イラクで死んだ君へ

月曜日に東京外国語大学で講演。
題目は「人道的報道~ジャーナリズムの限界と可能性~」
『ようこそボクらの学校へ』他の上映とお話。講演の最後50分程度を質疑応答にあてた。

質疑応答が終わって、最後に青年の話題に触れた。同世代の彼らに話すこの機会に、イラク情勢を知る者として、伝えたいことがあった。絶対に「彼を責めてはいけない」ということだ。自分探しをしたいという思いや、この世界で起こっていることを見てみたいと思うことは誰にでもあるということ。たまたま場所がイラクだったということ。もしかしたら、イラクだったから行きたいと思ったのかもしれないね。「探検部とか言って、アマゾンの川下りに行くのも同じことだ」という例えに、学生たちはきょとんとしていたようだったが、引っかかりにはなったと思う。何かを感じたい-そういう思いは誰にもあるものなのだ。彼を責めてはいけない、責められるべきはもっと他である。

<質疑応答>
Q. 『ようこそ僕らの学校へ』のDVDで子供たちの語り口が一人称で語られていますが、客観的な視点から見て、どのような考えであのような手法をとったのですか?
A. あれは現地の人たちをより身近に感じて欲しいという意図をもった演出方法の一つです。客観コメントはNHKなどの番組で放送した際に使用しました。そもそも『ようこそボクらの学校へ』は、普段番組で使いきれなかった現地の人の声を出来る限り伝えたいと思ったのがきっかけです。時間尺や内容構成の関係から、番組ではどうしてもカットされてしまう部分があります。今回のDVDでは、現地の人の言葉やメッセージをより多く入れようと考えました。
また、小学校高学年や中学生がこのDVDを見た時に主人公に共感してもらいたいと思って、このような手法をとったということもあります。

Q. 取材をしたときには報酬を払うのでしょうか?
A. まず、なぜ取材をしたいか説明することは大前提です。取材ができたら、お金を払います。報酬というわけではありません。日本で誰かを訪問する際、菓子おりを用意するのと同じです。知らない土地で知らない人たちの家にズカズカ入っていくのですから、これは礼儀でしょう。たいてい現地では時間がなくて、礼品を用意することが出来ないため、$20から多くても$100くらいを差し上げます。ただし、自分たちはけしてボランティアではないということを必ず伝えます。私たちを迎え入れてくれたので個人的にお礼をしたいのです、と感謝の言葉を添えます。

Q. 取材したものを編集の段階で自分の意図と違うように使われてしまうことはありますか?また、編集前のディスカッションは必ずするのでしょうか?
A. 多角的な解釈が出来るものは撮りません。きちんと何を伝えるかという視点をもって取材を行うので、映像の使い方はある程度決まってきます。あいまいな取材や表現はしません。けれど、よほど悪意のある人ではない限り、こちらの意図を曲げて使うことはしませんね。
   また、番組制作側スタッフと信頼関係がある場合は、映像と基本情報のみを送って、後のことは任せる時もあります。万が一、悪意をもってこちらの意図を無視するような使われ方をした場合は、損害賠償を求めて訴訟も持さない。というのは言い過ぎですが、絶対に許しません。

Q. イラクで米兵について取材をした場合、米兵と敵対している側からはジャーナリストも敵とみなされるのですか?また、米兵の取締りを受けた際はどのように自分はジャーナリストということを示すのですか?
A. 敵対しているAとBがいて、自分がA側のテリトリーに立っていた場合、それだけで
B側の人たちからは敵とみなされます。
また、取材に入る前に米軍のプレスセンターに名前を登録していきます。現場で米兵と遭遇した場合、彼らはプレスカードをチェックして身元を確認します。

Q. ジャーナリストとして欠けてはいけないものはなんですか?
A. 情報の管理と批判的精神です。この二つは最低限ジャーナリストが持ち合わせていなければならないものです。
   情報の管理というのは、自分の取材したもの・メッセージの適切な伝え方や時期を考えること。それから、取材過程で得た秘密や約束したルールをきちんと守るということです。自分の取材に責任を持つということです。
   批判的精神は物事を疑ってかかることです。言葉や文字をうのみにするのではなく、基の事実はどうなのだろうか?個人の思惑がどの程度含まれているか?現状はそれで良いのだろうか?と常に考えて、いわゆる「うら取り」することです。

Q. しばしばメディアにニーズを作り出されている気がしますが、どうお考えですか?
A. 「メディアは国民の鏡」といいます。つまり国民が望むものがメディアに流されているということです。テレビ番組にはスポンサー企業がいて、スポンサーの意向が反映されます。そうしたスポンサー企業で働いているのは一般の国民ですし、消費することで企業を支えているのも一般の国民です。面白い番組がないという状況は、半分は国民に責任があると思います。

Q. 中立というのは、多角的に色々な声を聞くことですか?
A. 中立であるためには自分“個”の存在が必要です。単に情報を垂れ流しするだけではなく、自分の意見や立場を持たなければなりません。自分の意見というのは感情的な意見ではなく、データや経験に基づいたジャーナリストとしての意見です。
   NHKを例にあげれば、彼らの報道姿勢は公正・客観的であるということですから、良し悪しの判断は視聴者に任せるということになっています。しかし、世界が関わりあって成り立っている中で公正・客観的であるためには、自らが強固な独立性を保っていないと「あの人は中立だ」と誰も認めてはくれないでしょう。独立した存在であることを常にアピールして、いかなる人や権力に対しても同じ目線も持ち、毅然としていることが要求されます。特に、戦争のように敵か味方かしかない現場では、独立した個の姿勢を認められなければ、「自分は公正・客観的です」といくら言ったところで単なる「建前」「見て見ぬふり」「ことなかれ主義」に過ぎません。例えば、「戦争に賛成か反対か」と問われた時、「私たちは公正・客観性が信条だから、どちらとも言えないし、言うつもりもない。視聴者の方々が判断してください」と答えたとします。この答えは、メディアという「箱」の姿勢としては認められても、ジャーナリズムの姿勢ではありません。自分の意見を持ち、かつ「私たちはあなた方にも彼らにも加勢しない」と公にはっきりとアピールすることが重要です。

Q. 新聞などを中立だと信じるために、考える力をなくしている人々が多いと思います。どうお考えですか?
A. 変えられるのは今のあなたたちの世代だと思います。パワーのある人々のネットワークなどでしか変えることは出来ないかもしれません。メディア業界は他の業界に比べて、免許や慣習を理由に甘えていると感じることはあります。

Q. 視聴者は取材されている相手を、そのコミュニティーの代表的存在として捉えがちです。取材時、取材対象はどのように選ぶのでしょうか?
A. まず母子家庭や父子家庭、孤児など厳しい環境におかれた人たちを探します。しかし、日本で映像を見る大多数の人たちとかけ離れた存在にしてしまわないように、ごく平均的なイメージの家庭や人を選ぶこともあります。ただ、時間がなくて、どちらか一方を選ばなくてはならないとしたら、厳しい環境におかれた人たちを選びます。援助の手がより必要な人たちだからです。
   取材対象は、通訳やドライバー、現地の人たちの力を借りて探します。

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