルドレンを生んだ。
・支援は国際NGOを通すとコストが高くつくし、受益者の数にも限りがある。一方、地元政府による事業だと廉価で、しかも全国に及ぶことができる。多少の汚職や横流しがあっても、戦後復興段階の今は地元政府に資金援助して彼らにやってもらう方が効果は高い。
・とはいえ、シエラレオネは政府予算の60%がIMFや世銀の資金援助から成るという現実。
・リベリアやアフガニスタンに比べると、シエラレオネの方が戦後の国の再統合(reintegration)は進んでいる。中央政府のプレゼンスが全国に及んでいて環境は良い。
・復興期間は10年ぐらい
・シエラレオネ社会は、ごく少数の政治エリート、少数の中流層、大多数の貧困層からなる。
・機会と資源はいっぱいあるので、政治分野の発展を進めていけば未来は明るい。
・ユニセフとNGOの調査では、ストリートチルドレンは全国5都市で3,000人と推定。
・麻薬乱用を防ぐ予防的支援プロジェクトは望まれる。
・いろんなカテゴリーの人たちに、“How are you affected by war?”と尋ねたとすると、”War”という言葉にはほとんどの人が「戦争は終わった」と答える。「戦争の前と今とあなたの暮らしで何が変わったか?直接の影響は何か?」と聞いてみたら、シエラレオネの戦争が何だったのか、それによって人々の暮らしがどう変わったかを知る手がかりになるのでは。
・少年犯罪急増(警察への確認必要だが、統計がないと思われる)
・特別法廷・・・2004年7月から、15歳以上で「重大な責任を負う人物」対象。
メディアセクション有り、審議の様子は撮影可能、訴追されている12人への取材はNG。
The Special Court for Sierra Leone www.sc-sl.org
子ども兵士をさがして (1)
東京、表参道。
シエラレオネから戻って、ようやく時差ぼけも解消しつつある。
今日から、今回取材したものを連載していこうと思った。
子ども兵士について。人によっては、少年兵と言った方が耳に馴染みがあるかもしれない。
シエラレオネで初めて子ども兵士の問題にふれたのは2000年6月。その取材記録はNHKのETV特集『断ち切られた家族』という番組になった。反政府軍に手足を切られた人たちとの衝撃的な出会いにふるえ、「藪の殺し屋」と恐れられた一人の元子ども兵士の痛ましい体験に、どうしようもないやるせなさが残った。以来、子ども兵士の問題はいつも自分の視野の中にあった。
今回は、NHKスペシャルのための取材の一貫となる。リサーチ作業自体は2004年11月から始まっていたが、現地取材は昨年12月と今年4月。12月は、今回ロケの下取材というかっこうになった。
<取材先リスト>
○在シエラレオネ日本総領事
Mr. Kishore Shankerdas
e-mail: [email protected]
Add: 82/88 Kissy Dockyard P. O. Box 369 Freetown, Sierra Leone
Tel: 226768
Fax: 229203
*非常に多忙の方、秘書に連絡しておけば問題なし。
○ユニセフ
Mr. Aboubacry Tall (Rep.)
Mr. Donald Robertshaw (Child Protection Officer)
e-mail: [email protected]
Mr. Mioh Nemoto (Child Protection Field Officer)
e-mail: [email protected]
*ユニセフ関係者インタビューのアレンジ。NGOの情報を統括。
Add: Govt. Central Med. Stores Compound
Jomo Kenyatta Road P. O. Box 221, New England, Freetown
Tel: 022-226825 / 235739 / 241422
Fax: 022-235059
○元RUF兵士、カマジョー兵士など人探しおよび協力
Mr. Christian Lawrence
“CAMPAIGN FOR GOOD GOVERNANCE (CGG)”
e-mail: [email protected]
[email protected]
Add: 11A Old Railway Line, Tengbeh Town P. O. Box 1437, Freetown
Tel: 235623 / 235626
Fax: 235642
Ms. Zainab Hawa Bangura
“THE NATIONAL ACCOUNTABILITY GROUP (NAG)”
Add: (atDundas Street)
