Report for The Big Brother in Iraq PART-1

車に乗り込んだ瞬間、糊付けされた紙がばりっとはがされたような感覚が自分の中に奔った。車窓に流れるオレンジ色がかった高速道路のコンクリート壁、運転するアブドゥラの横顔、いつもと変わらない風景だ。またひとりか。助手席に座るべきだった。シートに散乱したミネラルウォーターのボトル、色が抜けたような無機質さ。一気に色気が抜けてしまっていた。・・・飯田さんは無事飛行機に乗れただろうか。まったく最後までせっかちな人だったなあ。


ことの起こりはこうだ。
12月初め、飯田さんから電話がかかってきた。懐かしいあのだみ声で「おい、イラク行くどお、連れてってやー。」帰国して間もなく、ティクリート・ルポの配信作業をしていたときだったから、まだ現実的に考えることはできなかった。

12月、クリスマスを前にして、サダムが捕まった。
この出来事はイラク戦争の余熱を急激に奪ってしまうかもしれない。アメリカへの攻撃や外国人を狙ったテロが収まるのか収まらないのか、情勢がどうなるにせよ、イラクに戻って取材を再開しなくてはならない。
その後の2,3週間は、イラクの治安に関して自分がまったく予見のできない状況が続いた。さすがにそんな状況では取材に出ることはできなかったが、理由はもうひとつあったと思う。前回米兵の襲撃現場に走って行った時のことと、そして結果的に人が亡くなったことで自分のレポートが世に出たということを自分自身が看過/消化することができなかった。

編集から放送本番まで、何度も何度もあのシーンを見る。そのうち慣れるかと思っていたけれど、慣れるどころかどんどん息苦しくなっていく。映像を見た人たちから口々に「危ない」とか「すごい」とか「怖い」といった言葉を耳にしていたが、「敵」扱いをされて銃口を向けられたことがトラウマとなっていたわけではなった。それは看過/消化できない何かの一角にすぎない。本当にトラウマとなってしまっていたのは、あの時、家族に「さよなら」をしてしまったことだった。映像を見るたびに、自分の愚かさを見せつけられた。「なぜ、『さよなら』してしまったんだ」「『さよなら』をしたなら、なぜ、おまえは生きて帰ってきたんだ」-四六時中、自分へ問いかけていた。自分に与えられた幾つかの命に対して、勝手に袖をふった罪は大きい。もうぬぐい去れないかもしれない。クリスマスの礼拝は、その罪を懺悔する機会になってしまった。懺悔するクリスマス・・・初めてのあの時以来だ。

日本の外交官2人の死に関する報道や組織の対応、日本の一般市民の反応にはやりきれなさと物足りなさと、情けない気持ちや申し訳ない気持ちがごちゃ混ぜになっていた。彼らが亡くなったことによって番組が成立したのは事実だが、考えてみれば、これまでだって戦争やなにかで誰かが亡くなっている状況の中で取材が成立し、番組が成り立ってきたことに違いはない。でも、今回は周囲の受け止め方を含めて、より身近な出来事だった。そして「日本の外交官が殺されたから」ということが番組成立理由のほとんどすべて。逆に言えば、「亡くならなければ実現しなかった」番組かもしれない。にもかかわらず、自分も含め日本のメディアが徹底的に真相を取材するわけでもない。できない理由はそれぞれあっても、そんなものはジャーナリズムには関係ない。真相究明の努力もしない番組に、故人を知る人たちが出てきて勝手な意見や気持ちを恥ずかしげもなく語る有様は醜悪そのものだった。現場取材はしないくせに、遺族には野次馬のように付きまとうカメラには吐き気さえもよおした。『クロ現』の制作現場が真摯な態度だったことはせめてもの救いだったが、それでさえ電話取材でしかない。そして自分は間違いなくその一味であり、映像が売れてお金が入ってきて助かる張本人なのだった。人の血で成り立つ生き方・・・いったいどれだけの血を流せば終わるのか?体の内も外もザラついていくのがわかった。

自衛隊派遣に関しては、残念な思いとともに政治家のばかばかしい論議に辟易していた。日米の対等な関係を標榜すべき、などと考えているのはこっちだけだ。国連主義を唱えながら、日米安保は基本と言う。現実味もないし、とても真剣に「変えよう」としているとは思えない。本当に口先だけ、軽薄なパフォーマンスに過ぎない。
サマワにはもっと興味がなかった。自衛隊が行くとなれば日本の他のメディアも行くだろうし、インデペンデント・プレスが出る幕ではないという気もしていた。日本の番組基準に寄りそうのではなく、前回までの取材をまとめ上げる必要がある。ただ、局側には外交官殺害事件とサダム拘束という出来事をへて、彼らのイラク情勢に対する興味も広がりを見せている感があったし、サマワ取材はオーダーがあれば・・・ぐらいに考えていた。売れるにこしたことはないのだから。

