ルポ: Rebuild Japan

三月二十日
ユニセフ・ソマリア事務所のオフィサー國井氏が仙台入り。
県庁の災害対策本部やみやぎ生協を精力的に回り、現状とニーズの把握に努める。
宮城県医療対策本部に詰めている医師たちは文字通り不眠不休、
五日間服も変えていない。知り合いの医師たちと旧交を温める間なく行った
医療保険に関する現状のヒアリングでは、人員不足、統制/コーディネーションのとれていない状況に
もう一週間もたっているのに…と険しい表情を見せる。
みやぎ生協の五十嵐さんの引率で本部に。ガソリンの無い中、自分の車で駆けつけてくれた五十嵐さんに感謝。
県下900か所以上の避難所、避難民およそ15,000人の情報を把握している同団体の横のつながり、組織力は希望の綱だ。
日毎に変わるニーズ。当初は、食糧と水だったが、現在は下着や衣類、子どもの精神的支援という。
逆に、避難所から自宅に帰り始めた人たちにとっては、ガス、断水が続く中、食糧と水が非常に貴重なものになっている。
人々の移動によって、生活環境が変わり、ニーズも刻々変化する。
人道支援で常に問題となること―需要と供給のマッチング―その難しさを感じる。
県庁の災害対策本部は、それぞれの組織/団体がひとつの大ホールにすし詰め状態にあり、ごった返しているが、
ひとつにまとまっていない感が否めない。
悲劇的なまでの経験ある人員の不足と、国、県レベルのリーダーシップの欠如…。

午後一時、岩手盛岡行きの高速バスに乗り込む。
災害派遣の自衛隊車両、救急消防車両は東京―宮城間より多い。

 

コメント

  1. 千珠 より:2011年3月24日
Rebuild Japan のタイトルに日本への愛が感じられてうれしいです。
yahoo usa も help Japanでした。

仙台は、人も医療も物資も潤沢に集まっています。
問題は、福島です。兵糧攻めです。
でも民間人は、だれもその事を攻めることはできません。
3回も放射能に苦しめられる日本はなぜなのでしょうか。
こういうときにこそ、国のリーダーの資質が問われます。
パホーマンスは、もう飽きました。
自己愛ではなく、自国のことを考えるリーダーが必要です。

ルポ: Rebuild Japan

三月二十日

20日、仙台市内。朝5:50 縦揺れ余震。昨晩も大きな余震。

昨晩一泊、松本さん宅にお世話になる。限りない感謝。

小さな自家菜園からとれた大根の煮物が信じられない美味しさだった。

庭で近所の人たちと会話する松本さんの声が聞こえる。

まだ朝の6時、人々は寝るのは早く、動き出すのは早い。

昨夕、支援物資の水は無事倉庫に格納された。だが、配給を予定されていた場所では水は足りているという知らせを受け、そのまま足りていない避難所へ転送する。被災地現場近くにウェアハウスを設置し、支援物資をそこにストックしていきつつ、最もニーズの高い場所に次々出して行く。この体制作りができつつある。

三連休の初日、泉インターチェンジ近くのショッピングモールに買い出しに来た人々。
無料バス、静かに並ぶ人たち、地割れたちバスターミナルや地下鉄の階段、駅前駐車場には一台の車も止まっていない。
整備されたゴーストタウン…。
どこかに似ていると思ったら、ハリケーン・カトリーナの後のニューオーリンズだった。