○元子ども兵士関連
–ストリートチルドレン–
NGO “GOAL”
Mr. Peter C. A. Middlemiss (Country Director)
e-mail: [email protected]
Mr. Sullay B. Sesay (Program Manager)
e-mail: [email protected]
*現場担当者、元子ども兵士の今の状況に非常に詳しい。取材協力、元子ども兵士探し
Add: 51 Siaka Stevens Street, Freetown
NGO “Don Bosco”
Fr. John Thompson
Ms. Joanna Balzano
Mr. Momoh Kargbo (Head social worker)
*現場責任者はヘッド・ソーシャルワーカー。取材協力、元子ども兵士探しOK
Add: 37 Fort Street, Freetown
–女子、戦争に巻き込まれた子ども一般–
NGO “COOPI”
Ms. Antonella Lamorte
e-mail: [email protected]
Add: 59 Spur Road, Freetown
Tel: 022-233511 / 235274
*女子支援、リベリアで活動開始。戦争に巻き込まれた子どもの復帰支援、親探しなども行なう。
–アンプティおよび子ども支援–
NGO “HANDICAP INTERNATIONAL”
Ms. Cathy Berti
e-mail: [email protected]
Add: 43A Freetown Road, Lumley, Freetown
Tel: 022-230522
*手足を失くした人たちのリム作りとリハビリ。
施設 ”St. MICHAEL’S CENTER”
Mr. Berton Giuseppe
e-mail: [email protected]
[email protected]
Add:LakkaBeach
NGO “FAMILY HOMES MOVEMENT (FHM)”
Mr. Harry A. Kpange (St. Michael’s Center)
Mr. Augustine Kapindi (St. Michael’s Center)
Mr. Paul Kamara (FHM Kissy town, Assistant Programme Manager)
e-mail: [email protected]
*St. MICHAEL’S CENTERの母体。グループホームの運営。取材協力OK.
元子ども兵士ムリアとシャクーのその後を調査。
–元子ども兵士–
NGO “LIFE LINE DEVELOPMENT ORGANIZATION”
www.lifelinenetwork.org
Richard Cole (Rep.)
e-mail: [email protected]
Mr. Emmanuel Freeman (Deputy)
e-mail: [email protected]
Festus Davies (Director)
e-mail: [email protected]
*元子ども兵士を寄宿させてケアしているローカルNGO。取材協力OK.
–難民キャンプ–
NGO “PEACE WINDS JAPAN”
Ms. Miho Fukui
e-mail: [email protected]
Add: 45D Lightfoot Boston Road, Off Wilkinson Road, Freetown (HQ)
Tel: 022-234501
*リベリア難民支援、地方でキャンプ運営
<取材許可関連>
・Ministry of Information
・Ministry of Development
From SIERRA LEONE
湿度ほとんど100%にピーカンの陽射し続き、本当に体も脳ミソもとろけてしまいそう。
ADSLのあるITNETカフェがありますが、ラップトップが使えないなど、メール環境が整っているとは言えない。
また、国自体の電気などインフラ整備が間に合っていないため、いつ使えなくなっても不思議ではなさそうだ。石油も品薄。時差は日本からマイナス9時間。
とはいえ、戦争の傷跡そのものは表面的には見えない。
ビーチには人が溢れ、UNAMSIL関係者や特にビジネスマンの白人の姿にも普通に出会う。その家族なのか、中年女性の団体にも遭遇した。明らかなる観光客風情のグループまで。ブリュッセルから6時間半の快適なアクセスによって、一部で新たな観光スポットになりつつあるのかも知れない。
リベリアもここも、海やビーチは美しいけれど、あまりに悲しい光景が想い出されて、自分には、喜んでいいのか、悲しんでいいのやら、複雑な感覚がある。