そんなモチベーションの低さの中で、サマワ行きを実現したのは飯田さんの“熱き思い”に他ならない。彼の立場なら、自分たちの送り出す日の丸軍隊がどんな意味を持ち、どんな環境で活動するのか、自分の目で見て、匂いをかいで、肌で感じて、的確に認識したいと願うのは自然なことだ。道理に合っている。それなら、お手伝いしなければならない。でも正直、かなり不安だった。まず、彼への手紙にはこう書いた―「私自身、始めから同業者以外をお連れすることは初めてです。イラクの一般市民の暮らしを精一杯感じていただきたいと思います一方、不安もございます。他の場所のように『ご安心ください』とは申し上げられませんが、現地では確かな人間たちが支えてくれます。いろいろ至らない点はあると存じますが、どうかお許しください。」
それから、彼の視点にまかせてサマワとイラクを見てみることが、自分にとっていい勉強になると考えたことは大きい。とにかくこれまで経験したことのない機会、自分が及ばない力でグシャグシャにされるような機会を求めていた。彼への手紙には、正直にこう書いた―「私は旅行手配を生業とさせていただいている者ではございませんし、私の所属するインデペンデント・プレスが責任を持つことができる案件でもございませんので、私の希望でご同行させていただくという心つもりでおります。」いつものように直前まで決まらない予定・・・それでも飯田さんはじっと耐えてこちらからの連絡を待っていた。けしてフリーな時間を多く取れる人ではないにもかかわらず。意思確認など細かく話していたわけではなかったけれど「この人はいっしょに行ける人だ」と確信できた。

ファディとの連絡はなかなか取れなかった。連絡役はまずアブドゥラ。彼がアンマンにいれば到着予定を伝えられるし、ファディへも連絡してくれる。でも、今回は2日前までつかまらなかった。こんな時、スラヤを持っていないファディと連絡を取るには苦労する。エヤットの自宅電話にはこちらから国際電話ができるけれど、彼も家族も英語がまったくNG。一家が無事かどうか確かめるのがやっとだ。ハイダにメールするが、新しい職場で働き、婚約者もできた多忙な彼が対応できるかどうかはわからない。ファディの会社『アリハ』に電話して、ほとんど単語状態の英語で話す。すると「彼らはスレマニアに行っている」と言うではないか。バグダッドに居るかどうか大丈夫かなあ、と思ったが何とか到着する日時を伝える。翌日深夜、ファディから電話がかかってきた。「ケーンジ、ケーンジィ、アイ・ミス・ユー」優しい声が受話器から聞こえた時、彼の頬の鬚の感触が自分の頬に甦ってきた。バグダッドへの帰還を彼は心から喜んでくれているようだった。これでまず安心だ。

成田で落ち合わせた時、飯田さんはすでに関西から列車での長旅を終えたところだった。便は限られるが、関空からドバイ経由にすれば良かったかもしれないと思う。
自分は、礼節が行き過ぎて気を使う状態になるとロクな仕事ができない性分だと自覚している。でも、14時間のフライト、パリでの長い乗り継ぎ時間を消化していく中で、自分が飯田さんに必要以上に気を使ったりしないだろうかという不安は、払拭されていった。あらためて「この人となら大丈夫だ」と確信すると同時に、「ある程度のことがあっても必ずこの視察は成功する」とイメージすることができた。

アンマンに到着。携帯電話で話すアブドゥラを見つける。元気でいてくれたことがうれしかったし、ホッとした。アンマンで動き回ろうとする飯田さんに「ここは経由地ですから。目的はこれからです」と言うと、「そうやな、目的を達するまではシンプルにやな」という答え。説明すればすぐにわかるのは彼の中に確実な測りがあるからだ。このことは今回の視察の間じゅう実感したし、たとえ状況が違っても分析して結論を導き出せる測り/軸を持っている人だと感心させられた。

栄花さんとの再会もとてもうれしかった。今回はホテル泊ということもあって、ご家族とお会いできないことが少し残念だったが、事故なく過ごしてくれていることに感謝する。飯田さんの目的と身上を説明し、帰りのアンマンで付き合ってくれるように頼んだ。抽象的な思いだが、飯田さんには栄花さんという「生き方」の一端を感じてもらいたかったし、栄花さんには飯田さんという「人」とその理屈を知ってもらいたかった。自衛隊で務めた後、フランス外人部隊に5年間在籍して今カメラマンという稲垣氏を紹介される。来る前に栄花さんから彼のことを聞いた時、事によってはいっしょに仕事ができるかなと思っていた。夜、ブリティッシュパブで4人で食事をしたが、自分の頭がいっぱいいっぱいだったこともあって、あまり実のある会話はできなかった。自分のそんな様子を、飯田さんは観察していたようだ。ただ、ひとつ興味を引いたのは、稲垣氏が一般市民の使うバスで国境を越えてバグダッドに入ると言う点。たぶん20時間近く、それ以上かかるかもしれない。どんな人たちが乗り込んでいくのかだけでもイメージは膨らむ。そして彼らの目線で、彼らの見る風景、考えること、去来する思いを道々記録していくのはとても興味深い。たとえ、バグダッドのバス停でバイバイしても、ちょっとしたストーリーになりそうな気がした。でも、翌日乗る予定のバスは出なかった。彼は GMCに切り替えた。残念・・・。

