拒絶反応

Nov.20.2004
イラク・バグダッドに事務所を開設したいと、契約してくれる局を探す営業をはじめて3週間がたとうとしている。契約者ゼロ。最初の3日ほどは、「ほんとに?」「やめといた方がいいんじゃない?」といった反応はあった。でも、結局彼らの気にしている点は同じで、「何かあったら、今までのような単なる責任問題だけじゃすまない。あんな事件があったのにまだ懲りないのかって激しい世論の批判にさらされる。彼はいい仕事をしたとか、勇気があったとはもう誰も絶対に評価しない。しまいには、行った人間も行かせた人間もバカ呼ばわりされる」ということだ。親しいプロデューサーたちさえ一回話しただけで、それ以降は口をつぐんでしまった。一体、日本のジャーナリズムはどこに行っちゃったんだろうと、正直首を傾げたくなるけれど、ここから先は、この国の媒体の扱える範囲を超えるということなのだろう。

先週今週と、来年度の企画提案をいくつか行なったが、イラク関連企画はテーブルにすら乗っけられないという趣旨の返事がNHK他から返ってきた。イラク関連で可能なのは、ヨルダンなど周辺国での取材で済む内容のもののみ。イラクの今を取り上げるのに、その国内は見ずに周辺国だけで番組を作ろうとすれば、内容的に薄くなるか、無理やりこじつけるか、歪めるか、いずれにせよ、きちんと問題を正面からとらえた番組にはならない。“逃げ腰”感まるだしの番組に、見る側も作る側も価値は見出せないだろう。今の時期に通らなければ、来年3月以降、少なくとも春先までは、イラクを一般市民の目線で伝える長尺番組は「今のところゼロ」ということになる。そう考えると、愕然とする部分もある。

自衛隊を送っているというのに、国民はイラクの実情を知る機会がなくなっていく。材料がなくて、どうやって延長の是非や撤退するか否かの議論を進めていくのか?
イラクは現在進行形だ。「ベルリンの壁崩壊」のような一言で記される史実ではなく、日本の戦後と同じように、戦争-占領-復興(新国家建設)というひとつのサイクルだ。歴史が今生まれていっているのに、それを映像で記録しておきたい、書き記しておきたいと思わないのだろうか。われわれは、過去の記録映像を見て人間の歴史を考察したり、歴史から学んだり、感嘆したり、するのではないか。それが、われわれが後の時代に生きる子どもたちに残してあげられるものではないか。

しかし、困ったなあ。今回イラクで仕事をするには、いっしょに働いてくれる彼らの生活も考えてあげなければならない。万が一事故に遭った時、家族への補償になるようにきちんと給料面を考えてあげなければならない。その予算が確保できないと今回は難しい。しかし、1月は戦争-占領-復興(新国家建設)のプロセスの中で、新国家建設段階のスタートラインにつけるかどうかの重要ポイント。一般市民が主役になる時だと思う。何とか記録して、伝えたいと思うけれど・・・う~ん、なんとか契約とれないかな。予算の問題だけじゃなくて、どう出すかってところも考えないと。まさか、拒絶反応を示されるとは思わなかったな。TVや大手媒体はもう可能性薄か。

非常事態宣言

Nov.8, 2004
企画書作成で夜が明けた。
ニュースをつけたら、「イラクで、北部を除く全土で非常事態宣言発令」という報。今後の取材計画にやや不安。先週末、サマラで連続爆破事件&米軍襲撃があったが、その余波だろう。暫定政権は、このままでは1月の選挙が行なえないと今後2ヶ月間非常事態宣言下におくとしている。1月の選挙に向けて、武装勢力の拠点となっている地域で、米軍は掃討作戦を行なっている。サマラの次はファルージャだ。ナジャフの時と同じように、米軍の包囲する中には入れないだろうな、とも思う。
そういえば、今年6月の主権移譲にあたって、非常事態宣言の取り扱いと宣言下における駐留連合軍の活動範囲、暫定政権の発令の権利や役割について、議論があったと記憶している。
また、多くの民間人の命が奪われるのか。ファルージャから避難してきた家族をインタビューした時のことを最近よく思い出す。父親の朴訥で真剣な表情、すがるようでもあり、また決死の覚悟もたたえたまなざし。開戦直前、クルド自治区に決死で逃げ出してきた一家の父親と同じまなざし。