ただひとつ思うのは、殺し合わない今という時が、人びとにとっては唯一価値あるものなのかも知れないということだ。
また、シエラレオネは、貧しさが際立って見える。
2000年の取材は戦争中だったし、前回12月も、子ども兵士に集中した短期リサーチだったので、深く認識はできなかったけれど、今回はよくわかる。
ポスト・コンフリクトの後、武装解除も終わって、国際支援がひいて行った後に残される「もの」がはっきり示されています。
原油価格の上昇や中東の不安定な情勢のせいでロシアや西アフリカ沖での石油開発が急ピッチで進められていると聞いた。まだ商業化できる段階ではないのかもしれないが、そうした富は、環境に恵まれ人脈のある人や要領の良い人だけが恩恵にあずかることができて、貧しい人たちの頭の上は素通りしていくのかと思うと、やりきれないものがある。
戦禍がやみ、平穏さを取りもどすにつれて浮かび上がるどうしようもない貧困。
富む人と、貧しさに再編入されていく人たちの格差は、それこそ天と地ほどのものがある。(似たような状況はアフガニスタンにもあるけれど、アフガンの方が「麻薬作ってでも生活せんとあかん」みたいなしたたかさもあって、復興気運を引き続き下支えしているように感じる。)
国連への期待や支持は、しだいに失望や無関心へと変わっていく。また、国連の働きも人も官僚的なところが目につくようになって、それにメスが入れられることもない(→ジャーナリストの仕事か)。
戦争を起こすのも人間、その手当てにあたるのもまた人間-人道援助の存在理由を考えるのに役立つ現実が、ここにはあると感じる。
IRAQDIARY (08.02.05)
今回の企画提案書。今回のイラク取材のサマリー。
「厳戒 イラクを行く~国民議会選挙10日間の記録~」
サダム・フセイン独裁政権から湾岸戦争、イラク戦争をへて、50年ぶりというイラクの民主的な選挙。選挙を断固阻止すると掲げていた武装勢力の攻撃の中で、投票率は60%を超えたとされ、イラク暫定政権のアラウィ首相は「勝利」を宣言した。
この国民議会選挙に、有権者であるイラク市民たちはそれぞれどんな思いをもって臨んだのか?選挙前10日間と投票日当日、厳戒下のイラク各地で、カメラは市民の姿を記録し続けた。
連日起こる爆破テロの現場で奉仕するバグダッドの救急隊員たち。独自の治安システムを作り国内随一の治安の良さを誇る北部クルド人地域。そして、脅迫と暗殺の嵐が吹き荒れる首都で恐怖と不安にさらされた家族。それぞれ、イスラム教シーア派、クルド人、イスラム教スンニ派というコミュニティの背景を持ちながら、選挙への期待と希望、戸惑いや不安を語る。
また、投票日直前から選挙終了までバグダッドに住むひとつの家族に密着。したたかに、そしてたくましく生きるバグダッド市民の生の姿を伝える。
IRAQ DIARY (02.02.05)
バグダッドから、1日戻った。仲間たちやその家族に支えられた日々だった。
IRAQDIARY-53 (13.01.05)
NHKの長井暁さんには、いくつもの労いの言葉を用意しても、足りないくらい。本当にごくろうさまでした。「公共の電波をあずかる人間なら当然だ」「4年間も黙っていて、結局視聴者を欺いていたんじゃないか」「メディア人、ジャーナリストならこれって当り前でしょう」「手前ミソな感じ」「泣かれてもねえ、自分で選んだんでしょ」etc.などと、どうか簡単にかたずけないでほしい。自分だったら実際その一歩を踏み出せるか?組織の中で働く人なら、今後彼を見る目と扱いがどうなるか、わかるはず。家族がいればなおさらのことだ。
「私たちができることは何でしょう?」という質問に、マザー・テレサは「まず、あなたの隣の人にやさしい言葉をかけてあげることです」と答えたと、かつて読んだ。地下鉄のエレベーターでいっしょになって、娘を紹介した時の、彼のやさしい笑顔も思い出す。彼の家族もまた周囲の笑顔と励ましでささえられますように。
**********
冷静になって、客観的に今のこちらの状況を記録しておく。
ボクの愛すべきイラク取材チームは、今風前のともし火だ。通訳のディーナは昨年秋以来、暗殺脅迫を受け、暮に偽造パスポートでイラクを脱出。現在、パリで Asylum seeker として新しい生活を始めている。
おととい深夜、今回コーディネーターが頻繁に連絡を取っていた友人が、米軍に逮捕された。詳細はわからないが、爆発音も聞こえたということで、彼や家族の安否も確認できていない。
背景はどうあれ、これらの事実はコーディネーターを始め、他のスタッフの不安と恐怖を直前に迫った現実のものと感じさせている。ボクも彼らも家族に危険が及ぶことを、本気で恐れる事態となった。今後の予定は、全くわからない。