ルポ: Rebuild Japan

Rebuild Japan
三月十九日
震災発生から一週間、ユニセフの支援物資のコンボイに同乗して東北自動車道を北上中。
「災害派遣」の布を付けた自衛隊の車両と「わ」ナンバーで荷物を満載したバンが目立つ。
一方、南下してくるトラックが多い。支援物資や機材を届けて戻るのか-。
福島県内に入った途端、道路の状態が悪い。所々で補修作業をしている。
道路脇に残る雪。
陸前高田で仮設住宅建設のニュース。宮城あたりは生活(環境)支援のニーズが高まってきているのかもしれない。例えば、子どもたちへの学習や遊びの機会を提供することだ。支援物資のあるところと全くないところの格差が出てきている。未だ岩手は全体的に緊急物資の支援が必要のようだが。
意外にもSAは開いていた。肉まんとあんまんをほおばった。
宮城県に入った。白石川の手前。道路補修作業が大規模に、また間隔が狭くなっている。
蔵王パーキングエリア およそ4KM手前。「ここはひどいなあ、ちょっと揺れますよ」というドライバーの親切な声。長距離ドライバー歴13年、無精髭を生やして物静か。なかなかのイケメン。
BGMがマイケル・ジャクソン”Heal theworld”に変わった。

最も危険な場所で-pray for workers in the Radioactive area

Dear brothers & sisters

please pray for those who are working in the radio-active front line.

最悪の事態を止めるべく、身を呈して必死に対応している職員の人たちの勇気と技術に祈りを捧げます。

ご家族の方々、想像を絶するご心配や不安の中で刻々を過ごされていると思います。 

謹んで、非力ですが、エールを送ります。

後藤健二

政府のやるべき適切な事とは?

フランスのフィヨン首相は15日、福島第1原発事故の深刻化を受けて日本在住のフランス人の日本脱出を円滑に進めるため、航空大手エールフランスに臨時便を出すよう指示したことを明らかにした。

首相は議会答弁で「東京にとどまる必要のある者を除くフランス人に対して、帰国か日本の南部への避難を勧告した」と表明。首相によると、約5千人とされる東京在住のフランス人は、現在2千人強に減っているという。

首相は子どもなど優先的に帰国させるべき約280人について、災害支援で救助隊や人道援助物資を運んだ機体に乗せて出国させる方針を表明。

また被ばくによる健康被害を抑える「安定ヨウ素剤」の錠剤を1万個、在日フランス人用に運ぶとも述べた。

source:ParisKyoudou

Message for Friends worldwide

Dear Brothers & Sisters,
Thanks for your kind mention.
We are OK.
But government administration & Media do not provide enough & useful information.
That makes a kind of panic among the people.
I pray for people who lost family & love ones.
I also pray for people who are staying in very harsh condition “camp”.
 
sincerely,
 
INDEPENDENT PRESS
Kenji GOTO
+81-90-2458-2239

緊急ルポ!チュニジア・バーニング-2

チュニジア・バーニング 02・27

27日午後3時半、チュニス郊外に住む女子大生と家族の取材から戻った。目抜き通りには催涙ガスの名残りが薄く漂っていた。上空にはヘリコプターがいつもより低く旋回している。(ああ、暴動は今日もあったのだな)と思いながらホテルの部屋に戻る。しばらくするとデモの声が轟のように聞こえてくる。いつもと違うリズムと音色。バルコニーに出て見る。軍の装甲車がデモの参加者たちにとり囲まれている。中には、装甲車の上に乗っている者もいる。でも、装甲車は動こうとしている。信じられない光景に眼をこらして見る。装甲車は動こうとしている。反射的に(危ない状況だ!)と感じ、カメラをとってホテルの外に出た。

どうも様子が違う。周囲の治安警察も市民と混ざり合い、遠まきに見ている者もいる。衝突ではない。それどころか何かを祝福している。

独裁のベンアリ前大統領がサウジアラビアに逃げ出した後、暫定政権を樹立して選挙までの政権運営を担っていた前政権のナンバー2、ガンヌーシ首相が辞任を表明した。過激なデモ、平和的なデモ、いずれにしても要求は前政権の下で政府の要職にいた者たちの辞任だった。それが成し遂げられたのだ。

兵士と市民が何やら口論している。いや、口論ではなく、激しい「議論」だ。握手をする兵士と市民、装甲車の前で記念写真を撮るカップルや普通の若者たちもいる。私の左脇にいた年老いた(そう見えた)男性が「時計を撮っておけ」と私の肩口から声をかけた。(そうだ!時間だ!)と時計塔にカメラを向けた。午後4時50分。チュニジア「ジャスミン」革命・第二幕は突然幕が下りた。