ゲバラ親派の高校生か

 Nov. 6, 2004
日本ユニセフ協会千葉県支部が主催してくれた、高校生たちとの勉強会(交流会)に行った。
出迎えてくれたのは、渋谷教育学園幕張高校の2年生7名、東邦高校の2年生2名、ボランティアスタッフの方3名と事務局長。
皆、「ようこそボクらの学校へ」を見てくれていたので、その感想や疑問、意見をもとに話をすることができ、有意義だった。
あの中では、アフガニスタンやイラクのストーリーは身近だし、確かにわかりやすい。いつもの講演会とかだと初見の場合が多いし、時間が短いこともあってどうしてもわかりやすいものを取り上げがち。でも、今日はチェチェンやザンビアの話を取り上げて、いろいろな話ができたので良かった。
リーダーの少年は、学園祭で「イラク復興募金」と称して12万円集めて募金したという。
青年の事件もあったため、イラクはいったいどうなっているんだ?という率直な疑問が、彼らにはあったように感じた。後半はイラクの話に集中した。
武装グループと警察のレポートは、今の状況を良く説明できると思い、見てもらった。
あのような端的でストレートなレポートは、少年たちにはわかりやすかったと思う。
自爆テロで何人死んだ、外国人が誘拐殺害された、というニュースのうしろに
どんな人たちがいて、どんな事情を抱えていて、何を考えているのか、わかったようだった。
自分たちが集めた「イラク復興募金」を使う人たちは、どんな日常を送っているのか、わかったようだった。「マジ怖え」としきり。考えていたより事態は簡単ではない、とちょっとショックを受けたのではないか。

彼らが「ニュースで知ることのできないことを知りたい」と言っていたのが興味深かった。
「世界のことをもっと知りたいんです」と。
才能も可能性も無限大の彼らに、この国のマスコミやジャーナリズムはほとんど応えてあげていない。求める意のままに国境を越えて、自分たちの才能や可能性を輝かせる場所へ、どん欲に飛び出していってほしい。

批判

Nov. 3, 2004
タフな電話だった。
自分は瞬間湯沸し機みたいなところもあるし、物にあたったり、キレて暴力的になることもあるから、電話で距離をとるのは良かったかもしれない。

本当にこの人と付き合おうとするなら、やはりとことん言い合った方がいい。
気持ちを表現するというのは、少なくとも今の自分には大切なことだと感じる。
言いたいことがあっても言えなくなってしまうのは、なぜなんだろう?
その時に思っていることをなぜ、口にできないのだろうか?
自分に自信がないからだろうか?
その時の意見や考えを反芻せずに口にすれば、批判や意見の衝突が起こる。
批判されることや、意見の衝突に自分は慣れていない。
ひとことで言って「あまい人間」なのだ。
道のりは遠いな。

「頭数になる」ということを「プロのジャーナリストではない」と言われた。
「ジャーナリストの書くべき文章ではない」と。
その意見には耳を傾ける価値がある。
でも、今はそれでいい。
自分のこれまでのやり方やスタンスを崩して何かを見い出し、拾いたかった。
この歳になってくると、いろいろ経験してきたし、もう劇的に新しいことを吸収できるものではない。これまで見落としてきたものや見向きしなかったものの中から、手にとってみて磨き上げていくことが必要だ。まちがっていないと思う。

ブログ日記とは、妙なものだ。
日記といいながら、密室媒体ではない。
『ブルータス』では有名人らのブログ日記の特集をやっていた。
ブログ日記がすでに新しい活字媒体の形だとすると、その作法もあるのだろうか。

大統領選挙。ブッシュが嫌だと言っても、あと4年待てば自然といなくなる。「ブッシュが嫌だからケリー」というコメントをいくつも聞いているうちに、今ケリーになっても劇的に状況が変わるわけではない気がしてきた。

青年を迎えにきた父は、妻の手をしっかり握って力強く大股で歩いているように見えた。
何も言葉はないけれど、ひと段落ついたらどうか休んでください。
悔しくてたまらないかもしれない。でも、青年の死は、自分を含めて遠くで傍観する者たちの心と記憶に印をつけた。この印によって、何かの拍子に青年のことを思い出す。
兵士や報道関係以外でイラクで殺された他の人たちも同じく、そういう存在だ。

“I’m sorry.”