視察同行は、ある意味自分の望んだ通りだった―これまで経験したことのない機会、自分が及ばない力でグシャグシャにされるような機会―。自分を納得させるために見たいもの触りたいものを徹底的に求める飯田さんのパワーに、チームは時に引きずり回されることもあった。そして感情表現の激しいアップダウン。ファディとエヤットは困惑し、声を荒げる時も2,3度あっただろうか。でも、破綻してしまうようなことはなかった。ひとつには、一度として飯田さんがこちらを振り切って勝手をすることがなかったこと。もうひとつは、ファディが自分にしてくれたように飯田さんの要求を受け止めてくれたこと。この二つに尽きる気がする。双方ともに、異なる器の大きさを身につけていた。

飯田さんの見ていく方法は、かなり参考になった。
ひとつは、イメージが先にあって、それを事実とすり合わせていく作業。イメージが固定され、先行していると、当事者と話をした時に当然かみ合わない部分が出てくる。例えば、話合いのほとんどの時間が、相違点をあぶり出す作業とそれに換わる事実の確認に費やされる。これはかなり頭の疲れる作業だ。しかしその結果、こちらが知りたい情報はまず確保し、さらに相違点があったという事実そのものも新しい情報として価値を持ってくる。自分でもこれまでにその場その場で無意識のうちにとっていた方法かもしれないが、きちんとした取材方法論として意識して頭に入れることができた。
もうひとつは、見ていく視点をピンポイントで固定すること。取材のひとつの方法に、定点観測というものがある。飯田さんの場合、例えば「いくつも空爆跡を見ていく」というものだった。その過程で、空爆の被害よりも略奪/放火の被害の方が大きいこと、空爆のほとんどが通信施設および軍関連施設をピンポイントで行なっているということ、廃墟になった軍施設に生活する人たちが多くいること、街中で目にする戦争の傷跡は消えつつあること、建物の構造が脆弱なこと、復興がけして難しい街ではなく、やろうと思えばすぐに再建可能であることなどなど、「いくつも空爆跡を見ていく」という視点でたどって行くだけでさまざまなことが見えてきた。これまで自分はこうゆう見方をしてこなかったのではないか、とちょっとした驚きと反省めいた感覚を憶えた。定点観測で用いることができる「定点」とは、人や場所などの実像を持つものだけではないということ。いくつもある興味を精査してひとつだけに絞って見てみる作業は実に得るものが大きい。

日本大使館を探すのには右往左往した。先月、大使館は在留邦人に対して近寄らないように通達。誰もが情けないと思ったニュースだった。飯田さんも出発前に「行かないで欲しい」と言われたと聞いていたから、もしかしたら遠慮するのかな、と勝手に思い込んでいたということもある。日もだいぶ傾いてきた。なかなか大使館が見つからないことに飯田さんの苛立ちは頂点に達し、助手席のドアを殴る。エヤットは「やってられるか」と運転に覇気がなくなり、ファディは「なぜ彼は怒るんだ!」と”WHY? I just want help him. Because of friend of Kenji !”を隣で繰り返す。「おまえは興味の対象として知っとくべきやねん」と飯田さんに言われたとき、反射的に「ボクは必要ないですから」と答えた。実際に必要としていなかったし、内心「自国のジャーナリストの興味の対象にされない、必要とされない大使館の方こそ責められるべきだ」と思っていた。でも、次の瞬間には彼の言葉の方が有意義だと考えることができた。「逆に知っていて損になることはあるのか?」長く対象と付き合い、ストーリーを深めていくためには無駄な知識などあり得ないはず。「興味の対象」が少なくては、多くの生きた知識は得られない。ついに、三人と車を置き去りにして1人であたりを探し回った。誰も知らないし、違ったことを言う。万策尽きて車に戻ろうとしたとき、最後に尋ねたタクシー運転手が追いかけてきた。激しく頷く彼を信じて車に乗り込む。日本大使館は、奥まった路地の先に隠れるようにしてあった。3メートルはあろうかというコンクリートの壁に遮られて、建物はまったく見えなかった。