今度は、私服警官に腕をつかまれた。やや酒臭い。(また連れて行かれるか)と思ったが、そうではなかった。有刺鉄線の向こうに並ぶ黒マスクをかぶった治安警察官たちを撮れと言う。両手を上げて喜ぶ者、笑顔でカメラに手をふる者、厳しい眼差しで状況を凝視している者、煙草を吹かす者、皆それぞれだ。なおも私の腕を引っ張り、有刺鉄線を越えて内側に行くと、警察署本部には、逮捕された者が次々連れてこられる。彼らを指さし「こいつらは泥棒だ!」と言う。ある警官は撮れと言い、ある警官はそれを制止する。もう、わけがわからない。政府のトップが居なくなった今、これまで石を投げられていた側の治安警察官たちにはある種の空虚感さえ感じられた。中には、ストレスを爆発させている者もいた。リンチとは言えないが、逮捕連行した「泥棒」たちを引き回し、殴る蹴る、ペットボトルの水をぶっかけるわ、もう統制はとれていなかった。仮に、彼らが本当に「泥棒」だったとしても、少なくとも多勢に無勢であり、すでに抵抗もできない。眼の前で暴力を見るのは至極気分が悪い。さっさとその場を離れたかったが、日に焼けたトッポジージョのような風態をした酒臭い私服警官は私の腕をつかんだまま離さない。散々ひきまわされたあげく、ようやく有刺鉄線の外に連れて行かれた。

街には私服警官が溢れていた。棒を持っているからすぐわかる。その向こうでは、四、五人の警察官にまた一人連行されている。しかし、思えばこの三日間の暴動で、警察が銃を発砲したのは威嚇/警告のための発砲のみ。これには妙な感心をおぼえた。チュニジアはやはり、良くも悪くも「警察国家」だったのだ。訓練された治安部隊だ。

こうした混乱期に治安は悪化する。盗みや放火、破壊行為が横行する。今後警察の役割は、デモ隊と戦うことではなく、市民を犯罪から守るという警察本来の基本的な仕事に移って行かなければならない。長年染み付いた秘密警察的なやり方を変えて行くことができるのか?そんなことを考えながら、街の様子を確かめて廻った。カメラのテープは終わっていたが「見て、自分を浸す」ことが重要だった。

緊急ルポ!チュニジア・バーニング

 チュニジア・バーニング 02・25

チュニス。2月25日午後7時。内務省と警察署本部をデモ隊が襲い、催涙弾と石が飛び交う激しい暴動が目抜き通りで起こった。

滞在中のホテルのロビーには意識を失った若者、座り込んで眼や鼻をおさえる若者が溢れている。

外に出る。「神は偉大なり!」と叫びながら投石する若者たち、警察も怒り狂って催涙弾をバンバン撃ってくる。放水車が水を放ち、路面がぬれている。デモ隊は、催涙弾が撃たれては引き、少し収まると前進するという一進一退の攻防が続く。脇道には催涙弾で動けなくなった男たちが暗闇の中でうめいている。ここに一緒に居ても仕方がないと大通りに出て、盾になる場所を探しながら、デモ隊と警察・治安部隊が相対している前線を目指す。現場で自分込みのレポートをしながら撮影する。眼薬を何回さしたか、わからない。花粉症防止マスクが役立った。バリケードの二列目から撮影。双方が激しい言い合い(なじり合いか?)をしている。催涙弾が背後に着弾。放水車が水を向けると同時に、前線のデモ隊は走って後退する。

その時、誰かに引っ張られた。一緒に走って下がる。

その途中で建物の入り口のくぼみに体をはめ込んだ。ごうを煮やした警察と治安部隊が鎮圧にかかり、一気に前進を始める。「前線」が私の目の前を通り過ぎていく。私のいた場所は警察と治安部隊の側に入った。捕まり/保護され、取材はジ・エンド。デモ隊はチュニジア最大のモスクの方向に吸い込まれて行った。