Nov. 1, 2004
もう2日の朝。
さっき、事務所準備のことでアンマンに滞在中のファディに電話をしたら、ディーナもいっしょだった。アンマンのスイス領事館に移民手続きをしに来たと言う。ビックリしたと同時に、彼女がスイスに行ってしまったらもう会えないのか、と思って少しガッカリ。
でも考えてみれば、彼らはもうじっとしている必要はないんだよな。ハイダもそうだが、高等教育を受けている人たちは、危険なイラクを離れて他国で日常生活を送りたいと考えている。その気持ちはとてもよくわかる。

開口一番、彼女は”I’m sorry for killing that young Japanese.”と言った。
なんか救われた感じがした。

自衛隊の宿舎が攻撃された。
第一報のコメントはまたもや「~らしい」「よくわからない」「不明」「調査中」・・・。「わからない」わけがない。現地の自衛隊は東京の防衛庁に一体どんな言葉で報告しているのか?
サマーワには報道陣もいないからまったく確認のしようもない。不発弾だろうが、隊員にケガ人はいないとか、問題ではない。「本気で攻撃された」ということ、それ自体が問題のはず。
攻撃対象になっているのだから、宿営地の外へ出れば交戦になる可能性もある。たとえ宿営地内で給水を行なうと言っても、こうなってくると、給水しに来る地元の民間人が攻撃にさらされる可能性もある。これまでのことはさておき、今後はもうまともな人道援助活動なんかできるわけがない。
まともな人道援助ができない以上、自衛隊派遣の”大義”も失われることになる。税金の使い方という見方からしても、自衛隊のイラク駐留は無駄使いだ。延長議論の際、サマーワで住民投票を実施したらどうか。小さな町だからやろうと思えばできるはずだ。何も政府がやらなくたっていい。野党だってお金があるんだからできるはずだ。こうしたことをやろうとしないで、ただ小泉首相の個人批判をくりひろげてもまったく説得力なし。この国は大統領制ではなく、国会が国政の最高機関なのだから、国会議員はみんな同罪だ。
自分はサマーワに行けるか?やはり怖い。殺されることが?いや、それだけではなく、取材したことを世に問えない、黙殺されるのではないかという不安もある。

「自分探しの旅」だったとして、何が悪い?
100ドルしか持っていない若者に「金は大丈夫か?」となぜ聞いてやらなかった?
もう、家族の悲しみと落胆は計り知れない。
主は、青年の死をもって自分たちに何を知らしめようとしているのか。ずっと問い続けなければならない。

「不明」「わからない」

Oct. 30. 2004
バラド-バグダッドから1時間半ほどの、ティクリートへ向かう途中にある小さな町。スンニ派三角地帯に位置し、サマラ、バクーバなど、サダム支持者の残党を含むスンニ派武装勢力による激しい反米活動が日常的に行なわれている地域・・・。米軍による掃討作戦がしばしば行なわれる地域・・・。
朝から、政府関係者からは「不明」「わからない」というコメントばかり。
米軍の報告はそんなに不十分なものなのか?青年の指紋を今頃取っているって、どういうことなのだろう?日本側は青年に関するあらゆる情報を現地に送っていたのではないのか?もし、自国民が誘拐されたらとか、事件に巻き込まれたらとか想定していなかったのか?いくつものシナリオを想定し、対応策のオプションを確保できないのか、この国は?不思議だ。いつでも事が起こってからしか対応しない。後手後手の感がある。
平和な時にやっておくべきことはいっぱいあるのに、利己的な政争を楽しみ、夜な夜な酒臭い大口でバカ笑いしながら街を歩き、「自分のことで手一杯」と忙しさを装う人たち。

「アジア人の遺体」という表現から「日本人らしき遺体」と、いつ、どうして変わったんだ?
政府もメディアも発表するのに、ものすごく慎重になっていて、ある意味わざと時間かせぎをしているようにも見える。「日本の外交官二人が殺された同じ一本道の途中」という説明コメントはない。人々へのショックを最小限におさめるために、情報は少なく、事実はじわじわと時間をかけて公開していくという方針/ やり方なのかもしれない。もしそうなら、彼らの本音はひと段落ついてからわかるはず。大臣や副大臣の二言目、「残念」とか「無念」とかいう言葉の後に何を言うか、注目したい。