探す過程でいろいろな事実がわかった。日本大使館の場所をその地区の警察官ですらほぼ知らないということ。ドイツ大使館にひと気がなかったこと。各大使館がそれぞれの周辺道路を封鎖しているので、当然車両は制限され、徒歩でもかなりの回り道を強いられること。日本大使館はアメリカ大使館から100 メートルほどの近所に位置していること。米軍のパトロールが来ていたこと、などなど。

飯田さんから無駄が多いという指摘も受けた。普段、ロケではなるべく取材対象の環境やリズムを傷付けまいとして彼らの行動規範にのっとって行動するようにしている。そして、いっしょに動いてくれる人たちの能力を信頼するように心がけている。無理やり自分(のやり方)を通しても結果が得られないことを経験してきたから、その場所に入ったらそこの流れに任せる癖がついている。でも、ちょっと冷静に今の環境を考えてみると―実に居心地の良い環境で、リラックスしきっている。仕事を忘れても生きていけそうなほど。自分がファディたちに甘え、まかせっきりになりかけているかもしれない。大使館探しに自ら走ったように、自分の体を突き動かして獲りに行くことがいつも必要だ。そういう環境に常に身を置くべきなんだ。家族同然の人たちを与えてもらったからこそ、もう一度あらためて自分の役割を考える必要があるかもしれない。

買い物は愉快だった。飯田さんは、ジョマナとサファーナへかわいいピアスを買ってファディにプレゼントしてくれた。エヤットにはトルコ製の革サンダルを買って、布製の履き古したサンダルを履き替えさせた。ご機嫌のエヤット。食事は通りに面した(というか、歩道の上で)白いプラスチックテーブルとイスを並べた串焼きレストランでとった。夕暮れ時、行き交う車と人々の頭上を米軍ヘリが旋回飛行する。周囲には気を配っていたが、ぴりぴりした雰囲気は感じなかった。夕方、こんな繁華街で食事をするのは戦争後初めてだった。自分の内で何かが緩まっていく。伸びきったゴムひもが緩まってだらんとするのではなく、少し緩めたために弾力が豊かに増した―そんな感覚。

最後の夜、インターネット・カフェにて。飯田さんの長女からのメールを見て、こみ上げてくるものがあった。アフガニスタンに行った時には、父の様子を聞いてくれる人もいたけれど、今回は誰からも尋ねられないという。「行き先が行き先だけに、下手にいじれない(聞けない)のでしょうか・・・。」という一文に、勝手な父を送り出した後の留守を預かる彼女の苦労と孤独、周囲への失望や疑問が込められているように思えてならなかった。ご家族のもとまで、飯田さんのあしをどうかお守りください・・・。

最終日ずっと考えていたのだが、飯田さんを送りにアンマンまで行くことにした。時間がタイトなこともあったし、なにより栄花さんと交わる機会をきちんとセッティングしたいと思ったからだ。ファディに話すと”I know you, Kenji. When you told me about Iida, I know you go with him.” 今のイラクにおいて、身の危険に会うのは確率の問題でもある。アリババに遭う危険の高い行き来はなるべく少なくすべきだ。その後のロケスケジュールを考えると腰と背中の疲労にも不安があった。信頼できるドライバーと友人もいるし、任せても良かったのかもしれない。でも、どうしても1人で行かせることはできなかった。“兄弟”と認めた人の道中に最後まで徹底的に付き合うこと、時には自分の身を削ってでもそばにいること、それがどれだけその人を安心させ、その家族を安心させることか―これはファディが自分に教えてくれた、言葉には言い表せないほど尊い輝きを持った隣人愛だ。ファディの気持ちを理解できる機会を与えてくれた飯田さんに感謝したい。

栄花さんに日記を書くと約束したのに、めまぐるしい時間と疲れのために最初の1日しか日記が書けなかったなあ、トホホホホ。

【視察同行日程】
13日(火) 10:30 バグダッド着
13:00 スラヤ購入
15:00 グリーンゾーン視察
17:00 インターネット・カフェにて通信
バグダッド泊(市民宅)
14日(水) 08:00 バグダッド発→12:00 サマワ着
サマワ視察/取材>
14:00 部族長と会見
15:30 市場等市内視察
19:00 地元若者と懇親会
サマワ泊(ホテル)
15日(木) サマワ視察/取材>
09:00 サマワ新聞社編集長と会見
10:30 職業安定所視察、所長らと会見
12:00 オランダ軍キャンプ・スミティおよび自衛隊宿営予定地視察
13:00 サマワ発→18:00 バグダッド着
バグダッド泊(市民宅)
16日(金) バグダッド視察/取材>
09:30‐大統領宮殿、米軍駐屯地等々、市内空爆跡数々視察
16:00 日本大使館訪問
17:00 アダミヤ地区界隈にてショッピング
17:30 レストランにて夕食
18:30 インターネット・カフェにて通信
バグダッド泊(市民宅)
17日(土) 06:30 バグダッド発→16:30 アンマン着
18日(日) 01:25 飯田さんアンマン発