気を付けてはいたが、取材中に投げられた石が腕に当たるなど危険を感じたので撤収、モスクまで行くのはやめた。

昼間の数万人デモはチュニジア全土から人が集まってきたものだった。リビア、パレスチナ、サウジなど、他のアラブ諸国の旗も見られた。しかし、あくまでもチュニジアの一般市民のデモと要求であり、「イスラム法による社会の実現を求めるか?」という質問を向けてもyesという答えはなかった。さらなる政治的改革を求める平和的なものだったのに…。

しかし、夜の暴動を見るに、若者の行き場の無い怒りや不満が過激なイスラムへの信条へと繋がって行くような光景が目の前で展開されている。投石する若者、そう、過激なイスラム色が強い。昼間に見た外からのアラブ人(一見チュニジア人を装っているのか…)が暴動に参加しているのだろうと頭をよぎる。まさに今、この政治的空白と社会の変革機を突いてイスラムの過激な部分が入って来て、表面化して来ている。

見たところ、TVジャーナリストは僕一人だったらしい。地元の民放(名前は聞かなかった)からテープを売ってくれと言われたが断った。

 チュニジアは他国の民主化運動と台頭化する過激なイスラムを渦のように巻き込み、新たな炎が燃え上がりつつある。

特集:南スーダン・デイリー 人口急増〜豊かな大北部から貧しい新南部へ

 独立が決まった南スーダンの首都ジュバには、北側からたくさんの市民が自由と新しい生活を求めて戻って来ています。住民投票によって独立が決まった南スーダンに、北スーダンから戻ってきた人たちが自分の故郷に戻って新しい生活を始めるまで一時的に暮らす滞在所(キャンプ)があります。

 ナイル川に面するジュバ港には、家財道具を満載した巨大輸送船が停泊しています。港のほとりには、背の高いマンゴーの木を雨よけにするように、おびただしい数の帰還民が暮らしています。彼らは、もともと南部出身ですが、長く北部で暮らしていたために生活基盤がなく、ここに留まるしかないと言います。行くあてのない滞在者が増え続ける中で、地元政府も対応しきれないというのが現状です。ユニセフが、一時的な処置として飲み水を供給するとともに、子どもの健康管理に関する講習などを定期的に行っています。

 街の診療所では、無料で感染症の予防接種、一歳以下の赤ちゃんにはポリオ・ワクチンの接種と成長カードを創ることができます。また、一般市民には値段が高くて手に入らない蚊帳の無料配布も適宜行われています。

 しかし、内戦と北部への資本と開発の集中によって南部スーダンの医療やインフラは、極めて貧しいままです。最近の急激な人口増加には追いついていません。衛生環境や子どもたちの栄養事情は日に日に悪化しています。

 首都ジュバから50人乗りの飛行機で一時間半、西バール・エルガザイ州の街ワウに降り立ちました。そこから、さらに4WDでおよそ四時間半、北バール・エルガザイ州クルンロックへ向かいます。北スーダンと南スーダンの境界線までおよそ70キロの街です。かたく乾いたでこぼこ道を輸送トラックが車体を上下左右に振りながら走ります。

 アイルランドのNGO GOALが運営するテント宿に着いたのは夜7時半を回っていました。温かいシャワーが道中の疲れを癒してくれます。屋根に取り付けられたドラム缶の水は、昼間激しいスーダンの太陽に熱せられて、ちょうど良い温かさのお湯になっていました。

 翌朝8時出発、向かったのは北スーダンからの帰還民が一時滞在しているキャンプです。キャンプと言っても、テントがあるわけでもなく、大人も子供も自分たちが持ってきた家財道具と共に暮らしています。いわゆる「難民」「避難民」ではない彼らは、戦争や紛争から逃れて来た人たちが受けるような通常の援助の対象にはなりません。

 今日、ここで初めての配給が行われます。この一時滞在キャンプは、今24時間人が集まっては出ていくため、全体の人数を把握するのは困難です。また、帰還民の人たちは帰ってくるのに全財産を使いきってしまっています。用意されたのは100家族分。足りない分があれば、四時間かけて再び倉庫から運んできます。日本が支援した蚊帳や毛布、食器、石鹸など食糧以外の生活用品がユニセフのプラスチックケースに入れられています。