米軍が直接外国人の遺体を発見したとしたら、犯人たちはわざわざ発見されるような場所に遺棄したのだろう。見せしめのためだ。イラク警察が見つけたとしても、彼らのパトロールのやり方から想像するに、目に付きやすい場所だったのではないか。通報かもな。

なぜ、殺したのだろう?
犯行声明も出ていない。

・・・これだけ分析してしまうのに、不思議なものだ。自分は発見された遺体が、あの青年でないことをイメージしている。

神様、あなたが青年にお与えになったご計画がいかなるものであっても、どうか、青年の家族の手と足だけはくじかないでください。

「頭数」になるということ。

Oct. 29, 2004
ボクは今夜も集会に参加する。
参加しなくても祈り続ける人たちと、祈りをあわせたい。
そうか・・・これはボクにとって、ひとつの礼拝なのかもしれない。

各団体がおくった仲間たちの行動の結果も聞いてみたい。
48時間は過ぎた。
これが、いいサインであって欲しい。

Oct. 28, 2004

青年の解放を求める集会に参加した。
デモや集会と呼ばれるものに参加したのは、中学校の何とか集会以来のことだ。
この仕事をするようになってからは、意識的に避けてきたということもある。

国会議員の偽善的で言い訳めいたスピーチが続く。
なんで拍手するんだ?
彼らは、本来なら「今まで政治家として何をやっていたんだ、自分らに責任はないとでも言いたいのか!もっとしっかり汗かいてやれ!」と非難されてしかるべき立場のはずだ。
思わず帰りそうになったが、
「頭数」になろうと思ってここにやって来たことを自分に言い聞かせて、じっと我慢した。

首相官邸前に移動した時には、300人ほどになっていた気がする。
300人・・・これが現代日本の姿。
人質解放を求めて数万人のデモが行なわれたイタリアやフランス、テロが起きたあと、雨のマドリッドを人々が埋め尽くしたスペイン。そうした画とどうしても比較してしまう。
この国と人が、自分たちのおかした罪に落し前をつけずに、実質なき「みそぎ」と呼ばれる儀式で、自らに課すべき罰をかわしてきた末にたどり着いた日本という先進国の姿だ。
こうした集会をオーガナイズするグループの悪いクセは、永遠に変わらないのだろうか?
こんな時まで、政治色ばかり鼻につく。
政府を批判するのはいい。自衛隊撤退を求めるのも当然だ。
でも、なぜ今現場で実際に動いている連中へ、それが自分たちの仲間であれ、政府の人間であれ、「全力でがんばれ!私たちも応援している」と祈るとか、エールを送るとかいう音頭をとらないんだ。若者の主張みたいな、自分らの不満をぶちまけてる場合か?普段そういう偏狭なヒューマニズムでやってるから、いつまでも支持されないし、特殊な人種扱いされる。
卓馬が「シュプレヒコールってなんですか?」と尋ねた。

鈴木さんの静かな訴えは心に響いた。
いろいろ思っても、「あの青年を殺してはならない」ということがすべてだ。
自分に、日本人に、イラク人に訴えかけるにはどうしたらいいのだろうか?
静かに祈りをあわせていきたいと、心から思う。
希望はある。分析的な見方をしても、希望はあるよ。
プラカードに目もくれず、足早に歩くOLやサラリーマン、300人と道路を挟んで向かい合い、群れる濃紺のスーツ姿の男たち・・・彼らの頭の中に青年の顔は浮かんだか?あるいは胸の中で祈ったか?「殺すな」と、どうか同じ気持ちであって欲しい。
際立つTVカメラの少なさ。ロイターとCNNが取材をしているのを見て、少しホッとしたが、それも放送されなければ、青年を救う助けにはならない。申し訳ない想いがこみ上げる。自分は何もできない。祈るしかない。
どうか神さま、彼を連れて行かないでください。