バグダッドにいる彼らは、誰がいつ襲ってくるかと、夜は眠れないと思う。バグダッドとの電話回線状況は悪く、特に夜間は何十回かけても繋がらない。
ボクらはほとんど家族のような関係で、特に、コーディネーターの家族は唯一無二の存在だ。彼らの身になにか起こったらどうしよう、とボク自身も夜が来るのが怖い。
本当の恐怖とはこういうものなのかもしれない。
つまり、自分の命ではなく、愛すべき家族の身の上に危険が直接降りかかろうとする。
彼らの未来が何よりも大切だ。
今、ボクがやらなくてはいけないのは、自分のこれまでをトレースして、“今この時、どんなジャーナリストなのか”を自問自答し続けること。自分に与えられた環境を前に、こう集中して考えていくことが冷静な判断と方法論を導き出してくれる。
ボクは、個々の事象だけでは何も判断できず、けして反射神経の優れたタイプではない。おそらく「文脈を見ていく」タイプ。点と点を結びつけていくことを無意識に考えている。だから、「なぜ?」という理由付けにこだわってきた。
IRAQDIARY 52 (1.11.05)
今日のアンマンは少しだけ暖かい。
バグダッドの知事に続いて、イラク警察の副総監の一人が殺された。これには正直驚いた。イラク警察の取材を通して、副総監クラスの人たちに会い、話も聞いていたし、彼ら自身もサダム警察国家時代のベテランだ。最も警戒してしているはずの人たちだから、彼ら以上に武装グループの連中がプロフェッショナルなのだと思う。また、警備体制に疑問すら感じる。多分、警察官自身も自分の身を守ることで頭がいっぱいなのだろう。
イラクの武装勢力の数は、現在20,000+と言われる。彼らが選挙をぶち壊しにすることに集中しているのだから、イラク最大の軍事勢力・米軍も安泰とは言えないかも知れない。大きな軍事行動をとれば、それ自体が選挙の障害となるだろうし、対応は簡単ではない。
一方、海外に滞在するイラク人の在外投票の準備は、IOM(国際移住機関)によって粛々と進められている。ここヨルダンにいるイラク人は10万人とも30万人とも見込まれていて、在外投票が行なわれる14カ国のうちでも最大規模になると見られている。イラク人コミュニティなどに呼びかけて着々と準備を進めている様子を見ると、やはり選挙そのものは形がどうあれ予定通りやるのだろうな。
ちなみに、在外投票する人たちの登録期間は17日-23日、投票は28日-30日までの3日間。ヨルダンの治安当局も登録所や投票所の選定や警備には神経を尖らせていると聞く。
IOMのHPで在外投票を呼びかけるTVスポットが見られるけれど、出演者の希望に満ちた顔が、逆に悲しいというか空しいというか・・・。
http://www.iraqocv.org/
IRAQDIARY 51(1/06,05)
ヨルダンの首都アンマン。
ようやくこうしてパソコンにむかうことができた。ファディは昨晩バグダッドへ帰って行った。彼と会って話を聞いてみてバグダッドの状況が実感として理解できた。
スンニ派武装グループとサドル派民兵グループ(この中でもレジスタンスとイスラム狂信派に分かれる)、クルド系(北部)、イラク警察とイラク軍、外国人テロリストグループ、犯罪グループ、そして米軍、それぞれがそれぞれの勝手な大儀に従って行動している。共通しているのは暴力/武力を用いることだ。これら様々な暴力のベクトルの狭間で、一般市民は恐怖と不信に埋もれて暮らしている。
バグダッドで何が起こっているかはわかっているし、いかに危険かも頭でわかってはいたけれど、ファディの目や言い方や表情を合わせて話を聞いていると実感として伝わってくる。彼自身も自分の周りにどんなグループがいて、次の瞬間に何が起こるかわからないと言う。彼がこんなことを言うのは初めてのことだ。彼は、ボクが自分の考えとイメージを持って判断したことに文句をつけようとしているわけではない。ボクの取材目的・方法をこれまでの仕事からわかっているから、バグダッドが今どういう状況か説明しておきたかったのだろう。「自分の身の安全も考えなくちゃいけない」と前にも言われたけれど、今回は彼自身にも言い聞かせているような感じだ。現実問題として、ディーナにかわっていっしょに働く通訳を見つけるのが難しいと言う。とにかくみんな、外国人と接することを恐れている。街中は言うまでもないが、学校や病院や市民が出入りするような場所の取材は容易ではなく、時間と手間がかかりそうだし、実際に無理かもしれない。
だが、彼と話していて今の時期に取材可能かもしれない対象はいくつかイメージできた。一昨日はバグダッドの知事が暗殺された。知事ともなればかなりの護衛がいたはずなのに高速道路であっさり・・・どうなっているのだろうか?