 アチル・アグイェイさん(35)は8人の子どもと夫ともに南部に帰ってきました。このキャンプに滞在して一週間になります。

「こうした配給は本当に助かります。特に、蚊帳や毛布は手に入らないので。でも、正直に言うと、今一番私たちが困っているのは食べ物なんです」

 私たちには何もできませんが歌で感謝を示したいと、アチルさんは歌を披露してくれました。

 私にはそれがとても貴重な命の歌声に聞こえました。彼らの前途にどんな苦労があるか、わかりません。私は一瞬、眼を閉じて空を仰ぎ、軽く息を吸い込みました。ごく自然な一瞬でした。

特集:南スーダン・デイリー 子ども病院が必要としているもの

 首都ジュバにあるエル・サバァ・チルドレンズ・ホスピタルは、南スーダンで唯一の子ども病院です。平屋建ての建物が雑然と並び、周囲の金網やブロック塀は崩れ落ちて、気にして見ていないとただの工事現場かと思って通り過ぎてしまいそう雰囲気です。

 救急の患者たちが屋根のない中庭に溢れていました。木陰に寝そべったり、座り込んだりして順番を待っています。マラリア(と思われる)高熱、感染症、下痢、栄養失調、子どもたちの病状は様々です。医者がきちんと診察をおこなっているのはここしかなく、具合の悪い子どもを連れて二時間かけて歩いて来たという母親もいました。院長先生によると患者数は一日およそ150人、マラリア患者が増える雨季になると200人を超えると言います。

 入院する施設は十分とは言えませんが、40床ある新しい建物がひとつ稼働しており、さらにもう一棟がこれから作られようとしています。その建物が完成すれば、診察室も増え、緊急入院の場合にも対応できるだろうと思いきや、事態はそう簡単ではなさそうです。

 南スーダンの独立が決まったことにより、北から南に返ってくる人たち(returnee=帰還民)がいて、南スーダン全域で人口が毎日急増しています。患者数がこれまでに比べ、爆発的に増えているのです。また、感染症の子どもたちが多いにもかかわらず、一般の病気の子どもたちと分けて入院・治療できる施設はありません。4月以降、雨季になれば、この新しい建物もスシ詰め状態になることは容易にイメージできます。

 そして、なんと言っても薬の欠如です。エル・サバァ・チルドレンズ・ホスピタルは唯一の子ども病院なので、新生児から3歳以下の子どもたちの割合が多いのですが、薬としてよく使われるシロップ状のものは、薬棚にあと30本ほどしか置いてありませんでした。「これですべてですか?」と尋ねると、「はい、シロップはこれで終わりです」と薬局の看護師さんが答えました。あまりに少なすぎます。「今日でなくなりますよね?おそらく。その後、どうするのですか?」と聞くと、「処方箋だけ出して、患者さんに自費で外の薬局で買ってもらうしかありません」と視線を落として軽く頭を左右に振りました。物価の高いジュバで、一般の薬局で薬を買える人たちがどのくらいいるのかと思うと、先の見えない絶望感に襲われました。

 使わなくなった病棟の廊下に未熟児などをケアするインキュベーターが3台、内側まで砂と埃にまみれて捨て置かれていました。おそらく、どこからか医療機器の支援をうけたのでしょう。私は、パレスチナのガザ地区で20年近く前に日本から寄贈された子ども用の医療機器が現役で働いているのを見て感動したことがあります。メンテナンスして使い続けている現地の人たちに敬意をおぼえました。しかし、ここ南スーダンでは、病棟が整っていない上に、電気がありません。ちょっと通電しては停電するという状態が1日中何度何度も続きます。常に電気を必要とするような医療機器はあっという間に壊れて、砂埃に埋もれてしまうのです。

 絶望的な薬不足と捨て置かれた近代医療機器のギャップが、役に立たない支援の現実をあからさまに示していました。