イラクでの日本人拉致

Oct. 27, 2004
日本人の青年がイラクで拉致されたという一報。
ついに現実になったか、という思いやら、また非難ごうごうだろうなとか、思う。
武装グループは「自衛隊の一員」と言ったようだが、風貌や言葉使いから、民間人だとすぐわかった。
彼の行動を非難することと、知らんぷりをすることは、行動の理屈として繋がらない。いろいろ意見はあると思うけれど、漫然と見捨てていいのか、と思う。
「見捨てない=繋がっていますよ」というメッセージは、彼に対してのものであり、同時にイラクとその国の人たちに対するものでもある。
こうしたことをきっかけに、一般の人たちは日本と日本人の行動を見極めている。

ベスランの学校を占拠した武装グループたちに向かって、「あなたたちは間違っている」と訴え、射殺された少年がいたという。彼は正しかった。

解放を求める集会などができれば参画したいと思う。
ノウハウやアイディアのある方はご連絡ください。
なぜ、今回は・・・と自分自身思うけれど、欧米人に限らず、イスラム教徒や同胞であるイラク人までが誘拐されて殺害されるようになった今、自分がどう行動するのか、イラクの人たちや国際社会から見極められていると思うからかもしれない。
実際に行動できなくても、心の隅に彼のことをおいて「祈る」ことだけでも「見捨てない=繋がっている」ことになると思う。

コメント

  1. キリスト者平和ネット より:2005年7月29日
賛同者の皆様こんにちは、キリスト者平和ネットです。
緊急行動と声明のお知らせです。
日本人青年とみられる人がイラク・サマワで武装抵抗勢力に拘束されたと報じられている事件で、WORLD PEACE NOW は本日27日、18時から、衆議院議員面会所前に集合し、首相官邸に対する抗議・要請活動を行います。

なお、日本キリスト教協議会(NCC)は、総幹事と平和・核問題委員会委員長名の連名で、また、日本基督教団が総会議長名で、それぞれ声明を出しました。この抗議・要請活動に参加します。

WPNはこの春の「人質事件」で有効であったインターネットを通じて、現地武装勢力に「あなたがたは自衛隊関係者を拘束した」と述べているが、私たちはこの青年は民間人であり、自衛隊関係者ではないという情報を持っている。

絶対にこの青年を殺してはならない、とのメッセージを届けるために努力します。
World Peace Now ホームページ
http://www.worldpeacenow.jp/

キリスト者平和ネットホームページ
http://www.jca.apc.org/~cp_...

捜索難航

アル-ムサナ警察のフッテージは、インタビューの内容も画の質も前回よりはるかにクオリティの高いものになった。でも、これは当たり前のことだ。

自分の場合、再撮という言葉は当てはまらないかもしれない。なぜなら、取材は重ねれば重ねるほど深くなっていくからだ。このスタイルは、十分に下取材をした上に台本を書いてノンフィクションドラマを作っていくわけではない。台本はあったとしても日々刻々変わっていく。前回のロケに入るまでに得た知識より、前回のロケで経験した分が加わって今回のロケに望む前に身に着いていた知識の方がはるかに多い。

これと収録テープを落っことした問題とは別だ。捜索は難航している。

朝、起きるのがつらい。体がキシキシいっている。タラルのお宅で少し充電させてもらって少しばかり回復したと思ったけれど、完全に戻るにはきちんとした充電時間が必要かもしれない。でも、まだ重症ではなさそうだから、これ以上ひどくならないようにしないと。日本の夏のようなむっとする暑さ。ボーっとして、今回はもう限界かもしれない。

ハナンのお宅を訪ねる。綺麗なブルーのサテンのドレス”DEAHDASHA(デシェデシャ)”に白い”へジャブ”を頭にかぶっていた。またちょっとお姉さんになった。挨拶するのに笑顔を見せてくれたのはうれしかった。初めてだね。
「気分は?お腹はどう?」と聞くと、上目使いの小さな笑顔で「ハンドゥレラ」と答えた。よかった。一家も変わりない。

今回のバタバタの中で、ここへ来ることが許され、たいした物ではないけれど日本の女の子と同じように雛人形を飾ることができたことに、感謝。こうなってくると、やっぱり学校に行って欲しいなあと欲張りな思いが残る。

明日早朝、バグダッドを出る。最終日、この後そのくらいカメラを回せるかわからないが、できる限り・・・。