パリのイラク女性 (9)
12月20日9:00 ディーナとウイダッドと待ち合わせて、外国人のパスポート問題を扱う警察署へ。
ウイダッドの母国アルジェリアの公用語はフランス語。彼女がディーナの代わりに窓口の女性に事情を説明する。窓口の女性によると、ディーナのようなケースは特別ではなく特別な手続きは必要ない、所定の警察で対応するはず、根気よく説明するしかないと言う。でも、こうした偽造パスポートの問題に明るい相談所を紹介するから、そこできちんと相談しなさいとアドバイスをくれた。自分のケースが特別なものではないとわかって、ディーナは少しホッとしたようだった。
携帯電話を購入しに行く。北駅の北東側のBARBES-ROCHECHOUARTはアラブ人街。ウイダッドは「パリで一番物が安いのはここ」だと言う。確かにバッタ物のデパートが軒を連ねている。駅前ではアラビア語の雑誌が売られている。彼女たちは女性誌を買った。ディーナはうれしそう。モトローラの携帯を購入、SIMカードも買って、彼女は家族やファディやボクとホットラインを持った。書類と当面のおこづかいも渡して、ひとまず安心した。
夕方、彼女に電話してみると「緑の切符」を発行する所定の警察署の前にいるという。「今夜はここで野宿する」と言う。「緑の切符」を得ようと、多くの申請者が警察署の前に列を作っているとは聞いていた。前回訪れた時にも彼女は前の晩から待っていたと言う。けれど、ここ数日パリは寒さが厳しくなり、この冬一番の冷え込みだった。警察の窓口が開くのは翌朝9時。それまで、食事もとらずにとても野宿できる気温じゃない。彼女は”Don’t worry.”と言うけれど、話を聞いた以上ボクだけが暖かいホテルの部屋にいるわけにはいかない。彼女の闘っている姿を、いっしょにいて見ておかないと自分はきっと後で後悔すると思った。毛布をデイパックに詰め込んでホテルを出た。警察署はCRIMEEという名前の駅にあった。警察署にふさわしいな、などと考えながら駅からトボトボ歩く。道路の水溜りはすでに凍っている。住宅街を抜けると、列車の車庫がある倉庫街にたどり着いた。幅の広い車道の向こうに、ボロボロのダンボールの山と数人の男たちの姿を見かけた。だが、場所がわからず右往左往する。電話をかけると、ディーナはボクが来たことに驚いていた。すぐ近くに来ているはずなのに、彼女の言う「多くの人」の姿が見当たらない。あのホームレスの男たちに聞いてみようと歩み寄っていくと、むくむくのダウンジャケットに身を包んだディーナがボロダンボールの影から出てきた。ボロダンボールの山に見えたのは、待っている人たちが暖をとるために作ったトンネルだったのだ。鉄製の柵を縦と横に組んで、その横面と上面をボロボロのダンボールで覆って、腰の高さほどのトンネルを作っている。そのトンネルの中で20人弱の男女が文字通り肩を寄せ合って座り、折り重なって眠っていたり、酒を飲んだり、トランプをしていた。”Kenji, don’t worry.” ディーナの明るさが、目の前の映像とアンバランスな感じ。ウイダッドもいっしょにダンボール・トンネルの中にいて、明朝窓口が開くまでいっしょにいるという。待っている人たちの国籍は中国、モンゴル、セネガル、ナイジェリア、ガーナ、モルドバなど。英語が話せる人はほとんどいない。二組の中国系の夫婦がトンネル内の知り合いにお弁当を差し入れしていた。ホームレスに見えたアフリカ系の男たちは、この寒さが本当に辛そうだったけれど、じっと座っているイヤそうだった。夕方ふった雨で地面は濡れている。トンネルの中は人の熱気で確かに暖かいが、後ろの方の人はトンネルの外にはみ出してしまっている。そういう人は体を丸めて座り、ダンボールを拾ってきて風よけのために自分の体に立てかけていた。ナイジェリア出身の男性に、パスポートは?と聞くと持っていなかった。彼はもう半年近くも「緑の切符」を手に入れようと試みているという。モルドバ出身の若い男性二人はモルダビアン・ウォッカを飲んで上機嫌だ。モンゴル出身の若い男性は、ボクが日本人とわかると”ASASHORYU Great!”と親指を立ててみせた。「人が多くなると中に戻れなくなるから。明日ケンジの出発に間に合えば電話するから心配しないで」と言って、ディーナはトンネルの中に戻って行った。ボクはしばらく、その場所に用もなくたたずんでいた。圧倒されていたのだ。ナイジェリアの男性はボクに向かってうらやましそうに”Japanese no problem stay all world.”と言った。ボクたち日本人は本当に幸せだろうか?事情はどうあれ、生きるためにこの寒さと闘っている彼らの姿を目のあたりにして、ボクには彼らに与えられた境遇が羨ましくさえ思えた。
深夜1時、ホテルへ戻った。
そして翌朝、ディーナの成功と健康を祈りつつ、パリを後にした。